歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
(土保)ねえ今まで習った時代を順番に言ってみようよ。
え?やりたい!瑞希からね。
せ〜の。
(3人)イエ〜イ!できた〜!おはよう!
(生徒たち)おはようございます!あれ?みんな何やってるの?今までの時代を順番に言ってました。
そうですか。
さすがに歴女を目指すみんな。
いい心掛けですね。
では時代も進んでいよいよ今回は…。
そのとおりです。
では早速今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回の時代は…天下統一を果たした豊臣秀吉がこの世を去ったあと代わって台頭し江戸幕府を開いたのは…家康はどのようにして江戸に幕府を開き天下を治めていったのでしょうか。
今回押さえるべき「三つの要」は…200年以上続いた江戸時代の幕開けをお伝えします。
天下太平の世といわれる江戸時代ですね。
豊臣の時代は短かったんですね。
でも秀吉が亡くなってどうやって江戸幕府が出来たんですか?みんな興味津々ですね。
では早速江戸幕府の成り立ちから学んでいきましょうか。
「三つの要」その一。
1598年天下統一を果たした豊臣秀吉が病でこの世を去ります。
秀吉の後継者は息子の豊臣秀頼でした。
しかし秀頼はこの時僅か6歳。
そのため政治は五大老と五奉行によって行われました。
その中でも五大老の筆頭だった徳川家康が台頭していきます。
豊臣政権に対抗する家康に反感を抱いたのが五奉行の一人石田三成でした。
三成は家康が会津の上杉景勝の謀反を口実として諸大名を率い関東に向かった機を捉えて兵を挙げます。
2つの陣営に分かれ1600年関ヶ原で激突しました。
天下分け目の決戦といわれる…家康の巧妙な政治戦略もあって小早川らが裏切り東軍の勝利に終わりました。
敗れた三成は処刑。
西軍の諸大名は領地を没収される改易や領地を削減される減封の処分を受けました。
こうして家康は全国の大名に対する支配権を確立しました。
1603年家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いたのです。
家康は武士の頂点である征夷大将軍に任じられ天下人になったんですね。
じゃあこれで江戸幕府が完成したんですね?いやいやそう簡単ではないんですよ。
なぜなら大坂城にはまだ秀吉の子供秀頼がいたんですね。
ですから家康もまだ万全じゃなかったんですね。
では続きを見てみよう。
…の続き。
家康は征夷大将軍になった僅か2年後の1605年に息子の秀忠に将軍の地位を譲ります。
徳川家が代々将軍を受け継いでいく事を示すためでした。
家康は現在の静岡県駿府に隠居しました。
しかし大御所と称し引き続き政治上の実権を握り続けていました。
一方大坂城では秀吉の息子の豊臣秀頼が権威を保っていました。
家康は大坂城で君臨する豊臣家の存在は天下を治める妨げになると考えました。
そこで家康は秀頼が新たに造らせた京都の方広寺の釣り鐘に刻まれた小さな文字に目をつけます。
国の平和を願った「国家安康」の文字。
家康はこれは家康の名前を分断するものだと言いがかりをつけたのです。
許しを求めてきた豊臣家に家康は厳しい条件をつけます。
つまり徳川の支配下に豊臣が入るというものでした。
豊臣側はそれを拒否。
大坂城に兵を集めました。
家康は大坂城を1614年の冬と翌年の夏の2度にわたって攻めました。
圧倒的な兵力の幕府軍により大坂城は落城。
豊臣秀頼は自害しました。
豊臣家の滅亡によって名実ともに徳川家が日本を支配していく事になったのです。
家康さんは江戸幕府を開いただけじゃなくて豊臣家を滅ぼして天下を治めたんですね。
そうなんですね。
私家康さんを演じた事あるんですよ。
(生徒たち)ええ〜。
家康の性格をひと言で表すと「辛抱強い」これに尽きますね。
何といっても関ヶ原の戦いのあと豊臣氏を滅ぼすまで実におよそ15年かかってるんですよ。
え?15年?でも館長…これはいい質問ですね。
そこには深い訳があったようですね。
その理由聞いてみましょうか。
山本先生!はい。
こんにちは。
(一同)よろしくお願いします。
我が女学館の特別講師山本博文先生です。
(一同)よろしくお願いします。
みんななかなか深いとこまで知りたいっていう感じでよく勉強していますね。
関ヶ原の戦いで家康勝った訳ですからもうそれでいいじゃないかというふうに思いますよね。
征夷大将軍にもなった。
ただそこには少し問題があるので大坂の陣に至るまで少し見てみましょう。
秀吉の子供の秀頼というのがいますけれども京都のお公家さんの中では秀頼が関白になって将軍の秀忠と一緒に政治を行うつまり共同政権のような形になるんじゃないかとあるいは豊臣家の方が徳川家にまた取って代わって徳川が豊臣に政権を返すというそういう観測もあったんですね。
(3人)へえ〜。
(山本)1611年に成長した秀頼が家康に挨拶に行くんです。
この時に家康は秀頼があまりに立派になってるのでこれをこのままにしておくと豊臣家に徳川家が取って代わられるかもしれないそういう危惧を抱くんですね。
でそのあと豊臣が何かやるんじゃないかとそれを虎視たんたんと狙って豊臣家の落ち度につけ込んで豊臣家を滅ぼすという事になる訳ですね。
つまり家康は徳川政権をずっと続けるために豊臣秀頼を滅ぼさなきゃいけなかったという事なんですね。
家康は大坂の陣に勝ったあと朝廷にお願いして元号を元和に変えるんですね。
天皇が代わった訳でもないのに年号を変える。
これは「ここで時代が完全に変わったんだ」という事を示したかったと思うんですね。
つまり豊臣家を滅ぼして最終的に徳川家が勝利して天下人になったっていうそういう勝利宣言のような元号がこの元和だったんですね。
どうもありがとうございました。
(3人)ありがとうございました。
その徳川家が全国の大名たちをどのように治めていったのかその様子を見てみよう。
「三つの要」その二。
江戸幕府が特に力を入れたのが大名の統制です。
江戸時代将軍直属の武家で1万石以上の領知を与えられた者を大名といいました。
大名は全国で二百数十家ありました。
それぞれの大名は将軍との関係や家の格などによって分類されました。
親藩と譜代を江戸の周辺や全国の要地に外様は江戸から遠く離れた遠隔地に配置。
そして全国の大名の監視や将軍家の血縁の維持などを目的に徳川姓を名乗る事が許された御三家を尾張紀伊水戸に配置しました。
大名が領地を支配する組織を藩その藩を幕府が支配する。
この仕組みを幕藩体制といいます。
更に幕府は諸大名が持つ城の数も制限しました。
1615年一国一城令を出します。
この命令は大名が住む城以外の城を取り壊すというものでした。
大名たちが多くの城を持つ事で必要以上の戦力を所有する事を防ぐためでした。
次いで大名の行動を取り締まる法典武家諸法度を制定。
そこでは「城を勝手に修理してはいけない」「幕府の許可なく大名たちの間で結婚をしてはいけない」などと定められました。
三代将軍家光は武家諸法度を改定し参勤交代の制度を加えました。
諸大名は1年置きに江戸と領地を往復し領地に帰る時には人質として自分の妻子を江戸に残す事を義務づけられました。
これは加賀藩の前田氏の参勤交代の大名行列を描いたものです。
現在の石川県金沢から江戸まで13日かけて旅をしています。
行列には2,000人余りが参加し宿泊費や食費など多額の費用を費やしました。
参勤交代は全国の大名を江戸幕府に従わせるための厳しい決まりでした。
大名たちには大名行列の旅費に加えて江戸での生活費など大きな負担がかかったのです。
家康から三代将軍の家光にかけて制度を整えそして幕府の地位を確かなものにしていったんですね。
「城を壊せ」とか「勝手に結婚できない」とかかなり自由が奪われたのに大名たちは反抗しなかったんですね。
それはやはり大名の妻子を人質として江戸に住まわせていた事これは大きかったんじゃないんですかね。
じゃあ館長。
江戸幕府は全国の大名をうまく支配してもう敵なしだったんですか?思い出して下さい。
武家は朝廷や寺社との関係に苦労してきましたよね。
そういえば信長さんは延暦寺を焼いてしまったと習いました。
そのくらい当時のお寺や神社は手ごわい存在だったんですね。
そうなんですね。
そこで江戸幕府がどのように朝廷や寺社を治めていったのかそれを見てみましょう。
「三つの要」その三。
江戸幕府の政治組織は家光の頃までに整備されていきました。
将軍の下で3〜6名の老中が中心となって政務の取り扱いを行いました。
その老中を補佐する若年寄。
将軍直属の武士である旗本や御家人に関する政務を扱いました。
一方地方には将軍直属の組織として京都所司代を置きました。
朝廷と西国の大名の監視を行うための役職でした。
1615年更に江戸幕府は朝廷や公家に対する統制法禁中並公家諸法度を定めました。
この中で幕府は「天皇は学問を第一とする」などと説き天皇の権限を年号や暦の制定など形式的な事だけにとどめました。
これは歴史上初めて武家の定めた法により天皇の行動を規定したものでした。
また寺社に対しても将軍直属の組織として寺社奉行を設置。
寺院法度を出して全国の寺社の管理や宗教統制を行いました。
幕府は宗派ごとに本山が末寺を統制する本末制度を確立。
これにより全国の寺社に幕府の統制が及ぶようになりました。
江戸幕府は今までより強くお寺や神社を支配していったんですね。
そうなんですよ。
江戸幕府は更に朝廷に対しても制度を怠りなく整備して幕府の支配を強固にしていったんですね。
やはり徳川家というのはそれまでの歴史の中からいろんな事を学んで生かしていったんじゃないんでしょうかね。
(3人)おお〜。
過去から学んで新しいルールを作っていった。
そうそう。
山本先生改めましてよろしくお願いします。
(3人)よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日は参勤交代の事をお話ししたいと思います。
大名たちってたくさんお金を使わなきゃいけなかったんですね。
参勤交代の費用は藩にとってはすごいお金がかかったんですね。
例えば加賀藩の道中費用は現在のお金にして4億円ぐらいかかったというんですね。
旅費だけだよ。
そうなんです。
2,000人ぐらい連れてくるものですから宿代もいるしいろいろとお金がかかる訳ですね。
それだけのお金を使って参勤交代やらなきゃいけないので昔から参勤交代というのは大名にお金を使わせて大名の勢力をそぐために行ったという説があるんですね。
しかしそうではなくてそもそも…つまり大名が将軍に服属しますっていうそういう態度を表明する事が目的であってお金を使わせるっていうのはその結果にすぎないんですね。
例えば今でいうと栃木とか群馬とかあの辺は江戸が近いから随分助かるようになりますけど逆に西の方の人は大変ですね。
九州なんか大変ですけど。
でもそれも隔年で江戸までやって来る訳ですね。
そして将軍に挨拶する。
挨拶しないと反逆者だという事で討伐されますから…。
え〜怖〜い。
絶対来ないといけないんですね。
大名たちは自分だけじゃなくて妻子も江戸に置きますね。
そうするとだんだん時代が下っていくと大名の子供は江戸で育って江戸で成人して大名になるんです。
つまり江戸の方がなじみのある場所になる訳です。
大名がみんな江戸にいるもんですから江戸の中で大名同士のつながりとか婚姻関係も結びますし文化的な交流もありますしそれを国元に帰ってそこでまたみんなに教えるという事で…。
文化の発展にもつながるという事。
そういういい点もあるんですね。
どうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
そういえば館長。
家康さんってどんな人だったんですか?何回かいろんな役を演じる中で家康さんもやりましたけど健康オタクだったみたいですよ。
(3人)ええ〜!すごい健康に気を遣って漢方薬なんか自分で全部調合して…。
(3人)すご〜い。
しょっちゅう青竹踏みをこうやってね。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は征夷大将軍に任命された。
更に…江戸幕府は全国の大名を将軍との関係などによって各所に配置。
更に…2015/09/18(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「江戸幕府の確立」[字]
日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)
詳細情報
番組内容
今回の時代は安土桃山時代から江戸時代にかけて。豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康の力は豊臣氏をしのぐほどになった。家康は関ヶ原の戦いで豊臣氏の家臣、石田光成らを破り、ついに天下人となる。家康によって開かれた江戸幕府は三代将軍家光の頃までに確立されるが、それはどのように進められたのだろうか? 江戸幕府による諸大名の統制方法と、朝廷や寺社を統制するための組織作りを中心に学ぶ。
出演者
【司会】高橋英樹,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【講師】東京大学史料編纂所教授…山本博文,【語り】杉村理加
ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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