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【社説】

敬老の日に考える 父の戦争、語り継ぐ

 戦争のこと、教えてください。戦争の時代のことも、聞かせてほしい。真実を知れば知るほど、平和とは何かが分かる。私たちはその価値を語り継ぐ。

 神戸市にある先端医療振興財団臨床研究情報センター長の福島雅典さん(66)は、わずか五十ページ足らずのその小冊子に、このごろひときわ厚みと重みを感じています。

 福島さんの父二郎さんはおととし六月、九十三歳で亡くなった。

 福島さんは、父親が古希の記念にのこした手記や写真をまとめ、自らの編集後記を添えた「私の思い出 マレー俘虜(ふりょ)記」=写真=を一周忌の参列者に配布しました。

 銀行員の二郎さんは、二十二歳の時に応召し、シンガポールやインドシナを転戦した。

 一九四五年九月、マレー半島南部のクアラルンプール(現マレーシアの首都)で武装解除され、二年間の捕虜生活を強いられた。特設自動車一六大隊本部に所属する、兵器担当の将校だった。

 <アゴであしらわれて作業現場まで連行され、そして、こき使われた。まるで鞭(むち)打たれてあえぐ牛馬のように! それは、筆舌に尽くし難い屈辱の日々であった>

 <敗者に正義はなかった。道理も通らなかった。ただ終戦の詔勅の『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』を地でゆくより仕方がなかった>

 一日十時間。激しい憎悪に満ちた強制労働…。二郎さんは、元銀行マンらしくむしろ淡々と、虜囚の日々をつづっています。

 そして<毎年開かれる戦友会に欠かさず出席しては、苦楽を共にした戦友と語らいながら、亡き戦友のご冥福と、二度と戦争の起こらないことを祈り続けている>と結んでいます。

◆後ずさる時代を憂う

 福島さんと二郎さんは、ふだんあまり親密な会話のない、つまりよくある父と子でした。

 戦争のことは話したがらない父だった。爆弾の破片にえぐり取られたすねの大きな傷痕だけは何度も見た。収容所での身分証などは大切に保管されていた。

 二十五年前、送られてきた手書きの原稿に初めて目を通した時には、勝ち目のない、いくさに走った世の中を、ばかばかしいと思う気持ちもわいた。

 ところが、憲法の不戦の誓いを軽んじ、破り、再び戦争ができる国へと向かうこの国の時代状況が、福島さんの心を変えた。

 声高に反戦を唱えたことも、憲法擁護を訴えたこともなかった父親の、ぬぐってもぬぐい切れなかったであろう鮮烈すぎる記憶の重みが、自分の中で増していく。

 医師である福島さんは常々感じていた。

 医者にもしょせん、患者の気持ちはわからない。患者の立場に立てるというのも幻想だ。気持ちも立場も分からないという前提で、患者の話を、よく聞くべきだと。

 恐らくそれと同じこと。今ここで、父親たちが体験した戦争への理解はおろか、イメージするのも不可能だ。だから、重すぎる父の記憶を、そっくりそのまま引き受けよう。敬意を込めて記録にとどめ、考えよう−。

 福島さんは、小冊子の編集後記を自作の漢詩で結んでいます。

 想敗戦之日

 満蒙執着開戦火

 戦線拡大不能止

 求停戦而失機会

 国破惟残不戦誓

 不戦の誓いを失うな−。亡き戦友に捧(ささ)げた父親のその祈り、受け止めたというあかしでしょうか。

 “戦争を知らない政治家たち”が民主主義のルールを踏みにじり、不戦の誓いをおとしめるがごとき安保法を、数の力で成立させました。

 国民の命を守るためにと言いながら、戦火に散った命への敬意が感じられません。存立危機事態が迫ると言われても、想定される“戦場”に現実感はありません。

◆あなた自身の戦争を

 だからでしょうか。長い間、口を閉ざし続けた戦争体験者の皆さんが、明らかに物語りを始めています。無数の「私の思い出」が、受け止める人を探しています。

 あの暗く悲しい時代を生き抜いた、おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、お父さん…。

 聞かせてください、あなた自身の戦争を。私たちはそれを書き留め、伝え続けます。皆さんが築いてくれた平和という宝物、もう二度と見失うことがないように。

 

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