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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第14回 『映画を学ぶ/映画を教える』

諏訪敦彦 「生」を学ぶこととしての映画教育

諏訪敦彦.jpg 母校である東京造形大学で映画教育に携わるようになって4年になる。しかし、映画を「教えている」のかと問われると、違うという気がする。
映画の撮り方や、監督に必要な知識などを「教えている」という実感もないので、「はたして映画を教えることができるのか?」と、あちこちで耳にする問いもピンと来ない。「教える/教えられる」という関係は、教える側がより多くの知識や経験を持っており、教えられる側より優位であるという関係を前提とし、その関係を維持しなければ成立しない。露出計の使い方や、カメラの操作を教えることはできるが、映画の撮り方を教えることはできない。イマジナリーラインがどうのこうのと言ってカットの割り方などを技術として教えたとしても、映画の撮り方を教えたことにはならないだろう。なぜなら、カット割りの原則など単なる習慣でしかなく、本来ルールなどない自由なものであり、映画の撮り方もまた自由であるからだ。


 私は学生時代から助監督として働き、多くのことは現場で学んだ。大学など必要ないと思い、やめようと思ったときもある。しかし、大学で学んだことがひとつだけあった。それは「自由であること」である。現場でボロボロになって、ふと大学の授業に戻った時、そこではロラン・バルトやクリスティアン・メッツなどの最先端の映画知をめぐってみなが議論していた。それらの理論が素晴らしかったと言いたいわけではない。理論など映画制作においては、何の役にも立たない。ただ、彼らの知の営みが、知らぬ間に染まってしまっている習慣や作法から私を解放し、まったく孤独に独自の生を追求するという道があることを私に示してくれた。つまり「自由であれ」と。先行するさまざまな価値観や、習慣に捕われることなく「自由であること」。私自身が独自な生を生きているように、映画を撮ることはカメラを使って自分の力で世界を知るという、独自な生の行為であると思う。これを肯定する勇気と自由は、現場の経験では得られない純粋な知の働きである。

 学生たちは、映画を制作しながら日々さまざまな困難にブチ当たる。しかし、それを乗り越える便利な技術などなく、「こう撮ったほうがいい」とか「こう編集したほうがいい」などという助言は些末なことでしかない。彼は彼自身であること、つまり自由であることによってその困難を乗り越えなくてはならない。私にできることはそれを励ますことだけである。映画を教えることと、映画監督を養成することを混同してはいけないと思う。映画監督になる人間など毎年一人いるかいないかである。もしそれが教育の目的だとすると、その教育は99パーセント失敗ということになってしまうだろう。監督や作家には、努力してなれるわけではない。言ってみれば偶然になるのであって、教育が素晴らしいからなれるわけでもないし、学校で映画を学ばなくても監督にはなれる。それよりも彼らが映画制作を経験することで、自分の力で自由に生きることを知り、そこで得た映画的な思考が、その後の人生のさまざまな局面において「よりよく生きる」ことの技術として生かされることを私は願っている。

 ひとつの提言。私たちの世代の監督たちが教育に携わるようになった。教育機関も乱立している。さまざまな問題も抱えている。映画を教えることについてみなで持続的に議論し、意見を交換する場を作ってはどうだろう?


諏訪 敦彦(すわのぶひろ)


1960年生まれ。
長崎俊一『九月の冗談クラブバンド』(82)、石井聰互『半分人間/アインシュルテュルツェンデ・ノイバウテン』(86)、山本政志『ロビンソンの庭』(89)等の助監督をつとめる一方、90年『報道スペシャル ニュースが地球を駆け巡る』(テレビ東京)の共同演出をきっかけにTVドキュメンタリーの演出を手掛ける。
97年には『2/デュオ』で劇場用映画の監督としてデビュー。脚本なしの即興演出による俳優たちの演技と映像にみなぎる緊張感が大きな話題となり、ロッテルダム国際映画祭においてNETPAC賞受賞。
次作『M/other』では、99年度カンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受賞。2003年には『H story』(第54回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門正式招待)を発表。07年6月、最新作『不完全なふたり』(第58回ロカルノ国際映画祭 審査員特別賞・国際芸術映画評論連盟賞受賞)とジュリエット・ビノシュらを起用したオムニバス映画「パリ・ジュテーム」が公開された。