「生きてはおれぬ」。
父親は言わずと知れたあの名優です。
その父の名は…「今じゃ。
西軍の乱れをついて総攻撃の下知を下せ…!」。
昭和から平成までさまざまな役を演じ分け多くのファンに愛されました。
「千恵祝杯だ」。
義隆さんは幼い頃父から聞いたある話が気にかかっています。
番組では義隆さんに代わり丹波家の歴史に迫りました。
浮かび上がってきたのは日本最古の医学書を残した平安時代の祖先。
明治時代西洋に渡った曽祖父敬三。
同じ船に後に文豪と呼ばれるある人物が乗り合わせていました。
そして「丹波家のはみだし者」と呼ばれた父哲郎。
学徒兵として太平洋戦争に出征。
戦後役者を目指したものの芽が出なかった苦しい下積みの時代。
千年を超える丹波家の波乱の日々です。
取材の結果を伝える日丹波義隆さんは初めて自らの家族の歴史と向き合う事になります。
丹波家のルーツにつながるあるものが見つかりました。
7世紀後半大化の改新のあと国造りが進んだ時代の遺跡です。
ここで発見された木に書いた手紙木簡です。
そこに「旦波博士」の文字が浮かび上がりました。
これが丹波家の祖先だと考えられます。
更にこの木簡から当時丹波家がどんな役割を果たしていたか分かるといいます。
その木簡の中には旦波の博士って出てきますが旦波の博士でたんばのふひとと読むわけですけれど…。
その後の丹波家の家系図が東京・渋谷区に残されていました。
ここは…江戸時代の国学者塙保己一が集めた貴重な歴史資料が保管されています。
保己一は日本を代表する氏族のうち特に由緒ある16の家を厳選してその家系図を残しています。
丹波家もその一つです。
「群書類従」の版木。
ここに彫られているのが戦国時代に書かれた丹波家の家系図です。
一枚目の板に「康頼」という名前が刻まれています。
丹波康頼平安時代を生きた丹波家の祖先です。
下を見ると天皇に仕えた事を意味する…更にその下当時の医者を表す「針博士」の文字が読めます。
その康頼の肖像画が神戸で見つかりました。
義隆さんの遠い親戚…代々神戸の町医者でした。
義隆さんから六十数代遡るおよそ1,100年前の祖先です。
康頼が住んでいた場所は丹波の矢田郡。
今の京都府亀岡市と書かれています。
亀岡市に医王谷と呼ばれる場所があります。
その地名の由来が今も地元の人たちの間に伝わっています。
康頼はここで薬草を育てながら歴史に残るある書物を著します。
「医心方」。
これは今も日本に残る最古の医学書です。
全30巻にわたって書かれた病気やけがの治療法。
中国やインドの文献が200以上も引用されています。
40年かけて「医心方」を現代の言葉に訳した…「医心方」に書かれた文章から康頼の人柄も分かるといいます。
人を差別してやってはいけないと身分も一切考えずに全て親が子供を思う心でもって治療に赴けと書いてありますね。
よいしょ…。
医王谷の近くにある金輪寺に康頼を供養する石塔が残されています。
康頼は995年83歳でこの世を去りました。
日本の医学界に大きな功績を残した人物として今も語り継がれているのです。
はぁ〜。
そう…。
康頼のあとも丹波家の一族は代々宮中で医師そして薬剤師の仕事に就きます。
数百年にわたってこうして医薬のスペシャリストを輩出していったのです。
時代は康頼から900年後。
義隆さんの曽祖父敬三の代に移ります。
敬三は1854年に4人兄弟の次男として今の神戸市元町通で生まれました。
父親は町医者でした。
敬三は勉強が得意で10歳で既にオランダ語を学んでいたといいます。
そして明治6年東京大学製薬学科に第一期生として入学します。
当時は富国強兵の時代。
多くの若者がヨーロッパに留学していました。
明治17年敬三も海を渡ります。
敬三と一緒に留学した仲間の子孫が見つかりました。
宮崎さんのもとに敬三たちの姿を写した写真が残されていました。
一行がフランスマルセイユに上陸した時撮った写真です。
その中に敬三の姿がありました。
宮崎さんの祖父道三郎は後に日本大学を創立する法学者でした。
この写真が見つかった時後に文豪と呼ばれる人物が一緒に写っていた事で大きなニュースになりました。
その人物とは森鴎外当時22歳。
東京大学を卒業して陸軍の軍医になっていました。
鴎外が船の上で書いた日記に敬三が登場します。
2年間ドイツで最新の薬学を学んだ敬三。
帰国後は母校東京帝国大学の教授となり日本ではなじみのなかった学問「裁判化学」を教えます。
「裁判化学」とはどのようなものか。
薬学の歴史に詳しい西川隆さんに聞きました。
敬三が自ら編集し教科書として使った「裁判化学」。
青酸化合物やヒ素など毒となる物質をどのように検出するかその方法を詳細に解説しています。
明治39年敬三は世間を騒がせた野口男三郎事件で裁判化学の有効性を証明しました。
被告野口の容疑は義理の兄の寝室に忍び込み毒殺したというものでした。
敬三は被害者の内臓を調べました。
その結果毒物による中毒は認められず被告には無罪が言い渡されたのです。
更に敬三は政府の要請を受けある薬の製造を手がけています。
日本はドイツを相手に参戦。
当時蔓延していた梅毒の治療薬がドイツから輸入できなくなりました。
それに代わる梅毒の薬を敬三は僅か2か月で完成させたのです。
その薬は「ネオ・タンバルサン」と名付けられ大勢の患者を救いました。
また現在も使われているベビーパウダーも敬三が開発に参加したものです。
そのころの敬三の住まいは…2,000坪を超える敷地に広大な庭が広がっていました。
その庭で撮った当時の家族写真です。
敬三の妻の名は貞。
六男二女に恵まれました。
大正13年皇太子後の昭和天皇が良子様と結婚します。
敬三夫婦はその結婚の儀に招かれました。
正装した敬三。
貞は十二単を着ています。
敬三のひ孫…そんな恵まれた家庭で育った…二郎は父と同じく東京帝国大学で薬学を学びました。
そして陸軍の薬剤官となり日露戦争にも従軍しました。
しかしある日突然軍を辞めてしまいます。
そして意外な事を始めました。
二郎の次男で哲郎の兄…これおばあちゃんが…。
父二郎が残したものを見せてくれました。
二郎が描いた日本画です。
二郎は画家に転身したのです。
よく描いたのが薬の神様薬祖神。
知り合いの医者や薬剤師に頼まれ描いたそうです。
大正4年35歳で二郎は結婚。
父敬三の別荘だった新宿駅近くの500坪の邸宅で暮らしていました。
その庭の跡が残っていました。
現在ここで暮らす原田幸子さん。
祖父が戦後丹波家からこの土地を買い取りました。
二郎は毎日庭を眺めながら朝から晩まで絵を描いていました。
次々と子供にも恵まれます。
大正11年三男として生まれたのが正三郎。
後の丹波哲郎です。
正三郎は近所でも有名なやんちゃ坊主でした。
小学校の同級生服部芳子さんを訪ねました。
服部さんは今でも小学校の同窓生たちとこうして集まりマージャンを楽しんでいます。
皆正三郎の事はよく覚えています。
正三郎はいつしか「丹波家のはみだし者」と呼ばれるようになります。
そしてこのあと波乱の人生が待っていました。
あの敬三ひいおじいちゃんは僕梅毒とシッカロールは知ってたんですけども…昭和から平成を駆け抜けた名優丹波哲郎。
「上意!」。
「うっ!」。
哲郎本名正三郎は13歳で軍人の子息が多く通っていた新宿の成城中学校に進学します。
当時中学でも軍事教練が盛んに行われていました。
戦況が悪化した昭和18年。
当時21歳中央大学の学生だった正三郎も出征します。
正三郎は立川の航空整備学校に配属されました。
ここで一人の上官に出会います。
男の名は…東京巨人軍のスター選手で後に監督として9連覇を成し遂げる人物です。
正三郎はこんなエピソードを書き残しています。
「川上が風呂に入ると学徒兵たちは競って川上の背中を流したものである」。
そのころ日本軍は南方で厳しい戦いを強いられ正三郎の仲間たちも次々と激戦地へ送られていきました。
しかし正三郎に出撃命令は下りませんでした。
それには理由がありました。
「何を隠そうこの時私はひどい吃音だった。
吃音では部下に命令が下せないため最前線に出すわけにはいかない」。
終戦後復員した正三郎はGHQの通訳に採用されますが実は英語があまり得意でなく長続きしませんでした。
職を転々としていたある日一枚のポスターに目が留まります。
俳優養成所の研究生募集でした。
初めは退屈しのぎでしたが養成所に通ううち演技の魅力に取りつかれていきます。
「持ち前の大声で独りよがりの大芝居をやっているとあたりが静まるのが気に入っていた」。
劇団に通うかたわら正三郎は生活費を稼ぐため荻窪の闇市に小さな店を借ります。
子供の頃…3坪ほどの店に台を7〜8台並べて正三郎はパチンコ屋を始めました。
店は市場の奥のトイレの隣。
そんな中ある出会いが訪れます。
知人に誘われダンスホールに行った時の事です。
そこで一人の女性とペアを組む事になりました。
女性の名は…後の義隆の母です。
この時の出会いを貞子は後年ラジオ番組で語っています。
ちなみに貞子の母のいとこには二・二六事件で処刑された思想家の北一輝がいます。
昭和23年正三郎と貞子は結婚。
パチンコ屋の2階で暮らし始めます。
俳優を夢みる正三郎。
しかしなかなか芽が出ず先の見えない日々が続いていました。
貞子は得意な洋裁の内職で正三郎を支えます。
正三郎は吃音を矯正するため本を朗読して発声練習を繰り返しました。
「早く妻に安定した生活をさせてやりたい」。
その一心でした。
すると30歳になった正三郎に運命を変える出来事が起こります。
劇団から映画会社に使いに出された正三郎。
その時正三郎をただの使いの者と思っていた映画監督がこう言います。
正三郎の映画デビューが決まった瞬間でした。
昭和27年公開「殺人容疑者」。
「やあどうもお待たせしました」。
正三郎は主役の殺人犯を演じました。
(銃声)
(取材者)お願いします。
この時の共演者…「ファミリーヒストリー」という番組で丹波哲郎さんについてお話を…。
「ゆうべもうちへ帰らなかったそうじゃないですか」。
土屋さんは正三郎を追う刑事を演じました。
迫真の演技が認められ仕事が次々と舞い込むようになります。
そんな中昭和30年待望の長男義隆が誕生します。
子供に恵まれ仕事も充実。
やっとつかんだ幸せな日々でした。
しかし昭和34年妻貞子が突然病魔に襲われます。
当時大工として丹波家に出入りしていた…正三郎に気に入られ家族ぐるみのつきあいをしていました。
その日貞子の異変を聞き駆けつけました。
小児まひは当時大人の間でも流行していました。
貞子もウイルスに感染し小児まひを発症したのです。
その日から貞子は歩く事ができなくなりました。
正三郎は毎日病院に通い貞子を励まします。
この時の正三郎の様子を当時のマネージャーが語っています。
「そんな事は問題じゃないよ」。
昭和43年テレビドラマ「キイハンター」が大ヒット。
正三郎の人気は不動のものになります。
夫の活躍を喜ぶ貞子。
しかし正三郎の下積み時代から続けていた編み物などはやめませんでした。
そんな貞子と正三郎が気にかけていたのが一人息子の義隆でした。
貞子は足が不自由で遊んでやれず正三郎は仕事に追われ一緒に過ごす時間がとれませんでした。
当時ドラマで共演していた野際陽子さん。
(取材者)今日はよろしくお願いいたします。
正三郎が息子を心配する姿を覚えています。
その後高校生になった義隆は父と同じ役者の道を志します。
しかし下積みの苦労を知る貞子は首を縦には振りませんでした。
一方正三郎はこう言いました。
「食べろよ」。
「ネギは嫌いね」。
昭和48年義隆は俳優としてデビュー。
そしてその後父との共演を果たしました。
「父上…このような姿でお目にかかろうとは」。
「夢にも思わなかったぞ俺も」。
貞子は共演する2人の姿をうれしそうに見ていたといいます。
そして平成9年貞子は亡くなりました。
貞子の葬儀で正三郎は涙をこらえこう語りました。
2人が出会って51年。
苦労を分かち合い支え合った日々でした。
「母さんにはないしょやぞ」。
丹波哲郎さんには俳優業のかたわら長年取り組んでいたものがあります。
死後の世界霊界の研究です。
哲郎さんにとって死後の世界を説く事は人の生き方を説く事でもありました。
かつて「丹波家のはみだし者」と呼ばれた哲郎さんはテレビの人気者となり多くの人を楽しませ続けました。
兄の泰弘さん。
弟哲郎さんをこう振り返っています。
平成18年哲郎さんは84歳で亡くなりました。
その半生は車椅子生活となった妻貞子さんを支えるものでもありました。
哲郎さんが亡くなって9年。
義隆さんが父哲郎さんの遺品を息子の大士さんと整理していた時の事です。
えっ?古い8ミリフィルムが見つかりました。
映っていたのは義隆さんが幼い頃の家族の日々でした。
義隆さんの記憶にはない歩く母の姿。
そして家族の前でおどける父。
相撲をとる哲郎さんと義隆さん。
そこには共に過ごす時間を大切にする家族の姿がありました。
俳優丹波義隆さんの「ファミリーヒストリー」。
千年の時を超えて人のために尽くし喜びを与え続けた家族の歴史がありました。
ああそう…。
いやぁ…家族っていいですね。
2015/09/18(金) 14:12〜15:00
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「丹波義隆〜父・哲郎の素顔 1000年を超える歴史〜」[字][再]
俳優・丹波義隆。父は名優・丹波哲郎。丹波家の歴史は千年を超えると言われる。先祖は日本最古の医学書を記し、明治時代には文豪、森鴎外と共に西欧に留学をしていた。
詳細情報
番組内容
俳優・丹波義隆さん。父は名優・丹波哲郎さん。丹波家の歴史は千年を超えると言われる。先祖には、歴史に名を残す人物が並ぶ。平安時代、日本最古の医学書を記した祖先。そして明治時代、文豪・森鴎外と共に西欧に留学をしていた曽祖父。日本の薬学のパイオニアでもある。そして、丹波家のはみ出し者と呼ばれた父、哲郎。学徒兵として出征、戦後は役者の道を選んだ。下積みの頃の姿、母との出会い、知られざる素顔が明らかになる。
出演者
【出演】丹波義隆,丹波哲郎,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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