私的・日本防衛論


-憲法改訂であれ、解釈であれなんら人びとを守るに未着手である日本-


冷戦構造下という幸運


1994年にカーター大統領(終身前官待遇であるので「元」職は当然使わない)と金主席の二者協議───土壇場の合意で戦争は寸前ぎりぎりで回避されたことをどれだけの東アジアの人びとがなまなましく各々の生身に記憶しているだろうか。

東アジアはそれぞれがそれぞれの国内の再設計を必要としている。

またその後に戦争に突き進む可能性はあった数々の局点はあったけれども、それは幸運という状況によって抑止された(事情を識る者の一人としては墓場まで持っていかねばならないかも察れない)。
しかし2001年9月以降に「北」がこんにちのような、原爆、水爆を量産し始めたことを豪語し、大陸間弾道弾を一基でも打ち上げた時点で戦争は起こっていたことは断言できる。それらを翻って見るに、ただただ東アジアは、残された冷戦構造下という幸運があったのみだと言える。


日本に地域の世界の構造図、設計図が存るのか


そして日本の〝交戦権取得〟がこんにち現実のものとなり(私は憲法改訂を通じないこの種の〝交戦権〟なるものの私生児的な出自に関しては留保し続ける。ただし憲法改訂をきっちり杜撰なく踏み成立するそれは歓迎するという立場だ)、東アジア各国もそれぞれに流動の運動をし始めているようにおもえるが、しかし、それを押しとどめる惰性力たる残された冷戦構造下は取り払われるまでに到ってはいない。これは努力というより、動物的本能がそれぞれに存るというまたの幸運かも察れない。
問題は、日本に地域の世界の構造図、設計図が存るのか───に尽きてくる。私にはそれが存るものとはおもわれない。存るというものがU・S・Aの誰某のカーボン紙で複写された半紙を掲げて見せているようにしかおもえない。
私摘した強力はハリネズミたる列島とする専守防衛の根本からの見直しなしには、その〝交戦権〟は憲法改訂であれ、こんかいの解釈であれ同じことだ。

日本海側に剥き出しの核動力群と、防衛省の庭に桜咲く下の迎撃ミサイルの風情はあまりにも滑稽で杜撰だ。

日本海側に剥き出しの核動力群と、防衛省の庭に桜咲く下の迎撃ミサイルの風情は、どうこからどう診ても滑稽であり杜撰であり、辻褄が合うことがない。また極度に民営化されたためにその輸送網をあちらこちらで寸断されて久しい鉄道網。狭巾でなんらの防御的措置も診られない道路網。都市そのものの緻密性による防衛能力の皆無さ。そして人びとが万が一の場合どこへどういう方法で避難できるかの皆無───。

戦斗機が3・11にどうなったか───。誰もその致命傷さを考えない。日本列島を守るというのは至難の技なのである。

まったく専守防衛とは名ばかり題目のようなもので、実際、日本の国防は何を守るのかが共有されていず、その事実がどこに存るかを採見することができない。
私は改めて、そもそも、〝交戦権〟は憲法改訂後であっても、こんかいの解釈後であっても、なんら日本の人びとを守るに役立たない、本質的にまったく日本の防衛を保障するものではないものであることをを述べておきたい。