2015年9月20日(日)
【論説】科学万博30年 本県高度成長の転換点
1985年9月、本県が「つくば科学万博」成功の余韻に浸っていた最中、そのニュースは飛び込んできた。日米欧の財政・金融当局による「プラザ合意」だ。本県を戦後の貧しい農業県から脱却させた最大の原動力は県内の製造業。その原動力はプラザ合意後の急激な円高の直撃を受け、県内経済はかつてない冷え込みを見せた。今年は本県の戦後経済の歩みの転換点となった科学万博とプラザ合意から30年になる。
85年9月22日、日本、米国、英国、フランス、西ドイツ(当時)の財務相(蔵相)と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まり、外国為替市場のドル高是正に向けて協調することで合意した。当時の米国は、財政拡大と金融引き締めが招いたドル高と巨額の貿易赤字に悩まされ、日本と西ドイツは大幅な貿易黒字を出していた。ドル高是正で米国の貿易赤字を減らし、保護貿易主義の台頭を抑えることが、会議の狙いだった。
プラザ合意は為替市場で想定を超える効果を挙げる。1ドル=240円台だったドル相場は86年に150円台まで急落した。日米欧は87年2月の「ルーブル合意」で、ドル安の行き過ぎに歯止めをかけようとしたが、為替市場を思惑通りに動かすことはできず、87年中に1ドル=120円近くまでドル安が進行。大幅な円高ドル安はわが国の輸出産業を直撃し、「円高不況」に突入した。
本県は戦後しばらくは農業主体の県で、1人当たりの県民所得も70年ごろまでは概ね全国30位以下。このため、県は「鹿島開発」を掲げ鹿島臨海部に製鉄メーカーや石油化学メーカーなどを誘致し、大規模なコンビナートを形成させた。また、県北・日立市やその周辺では、地元発祥の電機メーカー・日立製作所とその関連事業所が日本の高度経済成長とともに発展した。こうした輸出主導型メーカーの隆盛の結果、本県経済も急成長し、1人当たりの県民所得も85年には全国6位を記録するまでになった。
しかし、こうした本県の高度成長を支えた県内の製造業はプラザ合意後に襲った円高不況の直撃を受け、相次ぎ従業員の帰休などに踏み切った。また、大規模メーカーと下請け部品工場との間で長年続いてきた系列取引、親子関係も抜本的に見直され、本県経済はかつてない苦況にあえいだ。本県の87年度の経済成長率は名目、実質ともにマイナス成長となり、全国最下位を記録している。
こうした本県はじめ国内各地で深刻化した円高不況を克服するため、日銀は公定歩合を相次ぎ引き下げ、政府も財政を拡張した結果、景気は回復した。しかし、やがて株価と地価のバブルをもたらし、それは当局の政策転換で破裂。日本経済は「失われた20年」と呼ばれる長期停滞に陥る。
科学万博は現在のつくば市で85年3月17日から同9月16日まで開催され、期間中の入場者数は延べ約2033万人に達した。科学万博はいわば本県の高度経済成長の大団円に開催され、そのお披露目の舞台であったといえるかもしれない。しかし、その閉幕直後のプラザ合意による円高不況で本県の高度成長は一気に終焉(しゅうえん)を迎えた。
思えば、科学万博は本県にとって戦後一途に豊かさを追求した先にあった「坂の上の雲」であったといえるのかもしれない。