「憲法守れ」

 「採決撤回」

 新しい安全保障法制が成立したきのう未明、国会前ではストレートな怒りのコールが何度も、何度も繰り返された。

 だが、こわばった悲壮感は感じられない。むしろ前向きな明るさをたたえている。「結果」としてではなく「始まり」として、この日を捉えているからだろう。

 党派によらず、党派を超えて、一人ひとりが時間と労力を使って、ただ反対の意思を示すために足を運び、連日、国会前に空前の光景が生まれた。

■「裸」の安倍政権

 こんなことが許されるのかという反発。自分は誰にも代表されていないという不満。日本が大事にしてきたものが壊されてしまうという不安。そして何より、この国の主権者はわれわれである、勝手なことはさせないという覚悟が、人々を突き動かしている。

 「民主主義って何だ?」

 「これだ!」

 「賛成議員は落選させよう」

 怒りと悔しさと今後に向けた決意がないまぜになったコールが、夜を徹して響き続けた。

 憲法は日本の最高法規であり、法律は憲法に適合させなければならない。ところが今回、「集団的自衛権の行使を容認する」という政府の方針を最上位におき、それに合わせて法律をつくることで、実質的に憲法を変えてしまった。しかも、本来は国民の側に立ち、政府に憲法を守らせる役割をもつはずの国会で、自民、公明の与党がそれに手を貸した。

 55年前、政治学者の丸山真男は、改定日米安全保障条約が、国民の多様な意見や、議会政治の根本ルールを踏みにじるやり方で衆院で強行採決されたことを受け、こう言った。

 「岸内閣は、民主主義も憲法もルール・オブ・ローも、要するに民主政治のあらゆる理念と規範を脱ぎすてて、単純な、裸の、ストリップの力として、私たちの前に立っております」(「選択のとき」)

 まさにいま安倍政権が見せつけているのは、日本が戦後70年をかけて積み上げてきた理念も規範も脱ぎ捨て裸となった、むき出しの権力の姿である。

■国会内と外の往還

 国会の大きな機能のひとつは、国民の間にある多様な意見を調整し、まとめあげることだ。ところが与党は今回、「数の力」を頼むばかりで、その役割を放棄した。国会前に空前の抗議の光景が生まれたのは、国会が空前の機能不全に陥っているからにほかならない。

 民主主義は単なる多数決ではない。多数を得て代表に選ばれた人は、自分に票を投じなかった少数の方をこそ向き、納得を得られるように力を尽くす。代表民主制の要諦(ようてい)である。

 異論や世論に耳を傾けて自論を修正する気がないのなら、議会で討議する必要はない。民主主義のプロセスを軽視し、手間を惜しむ国会議員こそが、代表制を内側からむしばみ、自らの正統性を掘り崩している。

 一方、巨大与党を前に、腰が定まらなかった民主党などの野党は今回、各界各層、全国各地に広がる抗議のうねりに後押しされ、反対姿勢を強めた。そしてその姿は、自分たちが代表されているという手ごたえを、国会の外にもたらした。

 この往還こそが政治である。

 主権者が動けば、政治は動く。政治は、政治家だけのものではない。法制は成立したが、主権者が今回、その実感を何らかの形で手にしたことは、これからの日本政治を根っこのところから変えていくに違いない。

■「現実」を自らの手で

 安倍首相は国会で、法案が成立すれば「間違いなく理解は広がっていく」と答弁した。既成事実を積み重ねれば、国民はいずれ忘れる、慣れると踏んでいるのだろう。

 岸内閣を「裸」と看破した丸山真男はこう話を続けている。

 「あの夜起ったことを、私たちの良心にかけて否認する道は、ちょうどこれと逆のこと以外にはないでしょう。すなわち、岸政府によって脱ぎすてられた理念的なもの、規範的なものを、今こそことごとく私たちの側にひきよせて、これにふさわしい現実を私たちの力でつくり出して行く、ということです」(同)

 不断の努力。

 デモに参加している若い世代が、好んで口にする言葉だ。憲法12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」からきている。

 自由も民主主義も、日々私たちが行使することによってのみ守られる。

 既成事実に身を委ねず、自分の頭で考え、言葉にし、いまここにはない現実を自らの手でつくり出していこうとする主権者一人ひとりの不断の努力が、この国の明日を希望で照らす。