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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第16回 『東映!』
追悼・菅原文太

故菅原文太氏が死の直前、沖縄知事選挙での応援演説、映画「仁義なき闘い」於ける彼自身の台詞「山守さん、弾はまだ残こっとるがよ、一発残こっとるがよ」この台詞に籠められた意味は彼自身の存在論的意味に於いて、あまりにも政治的だ。

これほど現在、この国に於ける政治状況全般を比喩的に包括し方針を提起した「言葉」は在るまい、少なくとも僕はそう感じる。

それは約40年前、東映京都撮影所の熱気に満ちたセット、深作欣二監督の発する、ヨーイ・スタートの掛け声、カチンコが鳴る、「弾、もう一発残こっとるがよ」と、同じ台詞が彼の肉体から発せられる。

カチンコを打つのは僕だ。レインコートに赤腕章を巻いている。

すでに終わったはずの冬季闘争なのだが、僕は東撮地区から始まっていた「東制労闘争」に参加していて臨戦態勢を解いてはいなかった。 

そんな僕に対し彼は、いつも暖かい目線を送ってくれていて、ライテイング待ちが終わり、テストの始まりを告げる僕の「文ちゃん、お願いします」の声にも気軽に「俺か、よし行こう」と気軽に対応してくれていた。

最初に彼と仕事を共にしたのは1970年「まむしの兄弟」中島組で、入社間もない製作進行係で右も左も分からないくせに「弁証法的理性批判」「現象学」などと理屈ばかりこねている僕に「家畜人ヤプー」の話を仕掛けてきたのは彼の方からであった。

その後、僕は鈴木則文監督の仕事が多くなり「女番長シリーズ」を始め若い女優達と共に東映京都では異端とも呼ばれる仕事が続いた。

そんなある日「女番長ゲリラ」だったと思う、ストーリーとも脈略関係なく、「文ちゃん」がスターとして、ファッションモデルの様に登場し、迎える美女達の中をただ去って行くシーンを撮ったその日、クランクアップで打ち上げパテイー会場に向かう道すがら、僕のガソリン漏れの臭いのするスバル360に、鈴木こうぶんさん(と呼んでいた)天尾完次プロデユーサー、文ちゃん、それに運転手の僕、全員酉年(僕だけ一回り下)が体をちじめる様にして乗り、悪戯が成功した子供のようにはしゃいでいた4人、楽しかった日々の思い出。

1973年、天尾完次、鈴木則文は東撮へ移り、入れ替わるように深作欣二の「仁義なき闘い」が始まった。

僕は念願だった助監督になり、以降17本に亘って「深作組」を担当する事になる。

助監督風情がスター俳優と親しく付き合うと言う事はまず無い。

しかし僕らは違った。

「仁義なき闘いシリーズ」の撮影期間中も、僕は「東制労闘争」のストライキや集会のため東撮へ出かける事が度々有った。

行事が終わると練馬に別れを告げ新宿ゴールデン街へと直行した。

彼は桂という店のマスター中島氏と仲が好く、東京に居る時は良く通っていた。

其処で待ち合わせて飲んだ。

他の店ではホワイトに限られていた僕たちの世代だが、彼のボトルキープはオールドだったので良い酒の酔いかたのように思えた。

ある夜、ジュリーの「時の過ぎ行くままに」を有線から流れる曲に合わせて激しく踊る、状況は混沌としており、虚無的な時間がいとおしかった。

2坪も無い薄暗いカウンターだけの店でデイスコの様に両手を上に挙げて二人はひたすら踊っていた。

新仁義なき闘い「組長の首」「県警対組織暴力」の頃撮影終了後、夜の祇園、河原町界隈を徘徊する事が多くなり、本物のやくざのお兄さんが「兄い、一席お付き合い願えませんか」と歩いている僕らに声を掛けてくることも多く、丁重にお断りする事に苦労した事もあった。

高級クラブへ行く事も有ったが、むしろ街を離れて吉田山の中腹に在る「白樺」の様な、素朴な店を彼は気に入っていた。

高瀬泰司と言う元京大学生運動のリーダー夫妻が経営する店で、客の多くは現役の活動家、元助手共闘の学者、京大西部講堂連絡協議会のメンバー、大駱駝艦や憂歌団等、ユニークでありアカデミックな雰囲気が漂っていた。

其処で彼は若い学生達と議論をし、ホワイトの水割りを飲みながら、文化芸術政治を語っていた。

1989年、彼との最後の仕事となった「リメインズ」は千葉真一監督作品で企画に深作欣二、僕はプロデユーサー補兼メーキング監督、主演、真田広之・菅原文太、松竹作品でありながら、身内の集りの様であった、がしかし事件は起きた。

北海道、雪山の頂上でのヘリ撮影で、真田が監督である千葉に堪忍袋の緒を切った。

JACの一人ひとりに限りなく愛情と友情を注いでいた真田は、これまで千葉のJACに対する横暴に対し耐えに耐えて来た経緯があり、山頂での千葉の中堅メンバーに対する暴力をきっかけに、降板と絶交を宣言し、ヘリで山を降りてしまったのだ。

その場は日を措いて解決したものの、撮影は雪中の映画にもかかわらず7月まで延び、僕を含めてギャラの未払い等不祥事が続出、初日舞台挨拶では、菅原文太、舞台挨拶拒否となってしまった。

そんな事があった後、東麻布の彼の家を訪ねたのは、アメリカに移住して仕事をする事を報告するためだった。

「がんばれよ!」の声を期待していた僕だったが、意外にも「逃亡するのか」と冷ややかな対応だった。

思えば鈴木則文さんからも「絶好球!打て」の文を何度も貰っていた。

それから10年の月日をロスアンジェルスで過ごし、1998年帰国後、東京を拠点とした僕は仕事と平行して政治運動にも参加するようになり、2006年第一次安倍政権が「改憲」を打出した時、元全学連・全共闘を中心とした「9条改憲阻止の会」の運営委員となり、その運動をドキュメンタリー「We命尽きるまで」として映画にした。

そして3・11が起き、菅原文太の姿は反原発運動の先頭に在った。

幾つかの集会で、演壇上の彼を撮影する僕、レンズを通しての関係性が再び生まれた。

しかしそれ以上には進まなかった。

個人的なつながりを求める事を僕は遠慮した、左翼の利用主義を嫌っていた僕の自己制御が働いていたのだろう。

経済産業省の小さな角地に3張りのテントが立っている。

2011年9月11日からすでに3年余、脱原発オキュパイ運動の拠点だ。

その始まりから現在に至るまで僕はテントのドキュメントを撮り続けている。

そのテントから「福島の真実を世界に向けて発信しよう」とインターネットテレビを開局し、プロデユーサーである僕はそのゲストに「文ちゃん」をお迎えしようと奔走したのだが、スケジュール調整が付かない内に、局そのものが無くなってしまい、これは残念な事だった。

脱原発運動の大きな盛り上がり、都知事選と進む中で、彼の政治姿勢は次第と明確になお且つ先鋭なものとなっていった。

先の沖縄での応援演説の冒頭「政治の役割は二つあります」「国民を飢えさせない事・安全な食べ物を用意する事」「絶対に戦争をしないこと」誰にでも判る言葉で本質を語りかける彼の勇姿は、最後の舞台となった沖縄の地で輝いていた。

今準備を進めている3・11をテーマにした劇場用映画「フェニックスの夜が明けて」に関して、何度協力を依頼しようと思ったか判らない。

運動に関しての相談も、何度か会いに行こうと思った、しかしまた次があるさとぐずぐずしているうちに、訃報を聞く事となってしまった。

おりしも、日本映画監督協会会員有志による「集団的自衛権行使を考える会」の集まりのある朝の事であった。

安倍政権によって仕組まれた狂気の選挙で、ファシズムが仕組まれてゆく状況を、目の当たりにしている僕らに出来る事は何か、考えよう、そして行動しよう。

彼の蒔いた種を確認しよう、そして育てよう。

「東制労闘争」当時の時代精神を共有する同志、菅原文太さん、安らかに眠れ、と言ったら言い過ぎだろうか、いやそんな事はあるまい「おう、おれか」と答えてくれるはずだ。

最後に、原発再稼動反対、特定秘密保護法反対、集団的自衛権行使反対、憲法改悪反対! 追悼に代えて 合掌。

2014年12月25日
藤山 顕一郎