今日は都合があり、AKB劇場に行けませんでした。もしかしたら明後日も。
あくまで私の都合で、AKBが嫌いになったとかではありません。
伊達娘はもういくら尻を叩いてもダメなのか、と気になります。
歌声で高い声を意識し出したとは思うのですが、ダミ声をよく使ったからか、声質が悪くなったとも思うのです。
なかなか、イデオロギーで凝り固まった人と話をするのは難しいです。
けれども、イデオロギーで凝り固まった人と話をする努力をただひたすらすることでしか、人々の考えは変えられません。
その場合、相手を全否定するのではなく、相手の言い分を一旦は聞いてみて、理解できるところは肯定し、理解できないところも具体的に指摘してみるのです。
それをたゆまず行えば、必ず理解してもらえます。
これこそが"対話"です。
いまの世界に最も必要なのは、この"対話"なのです。
(私はずっと言い続けていることですが)
世の中の人々は、自分が正しいと信じたことは、人々も正しいと思うべきだと思いますが、実際は、自分が正しいと信じたことを、人々に啓蒙するにはものすごく時間がかかるし、自分が正しいと信じたことの方が間違っている可能性だってあるのです。
インターネット上で"対話"が成立しない(いやいまインターネットに限らずそこかしこでも)のは、自分が正しいと信じたことの方が間違っている場合、その情報が拡散すれば不利になるからです。
その発想は実は、国会議員が数の論理で、個々の意見を言うことが許されないのと同じです。
"個々の意見を言うことが許されない"って、日本社会の構造的問題です。
"殿、利息でござる!"の原作"穀田屋十三郎"の文中に、"江戸時代に徒党を組むのが禁止された結果、日本の政党政治がいびつなものになった"という旨の記載がありましたが、"個々の意見を言うことが許されない"社会の発端がそこなのかというと、もっと以前よりあったのではないかとも思います。
徒党を組めば、そこで議論が喧々諤々起こるヨーロッパと異なり、個々の意見を言うことが許されず一人の意見でゴッソリ動いてしまう日本人の本質を、徳川幕府が見抜いた結果ではないかと、私は考えてしまいます。
そう考えると、江戸時代に入るか入らないかで日本を訪れたキリスト教の宣教師が、"日本人は体面を気にする"と本国に報告した逸話とも符合します。
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