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【サッカー】

クラマーさん死す 日本サッカーの父 メキシコ五輪銅の基礎

2015年9月19日 紙面から

ともに日本サッカー殿堂入りし、喜びを分かち合うクラマーさん(左)と釜本邦茂さん=2005年5月、東京都文京区で

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 【ベルリン共同】1960年代にサッカーの日本代表を指導し、「日本サッカーの父」と称されるドイツ人のデットマール・クラマーさんが17日、ドイツ南部の自宅で死去した。90歳。同国サッカー連盟が18日に発表した。死因は明らかにされていないが、日本の関係者によるとがんを患っていたという。ドルトムント出身。

 60年に来日し、64年東京五輪に向けて強化を図った日本のコーチに就任。情熱的な指導で同五輪での8強入りに導いた。指導者育成や環境整備でも大きな功績を残し、リーグ戦の開催などを提言。65年にJリーグの前身となる日本リーグが創設され、68年メキシコ五輪での銅メダル獲得の礎となった。

 66年ワールドカップ(W杯)イングランド大会では西ドイツ(当時)の指導スタッフとして準優勝に貢献。強豪のバイエルン・ミュンヘンの監督も務め、欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)連覇に導いた。2005年に日本サッカー殿堂入りした。

 日本サッカー界も悲しみに包まれた。クラマーさんが指導した1964年東京五輪では、日本協会の川淵三郎最高顧問(78)がアルゼンチン戦で得点を決め、ベスト8進出。理念を受け継ぐ“息子”は故人をしのぶコメントを発表した。

 「初めてお会いしてから55年。サッカーだけでなく、人生そのものを教えてくださった恩師で、今の僕があるのもクラマーさんがいてくれたからこそです」

 川淵最高顧問はJリーグ初代チェアマン、日本協会の会長(キャプテン)として日本サッカー界をけん引。「何か気づくと、必ずアドバイスの電話をくださり、そのたびに勇気づけられました」。07年にクラマーさんの息子が亡くなり、「初めてクラマーさんの涙声を聞き、僕は『日本に僕たちクラマーさんの息子が大勢いるんだからいつでも会いにきてください』」と伝えたという。

 1960年に初来日して以来55年。師弟の固い絆は変わらなかった。最後に会話をしたのは昨年で「『寂しいね』と初めてクラマーさんの弱音を聞きました」。日本サッカーの基礎を築きあげた大恩人。「あれほど真摯(しんし)に、すべてを懸けてサッカーと人生哲学を伝えようとした指導者を僕はクラマーさん以外に知りません。心から感謝しています。安らかにお眠りください」と日本サッカー界の父の死を悼んだ。

 

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