安保法成立 最後の歯止めは主権者だ
戦後70年の日本の歩みは重大な岐路を迎えたといえるだろう。
安全保障関連法が成立した。多くの憲法学者が憲法9条に違反すると指摘する法律である。
その内容も、これまで日本が営々と築いてきた平和主義を空洞化させる危険をはらむ。
国会の外では採決に反対する市民の声が響いていた。「9条壊すな」「政権の暴走止めろ」-。
安倍晋三政権が多くの国民の懸念や疑問を無視して、法秩序を揺るがし、日本の将来のリスクを高める法律を強引に成立させたことに対し、強い怒りを覚える。
▼憲法9条が空洞化
この法律のどこが危険なのか。あらためて指摘したい。最も重大な点は、これまで憲法9条で「使えない」と解釈されてきた集団的自衛権の行使を認めることだ。
個別的自衛権だけが認められているという従来の憲法解釈では、日本は自国が攻撃されたときのみ反撃できた。「専守防衛」の原則である。武力行使の要件はシンプルで、拡大解釈の余地はない。
しかし、これに集団的自衛権が加わると、武力行使できる要件が曖昧になる。新たな法律では「わが国と密接な関係がある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命や権利が根底から覆される明白な危険がある事態(存立危機事態)」には、集団的自衛権として武力行使できるようになる。
これは限定のようで限定になっていない。具体的にどんな状態が存立危機事態にあたるか、政府に判断が委ねられているからだ。
国会審議でも安倍首相ら政府側は「政府が全ての情報を総合し、客観的、合理的に判断する」と繰り返すだけだ。これでは事実上、法的な歯止めはないに等しい。
時の政府が「総合的に判断した結果、存立危機事態にあたる」と言えば、自衛隊は世界のどこででも武力行使ができることになる。やはり、日本を「戦争
に近づける」法律だと言わざるをえない。
▼「自存自衛」で戦争に
この法律は日本の安全保障政策を大転換させる。そんな節目だからこそ、歴史を振り返りたい。
「帝国は今や自存自衛の為(ため)決然起(た)って一切の障害を破砕するの外(ほか)なきなり」
1941年12月8日に出された太平洋戦争の開戦を布告する詔書の一部である(「米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」。原文はカタカナ。一部を常用漢字に修正)。
かつて日本の指導者は「自存(自力で存在する)」と「自衛」を理由に、日本から数千キロ離れたハワイや、マレー半島で米軍と英軍を攻撃し、無謀極まる戦争に突っ込んでいった。この時点で日本本来の領土は、どこからも本格的な攻撃を受けていなかった。
「自衛」や「自存」の範囲は権力者の都合でここまで広がった。肝に銘じたい。「存立」も「自存」とほぼ同じ意味で使われている。
安倍首相は集団的自衛権の適用例として、ホルムズ海峡の機雷掃海を挙げた。機雷を除去しないと日本に石油が入らず、国民の生命が脅かされるから、武力行使を認める-という論理だ。
「自衛」「存立」の拡大解釈がすでに始まっていないだろうか。
▼「納得してない」声を
法案の審議が進むにつれ、市民の反対運動は拡大する一方だった。組織とは無縁の市民がインターネットの呼び掛けに応じて集会に足を運び、それぞれの言葉で法案反対を訴えた。ほとんどの世論調査でも、最後まで法案成立への「反対」が「賛成」を上回った。
民意を無視された国民は、安保法制成立の現実にどう向き合えばいいのだろうか。
しつこく声を上げよう。「私は納得していない」と。
その声が政府に法律の恣意(しい)的な運用をためらわせ、自衛隊の際限なき活動拡大への一定の抑止になるはずだ。安倍政権が連休前の法案成立にこだわったのも、反対デモの拡大を懸念したからである。政権は民意を恐れている。
日本が平和主義の道を踏み外さないように、政権を監視し続けよう。政権の示す道に納得がいかないなら、時には街頭で声を上げ、時には投票で意思表示しよう。
日本を戦争に向かわせない最後の「歯止め」は、主権者たる国民なのだから。
=2015/09/19付 西日本新聞朝刊=