原爆投下から70年の歳月が流れた長崎。
薄れゆく被爆の記憶をどう次の世代につないでいくのか今大きな課題となっています。
被爆者の平均年齢が80歳を超える中被爆者の子供たちによる「被爆二世の会」が立ち上がりました。
原爆を肌で感じるために二世の会のメンバーはこの日一人の被爆者を訪ねました。
背中に残る被爆の傷痕を見せてもらうためです。
谷口さんは16歳の時爆心地から1.8キロで被爆しました。
当時アメリカ戦略爆撃調査団が撮影した谷口さんの姿です。
1年9か月うつぶせのままでした。
「赤い背中」の少年谷口さん。
毎日「殺してくれ」と泣き叫びました。
後日谷口さんに背中を見せてもらう事になった一人被爆二世の…父親は被爆について息子に一切語る事なく25年前に亡くなりました。
長崎の被爆二世の中には親から体験を聞いた事がないまま今日に至った人が少なくありません。
話を聞きたかった事もあるんですけど言わなかったねその事。
悲惨なお話もたくさんあったんでしょうけど。
もっと話ししてればよかったなっていう。
これからっていう時でしたけどねほんと亡くなったのがね。
僕が親の気持ちが分かりかけてた頃に逝ってしまったんで。
高齢化していく被爆者から話を引き継ぐ時間も残り僅か。
被爆二世の佐藤直子さんは父の池田早苗さんから被爆体験をつづった紙芝居を渡されました。
(池田)「原爆でみんな死んでいった」。
池田さんは被爆の体験を語る語り部の活動を40年以上続けてきました。
(池田)ほらみんな死んでるっとよ。
真っ黒焦げになって。
(池田)これ川の中かどこかで死んどる。
川の中の…石垣の…。
(佐藤)溝じゃない?
(池田)溝かね。
(池田)これ火を燃やしてここにね死んだ人を載せて焼いておった。
じいじが一人で。
もう私たち語り部ができなくなるのはもう間違いなくできなくなるから。
あとはもう二世三世が引き継いでくれる以外は。
私たち二世が継がなかったらもうこの話はここで途切れてしまうって思ったら確かに私たちがするしかないのよねって思ったらしなきゃねって。
長崎の被爆二世たち。
戦後70年の今改めて親たちの原爆に「さわろう」としています。
70年前原爆が7万人を超える人々の命を奪いました。
被爆者の池田早苗さん。
今も年間100回近く語り部活動を続けています。
この日は娘の佐藤直子さんも同行しました。
語り部を受け継ごうと考えた直子さん。
父がどんな思いで被爆体験を伝えようとしているのか感じたいと足を運ぶようになりました。
(一同)こんにちは。
紹介して頂きました池田早苗といいます。
私のきょうだいは6人きょうだいで5人みんな死んでいきました。
池田さんは当時12歳。
母と買い出しに行っていました。
爆心地から800メートルの自宅近くにいた5人のきょうだいは次々と亡くなっていきました。
両親は看病に追われ亡くなった弟の火葬は12歳の池田さんに任されました。
(池田)死んだ弟3歳の弟を私に父が「一人で火葬してきてくれないか」と頼むんです。
私は一人で弟を火葬しなければならなかったんです。
12歳。
一番小さいサブロウを畳のござに巻いてくるんでそして抱いて泣きながら連れていった所はその国鉄の広場の真っ黒焦げの妹を父と火葬した同じ所に連れて行って小さな木切れを拾い集めるんです。
たくさん材木を積み上げて一番上に畳のござに巻いたサブロウを載せて下からマッチで火をつけました。
そして弟は真っ赤な火の中に燃えていく時にグシグシッと音を立てるんです。
この関節。
肘か膝の関節をグシッと伸ばす音ではないかと思います。
平和公園の隣にある被爆者団体「長崎原爆被災者協議会」。
その中に被爆二世の会があります。
この日被爆二世の会の集まりが開かれました。
長崎被災協の会長谷口稜曄さんも出席しました。
(佐藤)まずは皆さんご起立頂きまして黙とうをお願いいたします。
全国に30万人から50万人に上るともいわれる被爆二世。
ところが被爆地・長崎に市民を中心としたこの二世の会が出来たのは3年前の事です。
会に参加しているのは80人ほどです。
(佐藤)黙とう。
まあその後を継いでくれるのは自分たちの子供たちしかいないんではないかという事でちょこちょこ「引き継いでくれ引き継いでくれ」というふうには言われてたんですけれども私がやらなくても長崎にはたくさん二世がいるから別に私じゃなくてもいいでしょうみたいなところがどこかにあるんですね。
ただやっぱり70周年に向けて「そういえば自分も二世だった。
なんかそうねしなくちゃいけないのかな」って少しこう皆さんの意識が傾いてきてるところなのではないかと思ってて。
被災協会長谷口さんが挨拶に立ちました。
谷口さんは自分たちに残された時間が少ない中被爆体験を受け継いでほしいと訴えかけました。
(拍手)
(男性)どうもありがとうございます。
被災協が実施した二世へのアンケート調査。
被爆二世の会が出来るきっかけとなりました。
被爆二世330人から回答が寄せられました。
親から原爆について詳しく聞いた事があるかという問いに対して1/3が「聞いていない」と答えたのです。
被爆二世の会の…被爆者である父から体験を聞いた事がない二世の一人です。
(岡本)小っちゃいですよね。
セピアっぽいとこがすごいですね。
これとかね。
横顔似てるでしょ。
ハハッ。
父の久幸さんは爆心地から3キロで被爆。
今から25年前岡本さんが27歳の時に亡くなりました。
(岡本)被爆した事とかはもう早く忘れたいっていう。
体が弱かった父。
一緒に遊んでもらった記憶がありません。
なぜ被爆の事を話してくれなかったのか岡本さんはその訳を考え続けてきました。
ほんと話をこちらから聞く事もなく父親が話す事もなく逆に封印してたのかなという雰囲気だったんですけどね。
特に僕が長男で跡取りだっていうのを考えての事だったのかな。
でも今気付けた事はまだ私も命があるんでそれをもっと次の世代に返していけるようなサインは出していけるのかなと思うんで…。
そっちの方の思いでいっぱいですね今。
父親にはその話は聞きたかったですねでもね。
なぜ被爆者にとって家族にすら体験を話す事が難しいのか。
長崎被災協で40年にわたり被爆者の相談員を務めてきました。
被爆当時の事を思い出すのがつらいという人。
被爆の現実があまりに悲惨すぎて子どもに話しても受け止めきれないのではないかという人。
この部屋で多くの被爆者と向き合ってきました。
横山さん自身も被爆者です。
「あなたは被爆してないから分からないでしょう」っていう方もいらっしゃったんですよね。
「いやぁ私は同じ被爆者です」って言ったらもう向こうが堰を切ったようにお話しになるというのがほんとにあの…当初の頃の相談でしたね。
相談員と相談の方の一応そこで垣根が取れるというかそんな事であったですね。
だからもうほんとにここで一緒になって泣いた事はたくさんあります。
横山照子さんは家族全員が被爆。
横山さんは当時4歳でした。
戦後両親は相次いでがんで亡くなりました。
姉2人もがんと診断され僅か1歳9か月で被爆した妹は40年間入退院を繰り返し亡くなりました。
実は横山さん自身も自分と家族の被爆体験を語れずにきました。
(取材者)ご自分で語り部できると思われますか?いえ…ちょっとなかなか厳しいですね。
私にとって自分の被爆体験を…。
自分と自分の家族の被爆体験を語るというのはなかなか勇気が要ります。
あのほんとに人には「語れ語れ」っていう事で言うんですけども。
自分になるとちょっとやっぱり涙が先に出ちゃうんですよね。
涙流したらほんとに先が語れなくなるんですよ詰まって。
頭の中が真っ白になって。
だから語る資格がないなというふうに思うんですけど。
やはり語れない部分っていうのがどうしてもあるんですね。
だからその語れない部分が原爆被害だと思います。
被爆二世の高森ひとみさんもこれまで母親から体験を聞いた事がほとんどありません。
母のキヌヨさんは8歳の時に被爆。
10人きょうだいのうち8人が被爆しました。
頑張って。
被爆したキヌヨさんのきょうだいは全員ががんと診断されました。
キヌヨさん自身も大腸がんになり原爆症の認定を受けました。
15年前に娘のひとみさんにがんが見つかった時放射線の遺伝的な影響ではないかと一人不安にさいなまれました。
(キヌヨ)私の姉の方は脇の下にはですねもう黒くザクロみたいな。
今考えてみると毒みたいな。
何でしょうね。
両脇出て。
髪はボロボロ抜けるしですね。
もう死ぬ前にはもう目が見えなくて。
もうその時は「母ちゃん母ちゃん」って言うですけどね。
もう目も見えなくなって。
それで亡くなりましたけどね。
だから子供にまでねこんなんして被爆の関係があるとかなってですね。
やっぱし自分一人晩に寝ててもやっぱし思うですね。
悲しくなります。
子宮頸がんでした。
だからその時もうちの家系母の家系はずっとがんだったので「ああがんの家系なんだな」という捉え方しかしてなかったですね当時は。
はい。
たださっき母が私ががんになった時にひょっとしたらそうじゃないかと自分一人で思ったというのもやっぱし後々こうやって聞いてああそういう思いがあったんだなっていうのも後々に分かった事なので。
それはでも母は私には話さなかったですね。
今日ほんと初めて聞いた事とかもたくさんあって。
母の話を聞きながら「えっそんな事もあったの」とか「そんな事話してもらった事ない」って思ったんですけども。
それ逆に言えば私が母に聞いた事がない。
だから聞いてあげれば吐き出したい部分がきっとあるんだなって今感じました。
ずっと一人で思うよりは私も二世の会に入っていろんな原爆の事を知ったので少しはほんのちょっぴりはつらいのを一緒に思ってあげれるかなっていうのを今感じましたね。
赤い背中の少年谷口稜曄さん。
二世の会のメンバーが写真や映像でしか見た事がなかったその背中を初めて見せてもらう日が来ました。
(佐藤)今日は皆さん雨の中をお集まり頂きありがとうございます。
谷口さんは今日はこういう場をお引き受け頂いてありがとうございます。
今日は谷口さんの体験含め背中の方を見せて頂きたいなと思ってどうぞよろしくお願いします。
(谷口)そうしてこんなように過ごして。
退院はしたものの谷口さんの背中は絶えず傷口が開いたり皮膚の下に出来た固い塊が突き破って出てきたりして何十年にわたって手術を繰り返してきました。
すごい…。
(佐藤)なんでここから?硬い。
まだここは皮膚が…。
ずっとこれもう下から下から出てくるんですか?
(谷口)そう。
(佐藤)今はもう削ったりしなくていいんですか?
(谷口)え〜っと7年前までですね。
(岡本)すごく薄いです。
皮が…。
(岡本)骨の所。
(高森)これ前はもう全部床ずれ?
(佐藤)最初は被爆した時はここはきれいだったって事ですか?
(谷口)そう。
全部きれい。
寝たっきりだから。
(高森)皮膚がこんななってる。
なんか心臓が動いて。
(谷口)これ骨です。
(佐藤)骨が出てるって事ですか?
(谷口)骨が食い込んでる。
心臓と肺の中。
これとこれ心臓の中に食い込んでる。
心臓の中に食い込んでる?骨が?
(谷口)そう。
これとこれが心臓。
(佐藤)これとこれ?これとこれ?
(谷口)心臓の中にこれ食い込んでる。
(岡本)心臓が見えてるような状態。
(佐藤)床ずれがひどく…。
だから持ち上がってるんですねもうね。
肺とかもそしたらこっちは小さくなってるとか?
(佐藤)だから苦しい…。
ほんと拝見する前はほんといろいろ質問しようかなとかいろいろ思っていたんですがいざ拝見させてもらって率直に言葉がちょっと見つからなくてまあお聞きする前に衝撃の方が大きくてまあそのお気持ちというか70年間それを抱えてこられたという事を思うとすごく自分の事にもし置き換えたとしたらどうだったんだろうなというふうなそういう事ばかりを考えてしまいました。
今まで小さい頃に見てた写真背中のやけどの写真ほんとに失礼ながら私は生存されてるとは思ってなかったんですそれまで。
それが目の前にこの写真は被災協の会長だって谷口会長だという事を聞いた時にそれもまたショッキングでそんな事さえ知らない私を恥じました。
だからそういう私みたいな何も知らなくて育ってきた二世もいるので谷口会長今からうんと長生きをして私たちにそれを一つ残らず伝えて下さい。
またそれを私たちも頑張って受け止めてこれから先伝え続けていきたいと思います。
実際見せて頂いてなんかなんでこんな70年も…ね苦しんでこなきゃいけなかったのかなと思ったら…。
今こう傷から伝わってくるものというかなんか…なんでねその十何歳で…そういう目に遭って今までこう…ひきずってこなきゃいけないのかな。
やっぱりこれを私たちはこう…目に焼き付けてこれから伝えていかないといけないんだなっていうのをすごく感じました。
これからも私たちにいろんな事を教えて下さい。
よろしくお願いします。
今日はありがとうございました。
佐藤直子さん岡本宏幸さんたち二世の会は原爆のパネル展と体験記の朗読会を企画しました。
谷口さんの背中に触れた事が二世たちを突き動かしていました。
親たちの被爆を自分たちが次の世代に伝えていくために何ができるのか。
田平由美さんは母親の恵美子さんを誘いました。
この日初めて母の体験をまとめた文章を朗読します。
原爆が投下されたあとの母の暮らしについてです。
こんにちは。
田平由美といいます。
母と祖父の体験記を話したいと朗読したいと思います。
「これは私の母が6歳の時祖父と体験した69年前の話です。
母は学校から帰るとできる限り近所のお手伝いをして僅かなお金をもらいそれで祖父に御飯を食べさせていました。
ある時母は近所の家のお鍋を洗う手伝いをしていました。
鍋には御飯粒がいっぱいついています。
それを洗い流して鍋をピカピカにする手伝いです。
当時母の家にはお米はなく僅かな麦を食べていました。
洗い流す御飯粒を見て母はおかみさんに言いました。
『おかみさんこの洗い流す御飯を下さい。
父に食べさせてあげたいんです』。
母はその御飯をもらって祖父に食べさせました」。
(取材者)聞かれてね…?まさか娘が…語ってくれるとは思いませんでした。
何にも言わないんですよ。
でも…うれしいです。
こういう事を言うとなんですけどだんだん母も年を取ってきてもうそういう機会もどんどん少なくなるだろうから機会があればやっぱり聞いてもらった方がいいんだろうなぁと思いましてそれでまあ今日はちょっと勇気を持って母の前で朗読を行ったんですけれどもちょっとまあ…。
ありがとうございました。
佐藤直子さんは語り部としての大切な一歩を踏み出しました。
神奈川県相模原市が企画した平和の集いに招かれたのです。
父の被爆体験をつづった紙芝居を使い二世としての思いも伝えます。
(佐藤)「父は私に『死んだ弟を一人で火葬してきてくれないか』と言いました。
12歳の私が一人で火葬しなければなりませんでした。
小さな木片を集め最後に柱を引きずり積み上げその上に畳のござに巻いた弟を載せて下から火をつけます。
弟は関節の音をグシグシと立てて火の中に消えていきます。
手を合わせて弟に最後の言葉を『さよなら』と言ってあげました」。
父と私の息子2人。
今小学校4年生と中学校3年生です。
父の横にいるのが小学校4年生の息子なんですけれども写真で見て父にそっくりだと思いませんか?この息子が誕生日が長崎に原爆が投下された8月9日生まれです。
全然予定日は8月9日ではなかったんですけれどもなぜか8月9日の朝に生まれてきました。
私はこれはなんか運命的なものがあるのではないのかな。
ましてや顔を見ると父にそっくりだったのでもしかしたら父のきょうだいの誰かの生まれ変わりなのかなっていうふうにその時思いました。
今もそう思ってこの子には接しているんですけれども。
私がこういう語り部活動をしようと思ったのは父の思いを受け継ごうというのもありますけれども私はこの子たちの母親っていう事もあって。
子供たちの未来の幸せを思ってこの被爆体験の語り部をしようと思って活動しています。
父の語り部を受け継ぎ被爆二世として活動を始めた佐藤直子さん。
家では2人の子供を持つ専業主婦です。
(取材者)家事は何が得意?
(佐藤)え〜あんまり得意じゃないんですけどね。
どうだろう。
何が得意?得意なものは特にないかな。
え〜何が得意かな。
みんな無視してるじゃないの。
え〜何が得意かな。
みんな「う〜ん」って悩んじゃって。
みんな「何かな」。
下の子が8月9日でなかったらここまでなんか私も入り込めなかったのかなっていうのもちょっとありますよね。
ちょうど活動し始めた時上の子が父が被爆した時と同じ年齢だったというのもすごくタイミング的にあって。
なんかやっぱりこう自分もこういう語り部を引き継いでいく運命なのかなっていう。
そういうタイミングタイミングがすごく合ってて。
これはやっぱりなんか私にやれという事なのかなって自分はそういうふうにもう受け止めて。
これはもう観念してというのはおかしいですけども今まで避けてきた語り部を引き継ぐという事を真剣に考えてみようかなと思って今みたいに少しずつ活動してるって感じなんですけどね。
父が12歳で3歳の弟を火葬したっていうところなんて昔から聞いてはいたんですけど実際うちの上の子が12歳になって弟がいるわけじゃないですか。
年齢は3歳ではないんですけれども。
お兄ちゃんが弟を一人で火葬してきてって言われて果たしてできるかなって想像してみるとあまりにもかわいそうすぎて。
お兄ちゃんにも実際聞いてみたんですよね。
「リョウタを火葬してきてって言われたらできる?」って言うと「いやぁ」って。
もう「いやぁ」ってしか。
もうそのあとの言葉は出てこなかったんですけど。
やっぱお兄ちゃんもそこで「ああ」って自分の事のように捉えられたのかなって思うんですけど。
そういうふうにやっぱり自分に置き換えてみないとなかなか理解できないっていう部分ありますよね。
5年に一度開かれるNPT核拡散防止条約の再検討会議が国連で始まろうとしていました。
核兵器の数を減らし核保有国も増やさない事が目的です。
谷口稜曄さんは体調の悪化を押してニューヨークにやって来ました。
体重は30キロ台にまで落ち込んでいました。
夜入浴のあとに付き添いのボランティアに薬を塗ってもらいます。
(谷口)あんまようけ付けたって駄目だけんね。
あと一回ぐらい付けてサーッと塗って。
全体的にね。
これまで24回もの手術を繰り返した背中。
汗を出す汗腺もなく2日に1度薬を塗らなければ皮膚はひび割れ裂けてしまいます。
とりあえず擦り込んで。
擦り込む。
優しくせんで強く。
いいんですか?強くやっても。
分かりました。
谷口さんはNGO団体が主催する国際平和会議に臨みました。
谷口さんはこの70年間原爆を背負って生きてきました。
長崎で亡くなった7万人の思いそしてその後も後遺症に苦しんでいる被爆者たちの思いを谷口さんは何重にも背負っています。
(拍手)もうこれで海外で訴えるのは最後になるかもしれないとの覚悟で必死に訴えかけます。
(拍手)
(拍手)NPT再検討会議が始まる前日。
街頭では核廃絶を訴える7,500人のデモ行進が行われようとしていました。
スピーチで力を出し尽くした谷口さん。
デモを遠くから見守っていました。
(デモ隊の声)しかし国連で1か月に及んだ再検討会議は最終文書が採択されず決裂しました。
アメリカなど核保有国と中東諸国の意見対立が原因でした。
長崎の落胆と憤り。
しかしそれぞれが8月9日の原爆の日に向けて動き出しました。
8月9日の式典で市長が読み上げる平和宣言文は市民が参加しさまざまな意見が盛り込まれて作られます。
前回の皆様から頂いたさまざまなご意見をもとに素案を作らせて頂いておりますのでこれについてさまざまなご意見を頂ければと思います。
佐藤直子さんは今年被爆二世として初めて起草委員に選ばれました。
声に出してちょっと私も読んでみたんですけれどもちょっと表現が薄いんじゃないかというのが何か所かありました。
まず1行目の「長崎の街は廃墟と化しました」とありますけれども「一瞬で」とかなんかこう皆さんの気を引くようなポイントっていうか言葉を少しずつ入れていくと多分聞いて下さると思うんですよね。
佐藤さんは若い世代に伝える事にこだわりました。
すごく若い人たちに分かりやすいような言葉で訴えてきてるので若い人だけじゃなくちょっと私たちぐらいの中高年の人たちにも分かりやすい。
だから下の年代の人に合わせると上の人たちも理解しやすいという事で。
二世の会の岡本宏幸さんも8月9日に向けて準備を進めていました。
中学校で初めて平和について講話をする事になったのです。
亡くなった父から何も聞かされていなかった岡本さん。
谷口さんの背中に触れた事が大きな被爆体験になりました。
谷口さんってあんだけ頑張ってらっしゃる。
あそこまで体ボロボロになりながらお話をされてるというのは根底はそこだと僕は思ってるんです。
苦しさを伝えてるんじゃないんですね。
絶対僕はもう谷口さんの顔と震えながらおっしゃられる言葉の中にすごく僕は人間としての愛情を感じるんです。
僕がこの53歳になりますけど世代として生きてきたものと感じるものそれを伝えていきたい。
戦争であり平和であり核の事でありいろんなテーマがあっていいと思う。
それをみんながどういうふうに思ってるかも聞きたいですしまた世代世代で受け止め方も変わってくるんでそのつなぎ役になっていければなっていう思いで伝えていきたいと思ってますけど。
原爆の日を目前に控えた7月半ば。
谷口さんは感染症を起こし入院を余儀なくされました。
これまで何十回も入退院を繰り返してきた谷口さん。
戦後70年の今年平和式典で被爆者代表として誓いの言葉を述べる事になっていました。
谷口さんは式典を前に退院しすぐに被災協の仕事に戻りました。
(取材者)いつもご自分でされてるんですか?
(谷口)はい。
(取材者)谷口さんをねそこまで頑張らせてるものは何ですか?何でしょうかね。
被爆70年。
この日は毎年長崎県内のほとんどの小中学校が登校日です。
岡本宏幸さんは被爆二世として初めての講話に臨みました。
皆さんおはようございます。
(一同)おはようございます。
私は長崎原爆被災者協議会被爆二世の会で今副会長を務めさせて頂いてます岡本宏幸と申します。
よろしくお願いします。
(せみの鳴き声)佐藤直子さんたち被爆二世の会は爆心地の慰霊碑に花を手向けました。
(佐藤)今年は節目の年って言われていますけれども被爆者の方が80歳を平均年齢超えてしまってこれから原爆の実相を伝えていくのは私たち二世というふうに言われています。
すごいプレッシャーも皆さん感じてらっしゃると思いますけれども今私たちができる事を被爆者の方の思いとかを引き継いでいければいいなと思ってこれから先皆さんのご活躍を私も期待しておりますのでこれから地道にこれから先もやっていきたいと思いますのでご協力のほどよろしくお願いします。
(2人)長崎の平和への願いを受け継いでいく若い世代の一員として今日はこれから2人で式典の進行をさせて頂きます。
(アナウンス)長崎平和宣言。
長崎市長が全世界に向かって平和宣言を行います。
佐藤直子さんが携わった平和宣言です。
「長崎平和宣言。
昭和20年8月9日午前11時2分。
一発の原子爆弾により長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。
若い世代の皆さん過去の話だと切り捨てずに未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする平和への思いをしっかりと受け止めて下さい。
長崎では被爆二世三世をはじめ次の世代が思いを受け継ぎ動き始めています。
私たち一人一人の力こそが戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です」。
(拍手)谷口稜曄さんの平和への誓いです。
(拍手)「平和への誓い。
70年前のこの日この上空に投下されたアメリカの原爆によって一瞬にして7万余の人々が殺されました。
あの日死体の山に入らなかった私は被爆者の運動の中で生きてくる事ができました。
私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ戦争のない核兵器のない世界の実現のため生きてる限り戦争と原爆被害の生き証人の一人としてその実相を世界中に語り続ける事を平和を願う全ての皆さんの前で心から誓います」。
(拍手)「平成27年8月9日。
被爆者代表谷口稜曄」。
(拍手)
(爆竹)8月15日。
終戦の日。
長崎では精霊流しが行われます。
今年原爆死没者名簿に書き加えられたのは3,373人。
これまでと合わせ16万8,767人になります。
長崎70年目の夏。
被爆の記憶をつないでいこうという動きが確かに広がっています。
2015/09/19(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「原爆にさわる 被爆をつなぐ〜長崎 戦後70年を生きる被爆二世〜」[字][再]
被爆者が高齢化する中、長崎ではその子どもらによる「被爆二世の会」が結成された。執念をもって訴え続ける被爆者の現実と、声をあげ始めた二世たちの日々を追う。
詳細情報
番組内容
被爆二世には親から被爆体験を聞いたことがない人が少なくない。親自身が思い出したくないと考えていたり、差別や偏見を恐れて口に出せなかったり。そうした中で、どう被爆体験を語り継いでいけばいいのか?悩む二世たちにとって、大きな転機となったのは、長崎被災協会長の谷口稜曄さんを訪ね、原爆で焼けただれた“赤い背中”の跡に触れたことだった。被爆の現実を自分たちの言葉で語ろうと動き始めた被爆二世たちの模索を追う。
出演者
【語り】斉藤とも子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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