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2015.09.21
そろそろスポンサーサイトを貼られてしまうので書く。
→おちょこブログ2012年記事 「スポンサーサイト」
ブログの更新がたまに途絶えるのは、忙殺されているからでも本田ばりのスランプに陥っていて猛烈に叩かれているからでもない。
面倒くさかったからだ。
誰が待っているわけでもなく、当然お金にもならない僕のブログは、面倒くさいという理由で書かないことを許されている。嗚呼。
逆にいえばそんな類のものを書き続けてきたというのは、我ながら至難の技である。
僕はこんなに頑張れる子だったのかと。
始めちゃったから何となくやめられないとか、今までそうしてきたからこれからもそうする、みたいな考え方は、得てして弊害になる。
無駄な税金つぎ込んで着手しちゃった公共事業とか、印鑑主義とかね。
僕はそういうのに批判的な立場だし、そういう記事も書いてきた。
でも、始めちゃったから何となくやめられないし、今まで書いてきたからこれからも書いちゃうんだよなぁ…。
おわり
→おちょこブログ2012年記事 「スポンサーサイト」
ブログの更新がたまに途絶えるのは、忙殺されているからでも本田ばりのスランプに陥っていて猛烈に叩かれているからでもない。
面倒くさかったからだ。
誰が待っているわけでもなく、当然お金にもならない僕のブログは、面倒くさいという理由で書かないことを許されている。嗚呼。
逆にいえばそんな類のものを書き続けてきたというのは、我ながら至難の技である。
僕はこんなに頑張れる子だったのかと。
始めちゃったから何となくやめられないとか、今までそうしてきたからこれからもそうする、みたいな考え方は、得てして弊害になる。
無駄な税金つぎ込んで着手しちゃった公共事業とか、印鑑主義とかね。
僕はそういうのに批判的な立場だし、そういう記事も書いてきた。
でも、始めちゃったから何となくやめられないし、今まで書いてきたからこれからも書いちゃうんだよなぁ…。
おわり
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水難事故論
2015.08.25
今夏の水難事故での死者は30人近く。
熊野でウミガメを丸呑み途中の3メートルのホオジロザメが定置網にかかった(なんだよそれ!)というニュースがあったけど、あんなのはゴシップで、あくまでもほぼ全てが溺死なわけだけど、その具体的な状況は死人に口なしなので分からない。
ほとんどは、「気付いたら見失った。」という連絡が海保に入る。
気付いたら・・・と誰も言うが、子供の遊泳については片時も目を離さないのが当然としても、大人同士は意外と見ていない。
見ていないのだから、気付いたらも何もない。
大人同士でも常に見ていなきゃダメだと言いたいわけじゃない(そんなの楽しめないしね。)し、見ていたところで助かったとも思わないけれど、シュノーケルでの事故が最も多いと聞いて、主な原因はマスククリアとシュノーケルクリアを知らないからじゃないかと想像する。
海が荒れていれば入らず、かつ然るべき装備を身に着けていて、それでも溺れるというのは、パニックに他ならないと。
マスクに水が入って、とりあえずもがく。
もがいて息があがり、呼吸を求めてさらにもがいて今度はシュノーケルに水が入る。
シュノーケルに入った水を飲んでいよいよ本格的なパニックに陥る。
凪で「流された」というのも違和感のある話で、結局はパニックという非常に内的な要因だと。
もちろんそれ以前の問題として、サーフボードもフィンも無しでウネリのある海に入るのは論外。
荒れている海に入る必然性なんて僕たちには何処にもない。
海は、高校三年間練習してきた成果を清宮クンと競い合う場所ではない。
どんなに練習をしたって、僕らの頬にエラがニョキニョキと生えてくることは絶対にないのだから。
それが分かっていて、それでも入りたくなるほど海が綺麗だったりするから厄介なんだけど、海の中は人間にとって果てしなく非日常だということを肝に銘じておかなければならない。
事故は確率論だと僕は思っている。
車も、結局はたくさん運転する人のほうが事故に遭う確率は高い。
毎週海に行く僕は、隔週で海に行く人の2倍気を付けなければならないし、僕がどんなに気を付けたところで、それこそホオジロザメにパクつかれる可能性は永遠に残っている。
全く海に入らない人よりも、その可能性を下げることは不可能だ。
アウトドアをしていると、過酷な環境に身を置くことで生きていることを実感するみたいな美学をよく耳にするけれど、死んでしまったらそれはただただ苦しく悔しく、そしてただの迷惑でしかない。
一見うっとおしく大袈裟な気象予報も警察の遊泳禁止の呼びかけも、皮肉なことに僕らの税金で成り立っている。
最大限活用しなきゃやってらんねえってなもんです。
自分のためにね。
おわり
熊野でウミガメを丸呑み途中の3メートルのホオジロザメが定置網にかかった(なんだよそれ!)というニュースがあったけど、あんなのはゴシップで、あくまでもほぼ全てが溺死なわけだけど、その具体的な状況は死人に口なしなので分からない。
ほとんどは、「気付いたら見失った。」という連絡が海保に入る。
気付いたら・・・と誰も言うが、子供の遊泳については片時も目を離さないのが当然としても、大人同士は意外と見ていない。
見ていないのだから、気付いたらも何もない。
大人同士でも常に見ていなきゃダメだと言いたいわけじゃない(そんなの楽しめないしね。)し、見ていたところで助かったとも思わないけれど、シュノーケルでの事故が最も多いと聞いて、主な原因はマスククリアとシュノーケルクリアを知らないからじゃないかと想像する。
海が荒れていれば入らず、かつ然るべき装備を身に着けていて、それでも溺れるというのは、パニックに他ならないと。
マスクに水が入って、とりあえずもがく。
もがいて息があがり、呼吸を求めてさらにもがいて今度はシュノーケルに水が入る。
シュノーケルに入った水を飲んでいよいよ本格的なパニックに陥る。
凪で「流された」というのも違和感のある話で、結局はパニックという非常に内的な要因だと。
もちろんそれ以前の問題として、サーフボードもフィンも無しでウネリのある海に入るのは論外。
荒れている海に入る必然性なんて僕たちには何処にもない。
海は、高校三年間練習してきた成果を清宮クンと競い合う場所ではない。
どんなに練習をしたって、僕らの頬にエラがニョキニョキと生えてくることは絶対にないのだから。
それが分かっていて、それでも入りたくなるほど海が綺麗だったりするから厄介なんだけど、海の中は人間にとって果てしなく非日常だということを肝に銘じておかなければならない。
事故は確率論だと僕は思っている。
車も、結局はたくさん運転する人のほうが事故に遭う確率は高い。
毎週海に行く僕は、隔週で海に行く人の2倍気を付けなければならないし、僕がどんなに気を付けたところで、それこそホオジロザメにパクつかれる可能性は永遠に残っている。
全く海に入らない人よりも、その可能性を下げることは不可能だ。
アウトドアをしていると、過酷な環境に身を置くことで生きていることを実感するみたいな美学をよく耳にするけれど、死んでしまったらそれはただただ苦しく悔しく、そしてただの迷惑でしかない。
一見うっとおしく大袈裟な気象予報も警察の遊泳禁止の呼びかけも、皮肉なことに僕らの税金で成り立っている。
最大限活用しなきゃやってらんねえってなもんです。
自分のためにね。
おわり
ローカルと呼ぶ前に
2015.08.09
連日の猛暑に嫌気が差しても、総称を多用してはならない。
とかく理屈っぽい人は総称を好んで使うけれど、「政治家というのはね…」と一括りにすることで説明が綺麗にまとまると思ったら大間違いで、具代的な個人の話でない限り、それは机上の空論に過ぎない。
それどころか、総称というのは概してネガティブなイメージを持つ。というか持たされている。
政治家、役人、在日、保険屋さん、姑、等々。
これらの呼称を耳にして、ポジティブなイメージを抱く人はかなり少ないでしょう。
そしてその最たる例がサーフィンで言うところの「ローカル」だと僕は思っている。
一応書くが、週末に大阪市内から伊勢までサーフィンに行く僕は「ビジター」と呼ばれ、伊勢に住んでいる地元のサーファーは伊勢の「ローカル」と呼ばれる。
「ローカル」は、サーフィンのポイントを調べていると必ず出てくる、まさにキングオブ総称だ。
「ローカルが多い。」から始まって、「ローカルが大切にしているポイント。」という説明があったり、しまいには「ローカルとのトラブルも多い。」などと書かれていたりする。
そうして、僕らはローカルと呼ばれる具体的な人物をひとりも知らないまま、そのイメージを敵対する者として作り上げていく。
「あのポイントはローカルがキツい。」とか、他所者である僕等が知った顔で言っちゃっている以上、その溝は永遠に埋まらない。
ローカルなんていう具体的個人は存在し得ない。
いるのは、伊勢にお住まいの鈴木さんであり田中さんであり佐藤さんだ。
総称で心ない発言をすると、双方の確執は大きくなるばかりで。
実際、街中で政治家批判をする人のほとんどは、政治家の知り合いなんて一人もいないんじゃないか。
かっこよく総称を使ったところで、それは聡明でもなんでもなくて、ただのコミュニケーションの放棄だ。
大して知らないローカルを語る前に、隣のアンちゃんに声を掛ける肝っ玉を。
それが難しいんだけども。
海って何故かコワモテの人が多いからね!
おわり
とかく理屈っぽい人は総称を好んで使うけれど、「政治家というのはね…」と一括りにすることで説明が綺麗にまとまると思ったら大間違いで、具代的な個人の話でない限り、それは机上の空論に過ぎない。
それどころか、総称というのは概してネガティブなイメージを持つ。というか持たされている。
政治家、役人、在日、保険屋さん、姑、等々。
これらの呼称を耳にして、ポジティブなイメージを抱く人はかなり少ないでしょう。
そしてその最たる例がサーフィンで言うところの「ローカル」だと僕は思っている。
一応書くが、週末に大阪市内から伊勢までサーフィンに行く僕は「ビジター」と呼ばれ、伊勢に住んでいる地元のサーファーは伊勢の「ローカル」と呼ばれる。
「ローカル」は、サーフィンのポイントを調べていると必ず出てくる、まさにキングオブ総称だ。
「ローカルが多い。」から始まって、「ローカルが大切にしているポイント。」という説明があったり、しまいには「ローカルとのトラブルも多い。」などと書かれていたりする。
そうして、僕らはローカルと呼ばれる具体的な人物をひとりも知らないまま、そのイメージを敵対する者として作り上げていく。
「あのポイントはローカルがキツい。」とか、他所者である僕等が知った顔で言っちゃっている以上、その溝は永遠に埋まらない。
ローカルなんていう具体的個人は存在し得ない。
いるのは、伊勢にお住まいの鈴木さんであり田中さんであり佐藤さんだ。
総称で心ない発言をすると、双方の確執は大きくなるばかりで。
実際、街中で政治家批判をする人のほとんどは、政治家の知り合いなんて一人もいないんじゃないか。
かっこよく総称を使ったところで、それは聡明でもなんでもなくて、ただのコミュニケーションの放棄だ。
大して知らないローカルを語る前に、隣のアンちゃんに声を掛ける肝っ玉を。
それが難しいんだけども。
海って何故かコワモテの人が多いからね!
おわり
新幹線こだま論
2015.07.20
下りの新幹線こだまの自由席は夏の三連休最終日でも猛烈にガラガラで、一車両に一人なんてこともザラどころかザラザラだ。
それはもうやりたい放題かと思いきや、実際は特にやることはなくて、前の席を回転させてこっちに向けて足を伸ばして寝るくらいなんだけども、この瞬間、この車両は僕だけの為に存在している。
この車両単体で考えれば言うまでもなく赤字運行で、下手をすれば赤字ウンコである。
でもね、何にしてみたって、世の中にはこういう「捨て車両」の存在が必要不可欠だ。
寿司屋が採算度外視で出すお一人様限定一皿の100円の大トロしかり、宇佐美のためにペナルティーエリア内で潰れ役になってチャンスボールを生み出すパトリックしかり、ミスチルのアルバムの7曲目あたりしかり。
捨て車両の存在があってこそ、お盆や年末年始の乗車率100%超えの「のぞみ」が存在し得る。
そこで充分、僕に「くれてやった」こだまの一車両分の元は取れる。
そうやって新幹線の黒字運行は成立している。気がする。
明日食うメシのことだけ考えて何も捨てられなければ、いずれは明日食うメシにも困ることになる。
おわり
それはもうやりたい放題かと思いきや、実際は特にやることはなくて、前の席を回転させてこっちに向けて足を伸ばして寝るくらいなんだけども、この瞬間、この車両は僕だけの為に存在している。
この車両単体で考えれば言うまでもなく赤字運行で、下手をすれば赤字ウンコである。
でもね、何にしてみたって、世の中にはこういう「捨て車両」の存在が必要不可欠だ。
寿司屋が採算度外視で出すお一人様限定一皿の100円の大トロしかり、宇佐美のためにペナルティーエリア内で潰れ役になってチャンスボールを生み出すパトリックしかり、ミスチルのアルバムの7曲目あたりしかり。
捨て車両の存在があってこそ、お盆や年末年始の乗車率100%超えの「のぞみ」が存在し得る。
そこで充分、僕に「くれてやった」こだまの一車両分の元は取れる。
そうやって新幹線の黒字運行は成立している。気がする。
明日食うメシのことだけ考えて何も捨てられなければ、いずれは明日食うメシにも困ることになる。
おわり
都会育ちの徳
2015.07.05
仕事柄、僕の周りには山や海に囲まれて育ち、自然愛と逞しさをあらかじめ兼ね備えた人が多い。
学歴や職歴をみても、生物の研究をしていたり、農業や林業に従事していたりと、本当に大切なものを若かりし頃から分かっている感が満載の人ばかりだ。
僕のような東京育ちの文系卒の普通のサラリーマン上がりはマイノリティーであり、山や海に出れば、足手まといになることのほうが多い。
勝負できる知識といえば東京のラーメン屋事情くらいだけど、この情報化社会だ、その差も詰まるばかりで。
やはりシティボーイは勝てないのか。
それはネガティブなイメージとして、世の中に君臨し続けるのか。
しかし僕は、都会育ちのこの人生の徳に、気付いてしまった。 満を持して。
僕の持っている、大きなアドバンテージに。
それは、彼らが幼い頃から享受してきた自然の素晴らしさに、僕はこの年齢で初めて感動できるということ。
途轍もなくポジティブなことを書いている気がして恥ずかしくなってきたけど、僕は誰と海に行っても、その色の青さと生き物の多さに、その場の誰よりも感動している自信がある。
去年、獲ったメバルを磯場で血抜きしていたら、メバルを下から引っ張られる感覚があったのでビックリして持ち上げると、ウツボがメバルの尻尾に噛み付いてくっついてきたことがあった。
僕は文字通り飛び上がって、たぶん少しチビっていた。
ウツボは別名、海のギャングだからね。
そして、興奮覚めやらない僕に向かって、海で育った連れは言った。
あぁ、ウツボね。よくあるよ。 (ねーよ!)
これをシティボーイの徳と言わずに、何の徳と言おうか。
僕はこの世に生まれ落ちてからの20数年間、大都市東京でミスチルの歌詞に影響を受けまくりながら自らの志向を築き上げ、東京が世界の中心だと思い込み、しまいには自分を全能の神だと思い込んでいた。
しかしそんな僕の捻くれまくったアイデンティティーは、辛くも打ち砕かれた。 僕のメバルを横取りしようとしたウツボに。
百聞は一見に如かずと誰も言うが、やはり自然を目の当たりにしたこの年齢での価値観の崩落は、シティボーイの徳と言わざるを得ないだろう。
都会育ちは貧弱なんかじゃなく、純粋無垢なのであって、やさしく見守って欲しいと願う。
おわり
学歴や職歴をみても、生物の研究をしていたり、農業や林業に従事していたりと、本当に大切なものを若かりし頃から分かっている感が満載の人ばかりだ。
僕のような東京育ちの文系卒の普通のサラリーマン上がりはマイノリティーであり、山や海に出れば、足手まといになることのほうが多い。
勝負できる知識といえば東京のラーメン屋事情くらいだけど、この情報化社会だ、その差も詰まるばかりで。
やはりシティボーイは勝てないのか。
それはネガティブなイメージとして、世の中に君臨し続けるのか。
しかし僕は、都会育ちのこの人生の徳に、気付いてしまった。 満を持して。
僕の持っている、大きなアドバンテージに。
それは、彼らが幼い頃から享受してきた自然の素晴らしさに、僕はこの年齢で初めて感動できるということ。
途轍もなくポジティブなことを書いている気がして恥ずかしくなってきたけど、僕は誰と海に行っても、その色の青さと生き物の多さに、その場の誰よりも感動している自信がある。
去年、獲ったメバルを磯場で血抜きしていたら、メバルを下から引っ張られる感覚があったのでビックリして持ち上げると、ウツボがメバルの尻尾に噛み付いてくっついてきたことがあった。
僕は文字通り飛び上がって、たぶん少しチビっていた。
ウツボは別名、海のギャングだからね。
そして、興奮覚めやらない僕に向かって、海で育った連れは言った。
あぁ、ウツボね。よくあるよ。 (ねーよ!)
これをシティボーイの徳と言わずに、何の徳と言おうか。
僕はこの世に生まれ落ちてからの20数年間、大都市東京でミスチルの歌詞に影響を受けまくりながら自らの志向を築き上げ、東京が世界の中心だと思い込み、しまいには自分を全能の神だと思い込んでいた。
しかしそんな僕の捻くれまくったアイデンティティーは、辛くも打ち砕かれた。 僕のメバルを横取りしようとしたウツボに。
百聞は一見に如かずと誰も言うが、やはり自然を目の当たりにしたこの年齢での価値観の崩落は、シティボーイの徳と言わざるを得ないだろう。
都会育ちは貧弱なんかじゃなく、純粋無垢なのであって、やさしく見守って欲しいと願う。
おわり