映画版「屍者の帝国」に寄せて
「屍者の帝国」小説版の続きを書いていた二〇〇九年から二〇一二年の頃を思い出そうとしてみても、今は何か、別人の身に起こったことのように思える。手を離れた小説が、自分の中を通っていったという感覚だけが残っている。通路のように何かを通すものになれればよいと考えていた。
牧原亮太郎監督はじめ製作スタッフの方々の手になる映画版への橋渡しがこうして叶ったことで、小説版の仕事を引き受けたときの、果たすべき役割のひとつを終えることができたと思う。映画版は映画版として、伊藤計劃の残したわずかな原稿からまた新たに、オリジナルの作品を展開してもらうのが最善だとは思ったが、人の世には叶うことと叶わないことがある。
一般に、メディアを乗り継いでいくのはよいことだ。小説化、漫画化、テレビ化、映画化を相互にとりまぜる手法は、メディアミックスとやや揶揄気味に呼ばれたりもしているが、世界の広さを感じさせてくれる手掛かりともなる。
自分の場合は、自作の小説が他の言語に翻訳されたりするときには、「そちらの方が面白くなるならば、筋自体変えてもらってもかまいません」と言うことにしている。これはやや極端な例ではあるが、作品が世に残るためには、複製や変更を恐れるべきではない。ただし、どこで誰の手が入ったという履歴は記録しておくべきだけれども。
物語の一生ということを考えるなら、一つのテキストを固定して、複製を繰り返すのは一つの段階であるにすぎない。物語は一冊の本が出版され、評判になり、増刷され、他の言語に翻訳されることで繁殖しているわけではないと思う。他の形態に姿を変え、冗長な部分を落とし、新たな要素を取り入れて変貌していく過程が、一生という言葉には必要なはずだ。
一人ではどうにもできないことは世に多い。一人では原理的に実行できないことなどもある。一人では叶わぬ変身もある。たとえばこの映画版「屍者の帝国」における主人公たちの関係は、自分には思いつくこともできなかったものだ。盲点というよりも、そこに気づいてしまうと、それ以上の作業を継続できなくなる類いの急所に近い。
そんな大仰な話ではなく、背中に貼られた紙のようなものであるかも知れない。人間は自分の背中に貼られた紙の存在に気づくだけでも、他者の存在を必要とする生き物である。
物語の一生は、一つの作品が多くの人々の手に渡り、姿を変えていく間だけには留まらない。それを読み、観て、聞いた人々の考え方や感じ方を変え、その人の中に溶け込んでいく。あなたの体に溶け込んだ物語がいつか、あるいは何世代かを経て伝えられた印象が、また誰か別の人の手になる一つの作品として世にその姿を現す。その物語は、先祖の一人のことなど覚えていないかも知れず、判断がつく者だってもういないかも知れないが、でもだからどうだというのか。そこではとにかく、何かが生きているのだ。
あなたがそこにいてくれてよかった。
小説版を終えたときにそう思った。映画版を観終えて今はこう思う。
あなたたちがそこにいてくれてよかった。