ファミリーヒストリー▽設楽統(バナナマン)〜秩父・織物の絆100年前の出会い 2015.09.18


おお久しぶり。
元気?おお元気元気。
病気?病気じゃない。
病気じゃない!人気お笑いコンビバナナマン。
コントだけでなく司会でも活躍。
テレビで見ない日はありません。
そんな売れっ子バナナマンの設楽統さんが今日の主人公です。
僕は埼玉の秩父なんですけど昔いわゆる機織りっていうおじいちゃんはそこで秩父で結構それをすごいやってて割と裕福だったみたいな話は父親から聞いた事あるんですね。
まあどんな人だったのかとかまあ生まれ育った家なんですけどそれどういうふうなあの…そこが多分おじいさんが建てた家だと思うのでどういうふうにそこに根づいたのかとか。
番組では設楽さんに代わり家族の歴史を取材しました。
設楽さんのふるさとは…明治から昭和の初めにかけて織物で栄えた町です。
華やかな色使いと大胆な図柄の秩父銘仙。
その織物は全国に名をはせました。
秩父の織物に革新をもたらしたのが設楽さんの祖父。
その成功の秘密は秩父から遠く離れた奄美大島にありました。
困難に挑み激動の時代を生き抜いた祖父の姿。
そして謎だった両親の結婚。
100年前に遡る運命の出会いがありました。
取材の結果を伝える日設楽さんは初めて家族の歴史と向き合う事になります。
今は全く…全く無ですね。
楽しみですけどね。
どんなものが出てくるのかなっていう。
大胆な柄と華やかな色が特徴の秩父銘仙。
「銘仙」とは主にふだん着用の絹織物を指します。
秩父銘仙は織る前に並べた糸に色をつけるのが特徴です。
反物の幅にそろえた縦糸に型紙を当てて直接染料を染み込ませます。
織り上がると表も裏も同じ柄が現れます。
表が汚れたらまた裏にして着られる。
これが人気となり明治から昭和のはじめにかけて全国に広がりました。
埼玉県北西部秩父。
かつて秩父銘仙で栄えたこの地域が設楽統さんのふるさとです。
今も秩父にある実家を訪ねました。
(取材者)こんにちは。
こんにちは。
(取材者)ああどうもこんにちは。
迎えてくれたのは…
(取材者)お暑うございます。
暑いですね毎日。
母屋の裏に織物業を営んでいた祖父の建てた立派な蔵がありました。
はい。
写真ですね。
ああ…。
これが三郎おじいさんですね。
「自分」って書いてありますね。
織物業で成功し地元の名士として知られていました。
更に古いたんすから出てきた着物。
(2人)男物ですね。
わっちっちゃいですねだいぶ。
うちのもしおじいちゃんの物だとしたらばちっちゃかったって話は聞いているので…。
袖なんかつんつるてんですね。
夏物ですかね。
生地自体はすごい涼しい生地だと思います。
夏っぽいです。
秩父銘仙にしては珍しい生地を使っていました。
生前の三郎を知る人を訪ねました。
(取材者)こんにちは〜。
ああどうもこんにちは。
今も秩父銘仙を織っている…横山さんに蔵で見つかった着物を見てもらいました。
(取材者)こういうものというのは…?「撚りをかける」とは細い糸の束をねじり合わせ1本の強い糸を作る事。
糸を撚る回数を増やすと生地に微妙な凹凸が生まれます。
それによって肌触りのいい生地を生み出したのです。
新商品の開発に果敢に取り組んだ三郎。
どんな人生を歩んだのでしょうか。
三郎に関する貴重な資料が見つかりました。
三郎の娘房子さんが大切に保管していた冊子です。
昭和37年喜寿を迎えた三郎が自身の半生を回想したものです。
あんまり父も話をしない人だったので。
初めてこれで…。
これによると…三郎が生まれたのは明治18年。
実家は小さな織物屋を営んでいました。
小学校を卒業後中学進学を希望しますが家計が苦しく諦めます。
そんな時小学校の先生がある学校を薦めてくれました。
「『幸いなことに今入間郡に染織講習所が出来て生徒募集をしているから早速願書を出してみろ』」。
「入間郡の染織講習所」とは明治33年に織物業者のためにできた学校です。
15歳の三郎は一期生として入所します。
明治時代日本の産業界には西洋化の波が押し寄せていました。
繊維産業の歴史を研究する…そんなような事がたくさん起こったわけです。
それが大事だったという事でございますね。
それまで秩父銘仙に使われていたのは植物性の染料でした。
ところが発色の良い化学染料が輸入されて以来新たな専門知識が必要になったのです。
講習所で化学染料についての最新の知識と技術を学んだ三郎。
化学染料によって秩父銘仙は鮮やかな色を表現できるようになったのです。
三郎は秩父銘仙を携え日本各地を回り販路拡大を試みます。
そのかたわら三郎は各地の伝統的な織物の特徴を貪欲に学びました。
三郎の秩父銘仙は日本各地で人気を博しました。
ところが事態は急変します。
化学染料の多くを頼っていたドイツが敵国となり入手が困難になったのです。
特に足りなかったのは黒の染料でした。
この時三郎の脳裏をよぎった着物がありました。
各地を回った時に目にした奄美大島の紬です。
輝くような美しい黒。
これを秩父銘仙に取り入れる事ができないか。
かつて三郎は奄美大島に渡った経験がありました。
こちらが「国神村誌稿」と呼ばれるものです。
「国神村」とは三郎の生まれた村です。
こちらに設楽三郎とあります。
三郎は以前から大島紬の研究を行っていたのです。
黒の染料を求めて三郎は再び奄美大島に渡ります。
大島紬は伝統的に植物を煮出した染料で糸を染め美しい黒を生み出していました。
(取材者)今染めてらっしゃる染料というのは何なんですか?
(取材者)シャリンバイ?シャリンバイですね。
「シャリンバイ」とは奄美大島に自生する木で古くから大島紬の染料として使われていました。
幹にタンニンと呼ばれる成分が多く含まれています。
そのタンニンを奄美大島の泥に含まれる鉄分と反応させる事で大島紬特有の光沢のある黒が生まれるのです。
しかし大島のシャリンバイをよそ者の三郎が大量に切るわけにはいきませんでした。
そこで講習所で習った化学知識が生かされます。
島の歴史書に三郎が黒の染料となる植物を探した記述がありました。
こちらに染料の技術の事が書いてありまして…。
三郎はタンニンが多く含まれるチンギという木を見つけたのです。
この木がチンギという木になります。
チンギは島では利用価値のない木とされてきました。
三郎がチンギからどのように染料を作ったのかは定かではありません。
入間の講習所で培った知識がピンチをチャンスに変えました。
三郎は奄美大島に工場を建てて黒の染料を量産します。
それはばく大な収入を生む事になったのです。
大正14年地元秩父に織物工場を建てました。
最盛期には現在の価値で年間数億円もの利益があがりました。
三郎は回想の中でこう語っています。
「人の一生は『七転八起』と云うがその通りだ。
運がいいとか悪いとか云っても生きている間は分らん」。
昭和11年三郎50歳の時に泰久が生まれます。
後の統の父です。
年を取ってから生まれた泰久を三郎は殊の外かわいがりました。
しかしまたしても戦争が三郎の人生に影を落とします。
日本は戦争一色に染まりました。
三郎の織物工場は軍需工場へと姿を変えました。
鉄の機織り機は供出され戦闘機の部品をつくる機械が工場に並びました。
昭和20年戦争が終わった時三郎は60歳を目前にしていました。
秩父の織物産業に精魂を注ぎ込んだ三郎。
しかし織物工場を再建する事はありませんでした。
おお…。
あの〜織物やってたっていうのは知ってましたけどこんなにすごい調べて頂いて…。
あとおじいちゃんっていう人が結構アクティブに全国に行って割と活発にいろいろやってた人なんだなというのを知りましたね。
大島紬とかが出てくるとは思わなかったですね。
いろいろがつながってたりするのに驚きましたね。
まあ言ったらお金をもうける方向に転じるというか染料が入ってこなくなるからというところでね。
すごいなと思いましたね。
なんかパワフルですよね。
アクティブパワフル。
そもそも埼玉の秩父なんですけど僕自身の出身は。
何でそんな離れたところでつながってんのかなというのはあって…。
恋愛話で出会いだなんだは聞いたんですけどでもあんまりはっきりその…。
家同士が多分なんかあるんですよ関係が。
統の母照子。
旧姓江頭照子と設楽泰久の物語は曽祖父金一郎に遡ります。
照子のふるさと福岡県久留米市に実家を訪ねました。
迎えてくれたのは…これです。
これがおじいちゃんです私の。
この方がですね。
(取材者)大きい方だったんですね。
そうですね。
シルクハットにフロックコートの正装です。
これがちょうど…この時金一郎が新調したというフロックコートです。
これおじいちゃんが着てたコートですね。
皇太子に町を案内した江頭金一郎。
一体どんな人物だったのでしょう。
明治41年の「佐賀新聞」。
ここに江頭家の名前を見つけました。
それは移転広告でした。
江頭家は染物屋を営んでいたのです。
良蔵とは金一郎の父です。
江頭家がかつてあった佐賀市を訪ねました。
江頭家の染物屋があった場所を探します。
ここにありますようにこれを通じて東の方にずっと行けば…江頭染物屋さんが移転したのがこれからずっと東の方この道筋になるという事になりますね。
「長崎街道」とは福岡の小倉と長崎を結ぶ街道で明治時代とてもにぎわっていました。
はい。
この一画がですねもともと江頭染工場があったこの一画になります。
江頭家は佐賀の一等地に店を構える染物屋だったのです。
明治8年江頭家の三男として生まれた金一郎。
金一郎は当時佐賀で唯一の旧制中学に通います。
学校の卒業名簿に金一郎の名がありました。
こちらが明治21年7月以降の佐賀中学校の卒業生の名簿になります。
こちらが江頭さんのお名前になります。
明治29年4月の卒業になっております。
実際に卒業される方というのは全体の半数程度という年度もあったみたいで実際に卒業されている方というのはかなり努力されまた優秀だったのではないかなというふうに思います。
成績優秀で努力家だった金一郎は卒業後東京に出ました。
今は神社となっているこの場所にかつて蔵前工業学園と呼ばれた学校がありました。
現在の東京工業大学の前身です。
金一郎は明治30年この学校に入学しました。
江頭さんの行っておられたころになりますともう既に工業化が始まってます。
当時「職工さん」という言葉ありましたけど…そういった人々を輩出する。
それが非常に重要な東京工業学校の重要な役割だった。
金一郎は最先端の染織技術を身につけ卒業後その普及に努めます。
技術の指導者として最初に赴任したのが埼玉県でした。
県の行政文書に名前を見つけました。
こちらになります。
お名前見ますと江頭金一郎さん。
職歴の方見てみますと埼玉県入間郡立染織講習所長兼講師という事でお名前がございます。
入間郡立染織講習所とはあの設楽三郎が通った講習所です。
そこに初代所長としてやって来たのが江頭金一郎だったのです。
熱意あふれる若い教師と意欲に満ちた生徒。
新しい染織を作ろうという2人の気持ちが通じ合いました。
これが設楽家と江頭家初めての出会いでした。
三郎の窮地を救った大島紬との出会い。
これも金一郎が地方への行商を勧めてくれた事がきっかけでした。
三郎が大切にしていたアルバム。
そこに金一郎の姿がありました。
染織だけでなく人生の師として三郎は生涯慕い続けるのです。
はぁ〜すごい!つながった瞬間ちょっと「お〜っ」となりますね。
そういう事で江頭家とつながってたんですね。
100年以上前?はぁ〜…うん…ねぇすごいですね。
その学校の一期生で行ってなかったら出会ってなかったわけですもんね。
すごいですねなんか。
なんかほんと今回糸で紡いでいってるというかね。
すみませんなんか…。
なんかほんと繊維の話だからどんどんその糸が紡がれていってる感じがして…。
今度は設楽家のその後を見ていきましょう。
戦争で織物工場をやめた三郎。
それでも息子の泰久はいずれ織物に関わりたいと思っていました。
その後大学を卒業すると泰久は織物が盛んな足利の撚糸製造会社に就職を決めます。
そして社会人となる前に父を旅行に誘いました。
行き先は福岡県久留米市。
三郎の恩師江頭金一郎の自宅がありました。
実はこの7年前に金一郎は76歳で亡くなっていました。
遠方のため葬儀に参列できなかった事を三郎は悔やんでいました。
それを知っていた泰久の親孝行の旅でした。
金一郎亡きあとも江頭家の人々は2人を温かく迎えてくれました。
金一郎には19歳の良子を筆頭に11歳の照子まで3人の孫娘がいました。
次女の武子さんは当時の泰久の印象を覚えています。
大学卒業した割には子供心にというか…まさか年頃を含めた女の子が久留米にいるとはよく分からないでお見えになったんじゃないかと思うんですね。
だけれどもそこに姉が学校を卒業しておりましたから。
私は子供心に…三郎は恩師の家族と交流できた事を心から喜びました。
その5年後今度は江頭家の娘たちが秩父へ遊びに来る事になりました。
当初三女の照子は留守番のはずでした。
ところが秩父へ行く予定だった次女武子が会社の同僚と休みが重なってしまいました。
もちろんその方も私がそういう旅行を計画してるなんて事は知らなかったと思うんですよ。
で私はいいですよって言って代わって行けなくなってとても残念な思いをしたんですけれども…。
これが意外な展開を招きます。
5年ぶりに再会した照子の姿に泰久は目をみはりました。
16歳になった照子ははつらつとした魅力にあふれていました。
恋に落ちた泰久は照子へ宛ててラブレターを送りました。
「五年前に会ったときから可愛い娘だなと思っていたけれど今度会っていろいろ話してみて明るくておおらかでとても素晴らしいお嬢さんになられたのでますます大好きになってしまった」。
「ただ一つ私が現在考えている結婚の相手は貴女以外に考えられない」。
この時の心境を手紙を受け取った照子さんに伺いたいところですが「恥ずかしいので遠慮したい」との事。
代わりに姉の武子さんに聞きました。
手紙の内容はご存じです?大体目通してますね。
ああそうですか。
読んでらっしゃるんじゃないですか。
読んでますよ。
女の子3人いるからもうキャーキャー言いながら。
まさか照子とは…。
一番下でしょ。
女3人おってね。
一番下なもんですから。
びっくりしたですね。
ここで助け船を出したのが三郎。
恩師の妻トクに親としての思いを書き送りました。
「親の口から申し上げてはなんですが親切で親孝行できょうだい思い」。
「泰久も一年二年待つと申しております」。
照子が高校を卒業するのを待ちついに泰久は照子と結婚。
泰久30歳照子は19歳でした。
その2年後2人の幸せを見届け三郎は83歳でこの世を去りました。
時を同じくして秩父に大きな変化が訪れます。
観光開発の始まりです。
織物業の衰退とともに秩父は都心に近いレジャーランドへと姿を変えていきます。
三郎の死をきっかけに泰久は秩父に戻ります。
そして観光業に転職しホテルの支配人などを歴任しました。
昭和48年次男統が誕生。
仕事熱心だった父の様子を覚えています。
なんか…割と仕事が第一だったと思うんですよね。
その時代の人ですしバリバリ働いてみたいな。
俺が実家とか帰ってたまの休みだからひげなんてそらないでいると「ひげそれ」ってすげぇ言うんです。
だからちゃんとそういうきっちりしてたと思うんですよね。
真面目で実直な泰久はやがて新たな事業を任される事になります。
それは秩父の自然を生かした公園の運営でした。
泰久は公園のスポーツ施設総支配人に就任しました。
当時の泰久のメモが残っていました。
そこには秩父の自然の中で多くの人に豊かな時間を過ごしてほしいという思いが記されていました。
特に力を入れたのが森に包まれた100棟のコテージです。
ふるさとの魅力を知ってほしいという思いが詰まっていました。
泰久と共にコテージの運営に携わった…いいですね。
こうやってお客さんがいっぱいの時は。
やっぱり一番コテージをつくり上げたあと運営をするのが大変だったですよね。
お客さんをどういうふうに呼んでどういうおもてなしをしてやっていったらいいかという事をね。
コテージ100棟ありますからこれをいっぱいにするのはなかなか大変ですよ。
夏の一時期はいいんですけど冬もあったりしますとね。
ふるさと秩父で働きづめだった泰久。
左半身不随。
二度と仕事に戻る事はできませんでした。
そんな泰久を支え続けたのは妻照子でした。
15年にも及んだ闘病生活。
その中で泰久が照子の誕生日に書いた手紙です。
うん…。
ちょっとちょっときますね。
よくぞやっぱりあそこでラブレターを書いたなと思いますよね。
またなんか父親のあんまりこう…。
まあくだけた姿も見た事もちろんあるんですけどああいう文章の書き方とかでなんかちょっとした文でしたけど人柄がうかがえるとか…。
ああいう父親というのは初めてだったので…。
なんかより近く感じましたね今。
うん…。
うまくいって…うまくいってというか結婚して子供も生まれてそれが僕ですから。
こういう出会いして今僕がここにいるんだなって思ったりするとなんかこう…うんなんかあったかい気持ちになりましたね。
なんか俺は一人で生きてるみたいな感覚ってちょっと若い時とか強かったりとかやりたい事やってるんだとかって思ってるけど実際は割とそんな事なくて…。
だってあの僕の両親が出会ってなかったら僕はいないわけですしそのまたご先祖のおじいちゃんとひいおじいちゃんが出会ってなかったらその子供もいないわけですしね。
不思議ですよね。
僕も今結婚して子供がいますしなんかすごいですね。
つないでいっているというか…。
統さんの兄聡さんが両親の思い出の品を見せてくれました。
これが父から母に宛てられた手紙なんですけど…。
結婚までの2年間に泰久さんが照子さんに送った手紙です。
(聡)50通以上ですかね。
ねっすごいですよね。
(取材者)あるというのはご存じだったんですか?いや今回初めて知りました。
母が大事に持ってたというか隠してたというか…。
こんなの全然知りませんでした。
(取材者)隠してた?ええ。
こんなの持ってたんですね大事にね。
いやびっくりしました。
こんな…父がこんな事を書いていたとは。
恋い焦がれた照子さんに手紙を書き続けた泰久さん。
「ああ一日も早く照ちゃんに逢いたい。
そしてまた手をつないで色々と話がしたいと思います」。
「週末の夜や日曜日などデイトが出来ないのがちょっと淋しく思われますが淋しいのは貴女も同じ事と思い我慢しています」。
結婚後も毎年誕生日にはプレゼントとともに短い手紙を贈りました。
それは病に倒れてからも変わりませんでした。
最後の2年間は話す事もままならなかった泰久さん。
それでも照子さんへの感謝の思いだけは忘れませんでした。
平成25年泰久さんは77歳でこの世を去りました。
100年前にまで遡る2つの家の出会い。
その絆は今も家族を結び付けています。
まあそうですね。
家でもう一回見ますよ。
ボロボロ泣くと思いますね。
2015/09/18(金) 22:00〜22:48
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー▽設楽統(バナナマン)〜秩父・織物の絆100年前の出会い[字]

故郷は埼玉秩父。祖父は織物工場で成功を収めた。そこには祖父と、ある人物との出会いが関わっていた。さらにこの出会いが、設楽さんの両親を結びつける。温かい絆の物語。

詳細情報
番組内容
故郷は、埼玉秩父。祖父は「秩父銘仙」と呼ばれる織物の工場を営み成功を収めた。そこには祖父と、ある人物との出会いが関わっていたことが判明する。そして、両親の出会い。福岡出身の母がなぜ、秩父出身の父と出会ったのか、これまで謎だったという。それが今回、100年前のある事実が関係していたことも浮かび上がる。さらに父が母に送った手紙の数々が見つかる。ふだんテレビで涙を見せない設楽さんが、目頭を熱くしていた。
出演者
【出演】バナナマン…設楽統,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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