安全保障関連法案が参院本会議で成立への最終段階を迎えた。
特別委員会に続き、自民、公明両党と一部野党で採決を強行する構えだ。民主党などの反対を数の力で退け、民意に背を向ける。審議は尽くされておらず暴挙というしかない。
新たな安保法制は戦後日本のこれまでの歩みを大きく転換する内容だ。「平和国家」としての在り方を危うくしかねず、採決強行を容認するわけにはいかない。
集団的自衛権行使は、他国の戦争に巻き込まれる恐れがぬぐえない。米軍などの後方支援拡大は軍事行動一体化につながり、自衛隊員のリスクは間違いなく高まるだろう。
恣意(しい)的な運用に歯止めをかけるには私たち国民が目を光らせるしかない。今後問われるのは主権者としての自覚と政治を監視する姿勢だ。
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そもそも、この法制で政府、与党は何を目指しているのか。説明を聞いてもいまだによく分からない。
集団的自衛権は国際法上、日本も保有している。だが憲法9条の制約があり、行使はできない。それが歴代内閣の憲法解釈だった。
9条は、国際紛争解決の手段として武力による威嚇や武力行使を永久に放棄すると定めている。
集団的自衛権は、他国に加えられた武力攻撃を阻止する武力行使であり、憲法が許容する自衛の措置を超えるため許されない-。
長年引き継がれてきたその憲法解釈を、安倍政権は昨年7月の閣議決定だけで変更した。「行使は許されない」という結論が「許容される」となり、正反対の内容だ。
【無理筋の解釈変更】
その主張は無理筋に等しい。
政府は「従来の憲法解釈の枠内」とする。根拠として1959年の最高裁の「砂川判決」を挙げる。判決の一部に「必要な自衛の措置をとり得る」との表現があり、集団的自衛権も許容されるとする。
だが砂川判決では集団的自衛権は争点でなく、その説明に納得する憲法学者はほとんどいない。早稲田大の長谷部恭男教授は、こじつけの域を超えた「暴論」と断じる。
法制が動きだせば違憲訴訟が起こされる可能性がある。地方公聴会で公述人を務めた元最高裁判事の浜田邦夫氏は「最高裁で違憲判決が出ないという楽観論は根拠がない」と政府、与党を強く戒めた。
本来は憲法を改正して法整備を進めるのが手順だが、ハードルが高い。そこで解釈変更でまず9条の制約を取り払う。「解釈改憲」がまかり通れば、今後も時の内閣の判断で解釈変更が繰り返されかねない。
全国で反対運動が広がったのは、権力を縛る立憲主義の危機を多くの人が感じ取ったからではないか。
安倍晋三首相は「安全保障環境が変化した」と再三、口にする。それが新安保法制の理由という。
確かに北朝鮮の核・ミサイル開発は地域の脅威であり、中国の軍事的な台頭も国民に不安を与えている。沖縄県・尖閣諸島周辺では中国艦船による領海侵入が相次ぎ、不測の事態も起きないとは言えない。
武力行使に至らない「グレーゾーン事態」も予想され、離島警備などの備えは検討すべきだろう。
【悪循環に陥る恐れ】
ただ、防衛力の強化は相手国の対抗策を呼ぶ。「安全保障のジレンマ」と呼ばれる悪循環の危険性だ。
日米同盟の強化で抑止力を高めれば、北朝鮮や中国の動きは本当に止まるのか。むしろ際限のない軍事競争で緊張が高まらないか。
国際政治学が専門の多湖淳神戸大大学院教授は、既に東アジア地域は「軍拡の悪循環」に陥りつつあると指摘する。その上で「協調を重視する信頼関係を構築してこそ安定は生まれる」と政府の外交努力を促す。
しかし、政府は「備えは必要」と言うだけで、詳細な説明はない。「積極的平和主義は武力の積極的使用か」との批判にどう応えるのか。議論が十分に深まらないまま、審議は打ち切られた。
政府の対応に、自衛官や家族の不安も高まっている。「命令されたら行くけど、心の整理がつかない。日本の安全にどうつながるのかを知りたい」(30代の男性陸曹)。こうした声に真摯(しんし)に向き合うべきだ。
首相は「法案は国民の命と平和な暮らしを守るため」とする。ところが昨年の閣議決定後、国民ではなく、豪州などの首脳にその内容を詳しく伝えた。今年4月には米議会で「夏までの成立」を約束した。まず語り掛けるべきは国民ではないのか。
誰のための、何のための法制か。今も疑問は解消していない。はっきりしているのは今、「平和主義」が揺らぎ始めていることだ。
政府は禁断の「ルビコン川」を渡ろうとする。だが国民の意思で引き返すことはできる。これで終わったわけではない。これからが重要だ。