幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
御一代記聞書 水で石を穿つ
 至りてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々(193)

大変硬いものに石がある。大変軟らかなものに水がある。しかし、そんな軟らかな水でも硬い石に穴を空けることがあるのだ。これは、いにしえの諺にも「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん(最初の志を途中でやめることなく続けたならば、最も困難な道である仏道さえも到達することができるのだ)」と教えられていることである。どんなに不信であったとしても、聴聞を心がけていったならば、阿弥陀仏の御慈悲によって、信を得ることができる。ただ仏法は聴聞に極まるのである。

(解説)
石は大変硬いもの。反対に水は大変柔らかいもの。そんな柔らかい水が硬い石に穴をあけることがあるのだと始めに蓮如上人は教えられています。
では、この石とは何を喩えているのかと言えば、この後に教えられている不信です。不信とは教えを心から信じることができずに疑うこと。阿弥陀仏がどんな極悪人も見捨てない。どんなにあなたの罪悪が重くとも、どんなにあなたが迷惑をかけるような存在であったとしても、この弥陀は決してあなたのことを見捨てません。必ず浄土まで導きますと誓われていても、その阿弥陀仏の誓いが信じられず、やっぱり都合が悪くなったら見捨てられるのではないかと疑う心です。では、どうして信じることができないのか、それは私たちが生きている世界は穢土だからです。穢土とは苦しみが渦巻く世界。幸せを求めながら果てしなく苦しみ続ける世界。そして、どんなに頑張っても苦しみから離れることはできない世界が穢土。その穢土の中で何が幸せか、どうしたら苦しみから抜け出すことができるか分からず、溺れ、もがき苦しみ続けている私たちを阿弥陀仏はご覧になられ、「かわいそうだ。何とかして救ってあげたい。努力が報われる世界。人生を諦めなくても済む世界があるということを知って欲しい。」と思われ、本願を建てられた。本願とは願い。苦しんでいる人を幸せにしてあげたい。苦しみのない世界へと導いてあげたい。そういう願いを阿弥陀仏は起こされ、その願いを果たすだけの力を身に付けられた。これが阿弥陀仏という仏様。だから、「どんな極悪人でも、私は見捨てないので、信じて欲しい。」と誓われている。でも、穢土の中に長くいた私たちはそんな阿弥陀仏の救いを信じることができない。だから、阿弥陀仏がどんなに極悪人を見捨てないと誓われているのだと聞いても、この世界は穢土。穢土は悪人は見捨てられる世界。だから、何度も何度も見捨てられてきた私たちは、“見捨てません”と聞いても信じられない。「やっぱり見捨てるのではないか」「見捨てません」と言っているのは、都合の良い時だけで、自分の存在が相手にとって都合が悪くなったら、迷惑だと感じたら、簡単に見捨ててくると思っている。これが不信。だから、この世はみんな悪人にならないように、迷惑にならないように、お荷物にならないように必死に自分を取り繕っている。その為、歳を取って、自分が家族の役に立たなくなったと思うと「死にたい」と言い始める。そして、迷惑をかけたくないから、と言って独り暮らしを始める。それほど、みんな見捨てられるのが怖い。だから、お荷物になったり、迷惑な存在になる前に一人になる。一人になれば誰にも迷惑をかけないと思っている。その為、自分の言動で少しでも他人が嫌な顔をしたら、嫌われないように、まわりの人の顔色をうかがって、自分の心を偽る。これが不信。でも、それは大事にされた経験がないから。大事にされるとは、相手の言動が自分にとって嫌であっても、迷惑であっても、大事だから見捨てない。これが大事にされるということ。しかし、大事にされた経験のない人は相手が嫌な顔をすることが怖い。だから、嫌な顔をされないように気を遣うし、嫌な顔をしたら「こんなに私は頑張っているのに、どうして嫌な顔をするの」と相手を責める。嫌な顔をされたとしても、それでも頭を下げて、やってもらえませんか?とお願いすることができない。この時、たとえ相手が嫌な顔をしたとしても、それでも私の為にやってもらえませんかと頭を下げることができるのが、大事にされて育った人だけ。だから、大事にされるとは何でも思い通りになることではない。大事にされるとは、例えば、子供が夕食がもうすぐなのに、お菓子が食べたいと言った。この時、親が子供の感情が納得する所まで、付き合ってあげること。「夕食はもうすぐだから、我慢してね」と子供の心が納得する所まで、親が言うことを聞かない子供の心をなだめたり、よしよししたり、泣いたらあやしたてもらったりすること。これが大事にするということ。子供がうるさいからお菓子を与えたり、「うるさい静かにしなさい」と叱ることではない。この時、お母さんは困った顔をしながらも、それでも子供が大事だから、子供の心が大事だから、だから子供の心が納得する所まで時間をかける。そうやって、心を守ってもらった人だけ大事にされるということが分かる。だけど、ここは穢土。そんなことをしてくれる人は一人もいない。すべては正しいか間違っているかで判断される。そして、正しいことは今すぐしなさい。間違ったことは今すぐやめなさい、と責められる。それに従わなかったなら、容赦なく罰を与えられる。だから、この世界の人は罰を受けたくないから、悪いことをしないようにしている。それでも、悪いことをする人は、その人は悪をしたら罰を受けるというとが分かっていない人だから、もっと厳しい罰、重い罰を与えなければならない。そうしなければ悪いと思ってやめようとしないと信じている。だから、この世で犯罪がなくならないと、もっと重い罰を与えたらいいという声が挙がる。それは悪いことだと分かったらやめると、みんな信じているから。すべて正邪。正しいか間違っているかで割り切ることができると思っている心。どんなに嫌でも悪いことは悪いことだから、やったら駄目と相手の感情を無視して正義を押し付ける心。これが穢土の世界。一切の感情を無視した世界。この世界の中で生きているから。迷惑をかけてはならないと心底すり込まれる。そして、自分も正しい人、善人になろうとして、自分の感情を無視するようになる。どんなに感情は嫌だと言っても、正しことだからやるのだと理性を押し通す。そうされた感情はやがて、自分の思いを出すことが悪い事なんだと思って、自分らしく生きることを諦める。とにかく波風立てなければ良いんだ。常識に従っていればいいんだ。他人から白い目で見られないように陰口を言われないように、自分の心を隠し、上面を取り繕うようになる。これが不信の人。つまり、不信の人とは自分の存在を大事とは思えない人。他人から責められない為に、平気で自分の感情を犠牲にできる人、他人が見ていない時は、どんなに欲に流れても平気な人。自分というものが傷つくとか、自分が可哀想とか、価値のある生き方がしたいと全く思わない人。それでいながら、他人の目を気にする。他人からよく見られようと、他人の見ている前では着飾る。いい人のように振る舞う。また、他人が見ていない時はまるで自分が存在しないかのように感じて、不安になり、自分を誤魔化す為、自分を見なくする為に、自分を感じなくさせる為に欲に流れる。それは欲に流れている間は自分を見なくて済むから、この人は自分の存在を醜いと思っている。だから、自分の感情を出すことは恥ずかしいだと思っている。だから、そんな醜い感情を抑え込んで、いつもニコニコしていればいいと思っている。だけど、少しでも、自分の気持ちを分かってくれる人がいると感情が吹き上がって止められなくなる。感情が「分かってくれ」と怒りになって外に現れる。でも、不信の人は、この感情の訴えに対して冷たい。この怒りの悪い心だと決めつけて、その感情を無くそうとする。感情が今までどれだけ悲しい思いをしてきたか、寂しい思いをしてきた、全く考えようともせずに、悪い心だとピシャと否定する。だから、感情は人生を生きることを諦める。このように生きることを諦めた人の目は光を失い、死んでしまう。まるで魂の抜けた人のように毎日、決められたことに従い、正しいことをやり続ける。これが不信の人なのです。だから、どんなに阿弥陀仏がこの感情を救ってあげる。どんな極悪人でも見捨てないと誓われていると聞いても、「そんなの嘘だ。そんなことはあり得ない」と石のように疑って信じようとはしない。これが“至りて堅きは石なり”。それは、今まで裏切られて裏切られて、裏切られ続けてきたから。何から裏切られてきたか。それは世間から、親から、そして自分から。このように裏切られ続けてきた感情は、もう私は存在してはいけないのだと諦める。その諦めの気持ちは石のように硬い。だから、どんなに仏教を聞いて、阿弥陀仏はこの感情を絶対に見捨てないと聞いても、とても信じることはできない。だから、阿弥陀仏の願いを信じてもらう為には、弥陀の救いを信じられる所までこの感情を支えてくれる人が必要。それが善知識。だから、どんなに相手が迷惑をかけてきても、罪悪が重くても、自分にとって都合の悪い存在になったとしても、それで相手を見捨てることは決してしてはならない。なぜなら、見捨てたら、弥陀の救いを信じてもらえないから。善知識とは弥陀の本願を伝える人。弥陀の御心を伝えることのみに存在している。その善知識が相手が都合が悪くなったからと言って見捨ててしまったら、誰も弥陀の救いを信じられる人はいなくなる。だから、他の誰もが見捨てたとしても、善知識だけは見捨ててはならない。それが善知識なのです。もし善知識が見捨てたら、善知識の存在意義が無くなる。その瞬間から、その人は善知識ではない。もちろん善知識も人間だから、みんながみんな大事にすることはできない。必ず優先順位ができる。時間がなくて大事にできないということはある。でも、都合が悪いからとか、迷惑をかけるからとか、罪悪が重くて苦労するな~という理由で見捨てることは許されない。この人を大事にすると決めたならば、最後まで大事にしてあげなければならない。最後とは、その相手が弥陀の救いを信じられるようになるまで。それまで心を支え、見守り続けなければならない。しかし、その善知識の思いは不信の人から見たら、水のように信じられないもの。どんなに善知識が見捨てないと大事にすると言っても、パフォーマンスではないかと疑って信じようとはしない。だから、時間がかかる。まるで水で石に穴をあけるようなもの。仏法聞いた時は“そうだ、そうだ。弥陀の救いは間違いない」と信じたかのように思っても、それは石が濡れただけ。しばらくすると渇いて、元の石に戻る。だから、善知識から見たら、何度やっても変わらないのではないかと思ってしまう。もし普通の人間だったら、これだけ変わらなかったら、諦めてしまう。この人は駄目だとさじを投げる。でも、善知識は決して諦めない。なぜなら“御慈悲”だから。御慈悲とは阿弥陀仏の慈悲。この阿弥陀仏の御慈悲が善知識にかかっているから、普通の人なら諦めるようなことでも、善知識は諦めない。弥陀の救いを信じてもらえる所まで、相手の感情を大事にし、支え続ける。だから、信を得ることができる。しかし、善知識と言っても人間。どんなに相手を見捨ててはならないと思っても感情がついてゆかない時もある。そういう時はどうするか。善知識は仏法を説くことによって自分の言葉を自分で聞く。それによって、自分の心が浄化され、見捨てたいと思っていた心も見捨ててはならないと変わる。弥陀の慈悲は何もしない人にかかることはない。それは善知識であっても同じ。だから、善知識がどんな極悪人も見捨てることなく感情を大事にしてゆけるのは、それだけ善知識自身が己の説法を通して聴聞しているから。聴聞しているから、相手を見捨ててはならないという気持ちが起きる。聴聞しているから、水で石に穴をあけるように時間のかかることも待つことができる。聴聞とは何よりも善知識にとって必要なこと。善知識が善知識であり続ける為に、仏法を説き続けてゆかなければならない。だから、仏法は聴聞に極まると言われるのです。ここで大事なことは善知識は聞いている人の為に仏法を説いている訳ではないということです。仏法を説くのは聞く人の為だと思っているから、「こんなに自分が苦労しているのに」という気持ちが起きる。「俺はこんなにあなたの為に説いているのに、ちっともあなたは変わらない。こんなことなら説くのではなかった。」と思う。また、聞いている人も「善知識は大変なお疲れの中説いて下さるのだから、真剣に聞かせて頂かなければならない」とまるで善知識を神のように崇め奉るようになってしまう。それは大いなる間違い。善知識も一人の求道者なのです。善知識だからもう求める必要はないという訳ではない。むしろ善知識だからこそ、聞いている私たちよりも修行に励まなければならないのです。道を求めてゆけば、様々な苦しいこと、困難がある。それを乗り越えてゆくには、心のガソリンが必要。この心のガソリンこそ、聴聞によって得られる功徳。だから、善知識は善知識としての道を進む為に、誰よりも聴聞を励まなくてはならない。そういう意味で仏法は聴聞に極まると言う言葉は善知識に向けられた言葉でもあるのです。


御一代記聞書 無条件服従
善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。(192)

善知識の教えに対して、やる前から、自分には“できない”と諦めて、やろうともしないことは、とんでもない間違いである。たとえ自分ではとてもできないと思うようなことであっても、教えに対して、“まず、やってみよう”と実践してゆくことが大切なのだ。
(解説)
ここで、蓮如上人は、善知識の仰せに対して、自分にはできないと思うようなことであっても、始めから、自分にはできないからやらないと諦めるのではなく、まず、できると思ってやりなさいと勧めておられます。これは何故かと言えば、仏教は聞思修の教えだからです。聞思修とは、聞とは、仏法の教えを聞くこと。聴聞。仏法にどんな教えが説かれているか、よく聞いて頭で納得すること。
次に、思とは、頭で納得した仏法の教えを我が身に引き当てて、自分だったらどういうことを言われているのだろうかと考えること。例えば、整理の話を聞いたならば、整理とは“こういうことなんだ”と頭で理解して終わりではなく、自分の持ち物の中で、まだ整理できていないものはないだろうか、と考える。これが思。そして、考えたら、今度は実践に移す。これが修。ここで大事なことは、実践するのは、教えを深く理解する為。例えば、整理の話ならば、整理とは、どういうことか、教えを聞いて、頭で納得しただけでは分からない。だから、実践に移す。つまり、実際に使わない物を捨ててみる。ここで捨てるのは、整理とは何かを知る為。頭でどんなに理解しても、それで整理が分かったということではない。仏教とは離言真如。離言真如とは、仏教で説かれる真理(真如)とは、言葉を離れたもの。だから、どんなに言葉で説明しても、それだけでは、仏教で教えられる真理は分からない。その真理の中に整理も含まれる。その為に、どんなに仏法を聞いて、整理とはこういうことなんだと頭で理解しても、それだけでは整理は分からないのです。だから、実践をする。実践をするのは、整理とは何かを知る為。言われた通りにやっていれば仏教が知らされる訳ではない。言われた通りにやるのが、仏教ではない。言われた通りにやるとは、それを実践すれば、前に進むだろうと思ってやっていること。つまり、教えの通り、実践することによって、仏教という道を進んでゴールに到達できると思っている。この発想自体が間違い。この発想を持っているので、一つの話を聞いて、それを理解したら、次の話を聞いて、そうやって、次々と話を聞いてゆけば、いつかゴールに到達すると思っている。しかし、このような道が仏教ではない。では、仏法を求めるとは、どういうことか。それはジグソーパズルを完成させてゆくようなもの。ジグソーパズルの一つ一つのピースが、教えの一つ一つ。整理もその一つ。その一つを深く理解することによって、一つのピースが手に入る。だから、仏教を聞いてゆくということは、まず、ジグソーパズルのピースを手に入れること。でも、どんなにたくさんのピースを手に入れても一つ一つがバラバラだと、絵が完成することはないように、どんなに一つ一つの仏教の教えを理解しても、それだけでは仏教とは何かが分からない。だから、次にバラバラのピースをつなげてゆくという作業が始まる。つなげるとは、この教えとこの教えはどんな関係かを考えること。つなげてゆくと、段々と仏教という絵が見えてくる。それは全部のピースを集めなくても、今まで集めたピースをつなげて仏教という絵が何となく分かれば、その時、“仏教とはこういう教えなんだ”と分かる。それが悟りを開いた時。だから、勘のいい人ならば、わずかのピースだけでも、仏教とは何かが分かるし、どんなに鈍臭い人でも、ピースをすべて集めれば分かる。でも、大事なことはピースを一つも持っていなければ、絶対に仏教は分からないということ。だから、仏教をどれだけたくさん聞いても、一つのことを深く理解しなければ意味がない。その為に実践をするのです。つまり、仏教とは言われたことができなければ意味がないという教えではない。できなければできないで、何かが知らされる。その知らされたことが、言われたことができるようになることよりも大事なことなのです。でも、できる、できないということにとらわれている人は、善知識の教えに対して、“できない”と始めから諦める。つまり、できないことは、やっても意味がないと思っているのです。これは根本的に仏教が分かってない。だから、蓮如上人は大なる浅間しきことだと言われたのです。つまり、仏教とは何かが全く分かっていない。仏教とは言われたことをやる教えではない。言われたことを実践することを通して、言葉にならない真理を体得することが目的。だから、できないと思うようなことでもやってみようと思うことが大事なのです。そうやって、やってみることによって、知らされることがある。その知らされたことが大事なのです。でも、始めから、どうせやっても、できないと思って諦めていたら、どんなに実践しても、何も知らされない。だから、蓮如上人はできないと思うようなことがあっても、まず、できると思ってやりなさいと勧められたのです。つまり、私たちが教えを実践するのは、言われたことをやる為でもなければ、できるようにすることでもない。仏教で教えられる真理。それは言葉で表すことのできないものだから、その言葉に表すことのできない真理を体得する為に実践してゆくのです。

御一代記聞書 言語道断の悪
「信をとらぬによりて、わろきぞ。ただ、信をとれ」と、仰せられ候う。善知識の、「わろし」と、仰せられけるは、信のなきことを、「わろき」と、仰せらるるなり。しかれば、前々住上人、ある人を、「言語道断、わろき」と、仰せられ候うところに、その人、申され候う。「何事も、御意のごとくと存じ候う」と、申され候えば、仰せられ候う。「ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきか」と、仰せられ候うと云々(186)

「善知識を心から信じることができないから、苦しみから離れることができないのだ。ただ善知識を心から信じなさい」と仰せられた。善知識が「悪い」と言われることは、善知識を心から信じられないことが「悪い」ことなのだ。だから、蓮如上人もある人に対して、「言語道断の悪だ」と注意されたことに対して、その人が「私は何事、仰せの通りに実践しています。」と答えたことがあった時に、それに対して、蓮如上人は「お前は何事も仰せの通りに従っていると言うが、それはすべてお前の計らいが入ったものだ。だから、仰せの通りに従っているつもりで仰せに従っていないのだ」と言われたのです。

(解説)
「信をとらぬよりて悪きぞ。ただ信をとれ」
ここで、信とは信心のこと。この場合の信心とは、善知識を心から信じることです。善知識を心から信じることができないから悪い。この場合、悪いとは、そのために苦しみから離れることができないということ。つまり、善知識を心から信じることができないから、どんなに頑張っても、苦しみから離れることができない。だから、善知識のことを心から信じることができないからこそ、信じて従いなさい、ということが、「信をとらぬによりて悪きぞ。ただ信をとれ」という意味。では、どうして善知識を心から信じることができないのでしょうか。なぜなら善知識は私たちにとって都合の悪いことを言うから。それは、“人間は必ず死ぬ”ということです。善知識は死を大前提にしいて物事を考えている。それに対して、私たちは死なないことを大前提にして物事を考えている。だから。善知識の言うことが信じられないのです。では、死を大前提にして考えるとはどういうことか?人間は必ず死ぬ。そして、死ぬ時は何一つ持ってゆくことはできない。持って行けるのは、己の業だけ。それ以外の自分の執着しているものは何一つ持ってゆくことはできない。この厳粛な事実を受け止めることです。
私たちは思い通りに物事が進んだら幸せになれると思っています。この場合、思い通りに進むとは、無常にぶつかって、我が崩されるということ。もし、これだけは間違いないと思っていたものが崩されたならば、不安になるし、苦しいこと。だから、私たちは無常が来なければ安心して生きてゆけると思って、思い通りに物事が進めば幸せになれると思っている。でも、どんなに人生が思い通りに進んだとしても、最後には死が待っている。死とは信じていたものすべてに裏切られる時。執着しているものすべてと別れて、丸裸になってたった一人で旅立ってゆかなければならない時でもあります。たった一つのことでさえ思い通りにならなかったら、不安になって苦しむ私たちが、すべてのものから裏切られるのが、“死”。その心の衝撃は如何ほどのものなのでしょうか。これを後生の一大事と言われ、この死という大問題を解決することが、仏教の目的なのです。だから、生きている時、少しでも無常を経験しなければならない。無常とは思い通りにならないことにぶつかること。そうやって、思い通りにならないことにぶつかって、不安になって、苦しんで、それでも乗り越えて、少しでも無常を受け入れてゆかないといけないのです。そうしなければ、とても死という大問題を解決することはできない。だから、善知識は思い通りにならないことを勧められる。ところが、私たちは死ぬと思っていない。死ぬと思っていないから、思い通りになったら、幸せになれるという迷いをカンカンに信じています。だから、無常という都合の悪い真実を見せつける善知識の教えを信じることができない。そのため善知識が勧められたことに対して、「どうしてこんなことを勧められるのか。こんなことをしたら、苦しくなるではないか。それよりも、もっと楽になる方法を教えて欲しい」と思ってしまうのです。でも、そうやって、人生思い通りに生きることが善いことだと思うのは、目先のことしか見えてないし、考えていないから。その先に待っている死のことなんて、微塵も考えていないから思えること。そんな人はたとえ自分は死んでゆくのだなと考えても、その死によって何が起きるか、何を失うか考えようとはしません。それは考えるのが怖いから。だから、死は自分とは関係のない遠い先のことだと思って、みんな生きているのです。では、考えるのが怖いからと言って、考えないようにしていたら、死はやって来ないのでしょうか。この地球上には毎日毎日、多くの人が死んでいます。でも、その人たちの中の一人でも自分の死を考えていた人なんかいません。たとえ癌を宣告されて、余命幾ばくもないと知っていても、明日は生きているだろう。あと一息は吸えるだろうと思っていたはずです。でも、そんな私たちの儚い願いはもろくも崩れ去り、無常はいとも簡単に私の命を奪ってゆくのです。仏教に、“出息入息不待命終”という言葉がありますが、これは出息とは吐く息。入息とは吸う息。ですから、出息入息とは、呼吸のこと。私たちは当たり前のように、吐いたら吸える。吸ったら吐けると思っていますが、その吐いた息が吸えない時。吸った息が吐き出せない時が必ず来るのです。その時、どんなに待ってくれ、あとちょっと生かしてくれと泣き叫んだとしても、死は待ってはくれないのです。これが“不待命終”ということ。だから、死ぬとは思えない私に突然やってくるものなのです。
死ぬまで死なないと思っているものが私たち。臨終まで何とかなると思っているものが私たち。でも、そうやって、死を考えることを先送りにしている間に、本当に死がやってくる。そのとき、うろたえて、何とかしようと思っても手遅れなのです。仏教は死ぬと思っていないからこそ、聞かなければならないものであり、死ぬと思えるようになる日なんて永遠に来ないのです。でも、このように言われても私たちはなかなか分からないものだから、善知識は死を大前提にして教えを説かれるのです。死ぬと思えないものに死ぬと思えるようになってから教えを説いていては手遅れなのです。死ぬと思えないからこそ、死を大前提にして、教えを説かなければ、臨終までに間に合わないのです。だからこそ、善知識の教えは信じられない。信じられる訳がないのです。それは、私たちは全く自分が死ぬとは思っていないから。それでも、教えを聞いてゆくことによって、少しずつ我が身の死を受け入れ善知識が信じられるようになってゆく。だから、死ぬと思えないからこそ、善知識を信じられないからこそ、仏法を聞かなければならないのです。そうやって、仏法を聞いてゆくことによって“私も死ぬのだな”と知らされてゆく。それは、頭で分かったということでなく、心が死を受け入れてゆくいうこと。では、死を受け入れると何が変わるか。それは執着が段々と少なくなる。執着とはこだわり。“このようにしなければならない”とか、“この時はこうするのが正しい”とか正邪を問題にする心。また、人や物に対して執着する心。私たちは自分は死なないと思っているから、一度手に入れたら、永遠に離れることなんてないと思って執着する。でも、どんなに死なないと思っていても、この世に死なない人はいない。だから、すべてのものは一時、私の所にやって来ている借り物に過ぎない。借り物だから、最後は返さないといけない。その返す時が、自分が死ぬ時。それまで私は預かっているだけ。この世に本当に自分のものになるものは何一つない。この世で手に入れたものすべてを置いて、業を抱えて死んでゆかなければならない。でも、全人類はその真実を知らず、一生涯をかけて最後には置いてゆかなければならない宝や財産をかき集める為に、数え切れないほどの罪悪を犯し、その罪悪を全部持って死んでゆかなければならないのです。
こんな最期にならない為に仏法は聞かなければならないのです。それなのに、善知識を信じられず、教えを真面目に実践しようとしないことは、たった一つの助かる道を自らぶち壊しているような行為。だから、蓮如上人は“悪きぞ。ただ信を取れ”と言われているのです。信を取れとは、善知識を信じることができないからこそ、信じなさい、ということ。それは、私たちの頭の方が狂っているから。仏教ではこれを顛倒と言われ、真理と逆さまなことを考えているものが私たちだから、信じることができなくても、信じて教えに従ってゆかなければならないのです。善知識が「悪い」と言われることは、善知識の教えを信じてくれないことが悪いと言われているのです。ここで悪いとは、単に悪いことだから、やるなという意味ではなく、こんな考えを持っているから救われない、助からないのだということ。こんな考えとは、自分が納得したことしか従わないという心。逆に言うと、納得しなければ従えないという心です。もちろん、善知識の教えすべてが納得できないという訳ではない。それどころか、ほとんどが納得できる。でも、その中にどうしても納得できない所がある。それが自分が執着している所。そして、その執着は自分が死ぬとは思えない所から起きている。だから、死ぬと思えない私たちが、執着して納得できない所を納得するなんて、とてもできない。でも、それは善知識の教えが間違っているのではなく、私の頭が狂っているだけ。だから、納得できなくても従わなくていけないのです。そうやって、納得できなくても、教えに従うことによって、少しずつ我が身の死を受け入れることができるのです。だから、蓮如上人は、ある人に対して、「言語道断の悪いことだ」と注意されたことがあった時に、その人が「私は今まで仰せの如く従っています。」と答えたことに対して、「お前は何事も仰せの通りに従っていると言うが、それはすべてお前の計らいが入ったものだ。だから、仰せの通りに従っているつもりで、仰せに従ってないのだ」と言われたのです。でも、この方は仰せの通りに従っていると思っています。では、本当の意味で教えに従うとはどういうことなのでしょうか。それは私たちはどんなに教えに従おうと思っても、自分の都合の良く教えを聞いてしまうものであるということを知ることから始まります。なぜ都合良く聞いてしまうのかと言えば、死ぬと思いたくないから。だから、無意識のうちに無常から逃げるように聞いてしまう。その為に教えに従っているつもりで、従ってないのです。しかも、教えに従っていない人ほど、自分は教えに従っていると自惚れている。だから、蓮如上人は、そんな自惚れている人に対して、“言語道断の悪だ”と注意されたのです。このことから、私たちはどんなに教えを正しく聞いたとしても、自分の都合良く教えをねじ曲げてしまうものだということを知らなければならない。じゃあ、どうしたらいいか、どうしたら正しく教えが聞けるか。それは善知識から何度も叱って頂く以外にはないのです。そうやって、叱って頂くことによって、少しずつ自分の聞き誤りに気付き、自分の間違いを正してゆくことができるのです。

御一代記聞書 仕事をやめて聞け
「仏法には、世間のひまを闕きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき」由の仰せに候う。「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(讃弥陀偈和讃)と、『和讃』にあそばされ候う。(155)

「仏法は、世間事を止めてまでも聞かなければならないもの。だから、時間ができたら、仏法を聞けばいいと思って、自ら時間を割いてまで聞こうとは思わないことは浅間しいことである。仏法は“今はこれが忙しいから明日聞けばいい”と後回しにできるものではないのだ。」とある時、仰った。このことは「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(たとい大宇宙が火の海になったとしても、その中突破して求めてゆかなければならないものが仏法。だから、どうしても火の海を突破しなければならないと思ったならば、真剣に仏法を聞かずにはおれなくなるし、そうやって聞いてゆくことで、どんな苦しい現実からも逃げずに向きあうことができる不退の身になることができる)と『和讃』にも教えられていることなのである。

(解説)
仏法は世間事を止めてまでも聞かなければならないものである。なぜ、そこまでして聞かなければならないのかと言えば、人生には限りがあるから。どんな人も最後は死んでゆけなければならないから。その死を乗り越える為に聞くものが仏法。だから、世間事と重さが違う。それを世間事に忙しく、暇ができたら仏法を聞けばいい、と思っているのは、自分は死なないと思っているから。いつまでも生きておれると思っているから、世間の人の付き合いが大事になる。「あれも行かなくちゃ、これもしなくちゃ」と世間事に振り回されて、仏法を聞くことができないのです。でも、考えてもみて下さい。そうやって毎日、「大事だ、大事だ」と言いながら、世間事に忙しく動いていますが、それにキリがありますか?そうやって一生懸命、世間事に頑張っていたら、終わりが来るのですか---。どんなに世間事が大事だからと言って、世間事を優先していたら、どうしても世間事に振り回されて、仏法を聞くときには疲れきってしまいます。その為に、明日の世間事の為に今日の仏法はお休みしようとなってしまう。そうやって世間事に振り回されて、臨終が来た時に後悔しませんか?臨終が来なくても、不治の病にかかっただけで後悔すると思います。「なぜもっと聞いておかなかったのだろう。」時間はあったはず、なのにどうして真剣に求めなかったのだろう。どうして世間事に振り回されたのだろう。後悔とは後に悔いると書くが、先に悔いる人なんていません。それほど私たちは自分が死ぬとは思っていないのです。死ぬが死ぬまで死ぬとは思っていないものが私たち。そんな私が死ぬと思えるようになってから聞こうと思っていたら、手遅れ。仏法に明日はないのです。
だから、たとえ大宇宙が火の海になったとしても、その中、突破してでも仏法を聞かなければならないのです。ここで火の海とは、現実と向き合うこと。それは我が身の死を意識するまでは、私たちは自分の人生を真面目に考えることも、現実と向き合うこともありません。だから、自分の人生にとって仏法が大切だとは思えず、どうして仏法を聞かなければならないのか分かりません。その為に仏法を聞かなくても、こうやって生きていたら、人生何とかなるさ、ぐらいに思っています。でも、現実と向き合うことから逃げて、世間事に走った時間は、まるで早送りをしているように五年、十年が瞬く間に過ぎ去ってゆく。そして、いつの間にか、歳を取っています。そうやって、年齢的に死まで、そう遠くはないと分かっていても、それでも自分が死ぬとは思えず、世間事や欲に逃げている間に命が尽きてゆきます。だから、死ぬとは思えないからこそ、今、現実と向き合わなければならないのです。でも、今まで我が身の死を真面目に考えることなく、現実から逃げてきた私たちにとって、現実と向き合うことは、まさに恐怖。火の海に飛び込んでゆくような覚悟が必要です。だから、どんなに頭では現実と向き合うことが大切だと分かってはいても、実際はそんな恐怖を乗り越えて、火の中に飛び込んでゆくことなんてとてもできません。だからこそ、私たちは仏法を真剣に聞かなければならないのです。我が身の死をまともに考えることができないものだからこそ、死を考える為に、現実と向き合う為に、仏法を聞かなければならないのです。始めから現実と向き合える人なんていません。始めから火の中に飛び込める人もいない。でも、どんなに現実から逃げていても、死から逃げることはできない。どこかで向き合わなければならない時が必ず来るのです。そして、それまでは、どんなに歳を取ったとしても人生は始まっていない。現実と向き合ってからが、私の人生のスタートなのです。現実と向き合った時が人生の始まり。そこから、たとえ一日しか生きられなかったとしても、私の人生には意味がある。一カ月生きたら、その一カ月。一年生きたら、その一年。それは何十年生きてきた時間よりも、ずっと価値があるかけがえのない時間なのです。私たちが現実と向き合った時、本当の意味で仏法の大切さが分かる。自分の人生にとって何が本当に大事か分かるから。その大事なことをしてゆく為に仏法を聞かなければなりません。つまり、仏法とは目的ではなく、手段。大事な目的を果たす為に仏法を聞かなければならないのです。これが大宇宙が火の海になっても仏法を聞いてゆくということなのです。


御一代記聞書 謗る者があってこそ
「仏説に、信謗あるべきよし、ときおきたまえり。信ずる者ばかりにて、謗ずる人なくは、ときおきたまうこと、いかがと思うべきに、はや、謗ずるものあるうえは、信ぜんにおいては、必ず往生決定」との、仰せに候う。(153)

仏説とは、仏の教え。その仏の教えに「この仏教を信じる人もあり、謗るものもいる。」と説かれている。だから、みんなこの教えは素晴らしい、と信じてくれる人ばかりで、謗る者がいなかったとしたら、「自分の説いている教えは本当に正しいのだろうか」と疑ってしまう。だけど、仏説の通り、謗る人がいるからこそ、「信じている私は間違いなく往生できる」と安心することができるのだ。

(解説)
私たちは思い通りになったら幸せになれると思っている。正しいことを言ったら、みんなそうだそうだと分かってくれると思っています。でも、真理を説かれた仏教でさえ、信じる人もあれば、謗る人もいる。みんながみんな信じてくれることはないし、自分がどんなに正しいことを言ったとしても、それで相手が聞いてくれる訳ではありません。だから、聞いてくれなかったからと言って、自分が言ったことが悪かったのではないかと自分を責める必要はないし、聞いてくれない相手が悪いのだと相手を責める必要もない。この世は思い通りになることもあれば、ならないこともある。            
 私たちは思い通りになることが幸せだと思っているが、蓮如上人はここで「思い通りにならないからいいんだ。すべて思い通りに進んだならば、本当は私は正しい道を進んでいるのだろうかと返って疑わしくなる」と言われています。私たちの考えと蓮如上人の考えは逆。きっとこのお言葉は「人生は思い通りにならないことが一杯です。どうしてこんなに思い通りにならないのでしょう。」と聞いてきた人にこのように言われたのだと思います。つまり、「思い通りにならないからいいんだ。」ということ。これを聞いた人が拍子が抜けるように感じ、蓮如上人は一体何を言っているのだろうかと思ったに違いありません。でも、蓮如上人は長い人生経験から、思い通りにならない方が幸せだったから、このように言われたのだと思います。人生は思い通りにならないから、悩む。思い通りにならないから、どうしたら幸せになれるかと真剣に教えを聞くのです。万事何事も思い通りに進んでいる人がどうして真剣に教えを聞こうと思うでしょうか。私たちの頭は顛倒。真理と逆さまなことばかりを考えています。でも、逆さまなことを考えていながら、自分は正しいと自惚れているのが私たち。そんな私たちが思い通りに人生を生きてしまったら、仏法を聞こうと思うでしょうか。仏法とは自分にとって都合の悪い死とか、罪悪とか、そんなことが説かれています。だから、仏法は耳に痛い話ばかり、そんな話を思い通りに物事が進んできた人が聞けるでしょうか。人生とは思い通りにならないことだらけ。それを思い通りに物事が進むと思っているのは、嫌な人との付き合いは避けて、自分の言うことを“ハイハイ”と聞いてくれる人たちとだけ付き合ってきたから。そして、嫌なことや都合の悪いことは誰かに押し付けてきた人でもあります。もし、嫌なことから逃げず、現実と向き合っていたならば、どんな正しいことを言ったとしても、必ず聞いてくれる訳ではないことも、信じてくれる訳ではないことも分かる筈です。それと同時に自分が正しいと思っていることも、自分の中だけで正しいと思っているだけで、まわりの人から見たら、正しくないのかも知れないと分かってきます。このように都合の悪いことからも逃げずに向き合ってきた人は、自分のことを冷めた目で冷静に判断することができるようになります。そういう意味で思い通りになるよりも、ならない方が人生と向き合い、悩み、考えて、真剣に仏法を聞くとので、思い通りにならないことはいいことなんだと蓮如上人は教えられているのです。