岸信介研究の第一人者である原彬久・東京国際大学教授は、安倍晋三首相について「安倍氏の発言や著書を読むと、やはり安倍氏の中に岸信介はいるな、と思う」(朝日新聞デジタル二〇一五年五月二十日)と述べている。確かに、安倍首相本人も祖父の岸を強く意識している。改憲を目指すなどの共通点もある。だが、経済方面に目を向けると、二人は著しい対照をなしている。
安倍首相の成長戦略は、規制緩和や自由化など、典型的な経済自由主義によって貫かれている。これに対して、岸信介は戦前・戦中は商工省官僚あるいは商工大臣として統制経済の遂行に力を注いだ中心人物であり、戦後も経済自由主義には懐疑的であった。
では、経済自由主義に背を向けた岸信介の経済思想とは、どのようなものであったのか。
海外調査で見たものは
一九二〇年、農商務省(のちの商工省)に入省した岸は、二六年、アメリカで開催された世界博覧会に出席するために渡米し、イギリスとドイツにも立ち寄って調査を行うという機会を得た。岸はその調査報告を商工大臣に提出したが、その時は相手にされなかったという。しかし、三〇年、浜口内閣の下で金解禁が実施されて昭和恐慌が勃発すると、岸の報告書が再度注目され、岸は再びヨーロッパへと派遣された。この二度の海外経験は、岸の経済思想の形成に決定的な影響を及ぼしたはずである。というのも、当時の欧米においては、資本主義の大転換が進行中であり、その衝撃は経済理論の革新を引き起こすほどのものだったからである。
その資本主義の大転換について、アルフレッド・チャンドラーの大著『スケール・アンド・スコープ︱経営力発展の国際比較』(有斐閣)に依拠しつつ、概説しておこう。
十九世紀後半、欧米においては、蒸気船、鉄道、電信といった新たな輸送・通信手段が出現した。それ以前の資本主義経済においては、所有者が個人的に管理する比較的小規模の企業によって運営されていた。しかし、鉄道・電信システムの建設は大規模な投資を必要とし、その運営は複雑であったため、その企業の株式をほとんど保有していない俸給経営者が専門的に経営を担うようになった。所有と経営が分離したのである。
この新たな輸送・通信システムは、大量生産・大量販売を可能とした。生産量や取引量が爆発的に増加したため、大量生産・大量販売を行う企業もまた、所有と経営を分離させ、業務上の意思決定を俸給経営陣に集中させるようになった。
さらに十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、画期的な製法の革新が行われ、新たな産業が次々と勃興した。いわゆる「第二次産業革命」である。
「規模の経済」の勃興
それまでは、衣服、繊維製品、家具、印刷など、労働集約的な産業が中心であった。これらの産業は、設備やプラントの改善によってコスト上の優位をもたらすことはできたが、それはさほど目覚ましいものではなかった。ところが、新たに勃興した産業は、製鉄、製鋼、銅やアルミニウムの製錬、機械による加工と包装、互換性部品の加工・組立による複雑な機械、産業用機械や化学製品の製造など、資本集約的なものであった。これらの新産業は、いわゆる「規模の経済」が大きく働くものであった。それゆえ、規模がより大きいプラントほど、コスト上の優位に立つことになる。
さらに、これらの新産業は、同じ原材料・同じ中間工程から多数の製品を製造することができるため、「範囲の経済」も大きく働く。すなわち、同じ工場で同時に製造される製品数が増加すれば、各製品の単位費用が低下するのである。
ただし、この「範囲の経済」を享受するためには、生産設備を通過する原材料の通量が生産能力を下回らないように維持されていなければならない。さらに原材料から生産設備への通量だけではなく、中間業者や消費者に至るまでの流れをも調整する必要がある。もし、こうした調整がうまくいかず、現実の流量が生産能力を下回る場合には、固定費用が巨額であるため、単位費用は急増することになってしまうのである。
要すれば、規模と範囲の経済が大きく働く資本集約的産業においては、その費用と利益は、定格生産能力と通量によって決まるのである。そして、通量の調整には、生産から流通に至る全工程を管理する組織化された人間の能力を必要とする。この組織化された人間の能力のことをチャンドラーは「組織能力」と呼ぶ。「組織能力」こそが、資本集約的産業の競争力を決める主たる要因に他ならない。
資本集約的産業においては、製品の生産と流通に関する職能上の活動の監督、諸過程を通過するモノの流れの調整、さらに現在の業績と予想される需要を基礎とした将来の生産と流通のための資源の割当を行うため、高度な「組織能力」を有する統合的な経営階層組織が構築されるようになる。
「経営者資本主義」の時代に
こうした統合的階層組織の先駆的な例は、アメリカのスタンダード・オイル・トラストや、ドイツの化学会社バイエル、ヘキスト、BASFであるが、ほかにも多くの産業において、大規模で高度な組織能力を発揮して、規模と範囲の経済を活用して著しい費用の減少を実現する企業が次々と登場するようになった。こうした新たな資本主義の形態を、チャンドラーは「経営者資本主義」と呼ぶ。さらにチャンドラーは、アメリカ、イギリス、ドイツの三カ国における経営者資本主義の違いを比較している。
アメリカは、経営者資本主義の発達が最も顕著であったが、主要企業は市場シェアと利益を求めて競争していた。広大な国内市場が競争環境の維持を可能にしたのである。チャンドラーはこれを「競争的経営者資本主義体制」と名付けている。
ドイツにおいても経営者資本主義が発達したが、主要企業が国内外で市場シェアを維持するために互いに協定を結ぶ傾向が強かった。この「協調的経営者資本主義」により、ドイツは、第一次世界大戦による敗戦から急速に復興を遂げることができた。
これに対してイギリスでは、企業家たちが従来の個人経営に執着し、経営資本主義に必要な投資や組織能力の開発に消極的であった。このためイギリスでは「個人資本主義」が残存し、ドイツやアメリカの後塵を拝することとなったのである。
なお、この「経営者資本主義」の成立は、経済思想にも多大な影響を及ぼすことになった。
先述の通り、資本集約的産業においては、産出量の増大に伴って生産コストが低下する。この現象を「費用逓減」という。
他方、経済思想の主流をなす経済自由主義は、自由競争市場の価格メカニズムによって需要と供給が均衡するという「市場均衡」を至上命題としている。ただし、この市場均衡は、「費用一定」あるいは「費用逓増」を仮定することで成り立っているのである。
市場は自動的に均衡するのだから政府介入の必要はない。これが、経済自由主義が「自由放任」を正当化する理論的根拠であったはずである。
しかし、費用逓減現象が起きるのであれば、価格メカニズムによる需要と供給の均衡は達成できなくなる。企業は、生産量が拡大するほどコストを引き下げ、利潤を拡大できるのだから、市場シェアの拡大を目指して投資競争を繰り広げることになり、市場は均衡しない。そして、激甚な競争の結果、最終的には寡占や独占の発生に至ってしまうのである。
また、経済自由主義は、個人や企業が自己利益を追求して競争するものと想定している。これに対して経営者資本主義においては、チャンドラーが指摘するように、企業内あるいは企業間の調整や協調を実現する「組織能力」が決定的に重要となる。しかし、経済自由主義の理論的枠組みでは、この「協調」や「組織能力」を説明するにははなはだ不十分なのである。
ドイツを日本の範として
このため、十九世紀末から戦間期にかけて、アメリカの制度学派、ドイツの歴史学派、イギリスのフェビアン社会主義やニューリベラリズムなど、新たな経済思想が続々と台頭するようになった。これらの新思潮は、いずれも経済自由主義の非現実性を批判し、現実の経済において制度や団体が果たす役割に着目し、政府の介入による社会改良の必要性を積極的に認めようとするものだった。
こうした新たな経済思想が、世界恐慌の経験を経て、ニューディール政策の誕生や、ジョン・メイナード・ケインズによる理論的革新を用意したのである。ちなみにケインズが「自由放任の終焉」を発表したのは一九二六年、岸が初めて欧米を訪れた年である。
岸はまずアメリカで経営者資本主義と遭遇し、その強大さに圧倒されている。そして「亜米利加に比べて見ると殆んど我々の今迄考えて居ったこととは桁違いの御話にならない事柄である」と暗澹としてドイツに渡ったのが、「独逸の化学工業の組織を面の当り見るに及び」「決して日本産業の資源の貧弱ということを憂えるに当らない」と考えるに至ったという(岸信介「産業合理化より統制経済へ」『産業合理化』1934年4月)。日本にふさわしいのは「協調的経営者資本主義」だと悟ったというわけである。
そのドイツで当時行われていたのが「産業合理化」運動であった。岸は、この「産業合理化」運動を「第二の産業革命」と呼ぶべき重大事件とみなした。従来は自由競争の原則が金科玉条とされてきたが、産業合理化とは「協調」を精神としてコストを低下するものである。単なる協調なき自由競争や利益追求による進歩は、産業合理化ではない。資本主義の原則において、「競争」から「協調」への一大転換が起きたのである。
なお岸は、産業合理化はドイツでは成功したが、アダム・スミス以来の経済自由主義の伝統が強いイギリスにおいてはうまくいかなかったと観察している。岸の眼は、同時代的に、しかもわずかな時間でチャンドラーの研究と同じ結論に達した。
さらに「協調」は、企業間のみならず、生産者と販売業者と消費者、さらには資本家と労働者の間でも行われなければならないと岸は言う。つまり国民経済全体が有機的に連関し、協調する必要があるのである。「之れを要するに、産業合理化と云うことは結局一の国民経済を経済単位として其の繁栄を期するがために互に協調してやって行こうとする運動に他ならないのである」(岸信介「欧州に於ける産業合理化の実際に就いて」『産業合理化』1932年1月)。
ドイツは第一次世界大戦後の困窮の中で、米英仏に対抗すべく、国民が一致団結した。国家間は「競争」したが、国民同士は「協調」を優先した。言い換えれば、ナショナリズムが協調をもたらし、産業合理化へと駆り立て、協調的経営者資本主義を実現したのである。このドイツの経験を日本の範としようというのが、岸の統制経済構想であった。
混合経済の先駆
岸は、誤解を避けるべく、彼の言う「統制経済」はソ連のような計画経済とは違うと明言している。合理化は強制力ではなく、誘導的手段によって各人の自発的協力を促すようなものであるべきだと考えていたからである。岸の言う統制経済とは、「国民経済というものが有機的の存在として我々に認識せられる限りに於きましては、其国民経済の内部に於ては競争というものは或種の制限を受けて全体の利益を増進するように凡て仕組まれねばならない」というものであった(「産業合理化より統制経済へ」)。これは確かに「計画経済」ではない。むしろ、戦後の西側世界において成立した「混合経済」の先駆と言ってよい。なぜ「統制経済」が必要なのか。従前の自由放任主義の理論は、自己利益を追求する主体の自由競争によって需給が自動的に調節されると説いてきた。しかし、第一次大戦後に到来した世界不況は、供給過剰とデフレーションをもたらしたが、需給均衡へのメカニズムは働かなかった。
製鉄業のような巨大な固定資本と高度な技術を要する産業においては、需要の変化に対して供給を柔軟に対応させることができないため、生産過剰を解消することが極めて困難であり、市場による需給の自動的な均衡の達成などあり得ないのである。こうした現実を前にして、市場に代わる新たな需給調整機能が待望され、統制経済という発想が生まれてきた(「産業合理化より統制経済へ」)。こう説明する岸は、アメリカ制度経済学派やケインズなど、当時最先端の経済思想に到達していたのである。
岸の理想は解体された
なお、岸が満州経営に辣腕を振るったことはよく知られている。その際、岸は、鮎川義介率いる日産を満州に移駐させるのに尽力した。満州経営の成功のためには日産の「経営力」が欲しかったのだという(岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』文春学藝ライブラリー)。「経営力」とは、チャンドラーの言う「組織能力」のことであろう。やはり岸は、経営者資本主義の肝をつかんでいたようである。だが、日本が戦争への歩みを進めていく中で、岸の目指した協調的経営者資本主義としての「統制経済」は、戦時経済としての「統制経済」へと変容していかざるを得なくなった。かつてアメリカの経済力に圧倒され、「御話にならない」と嘆いた岸はもちろんのこと、軍人も含め誰にも日米戦争に勝つ自信などなかったのだが、外交努力が失敗して追い詰められたため、「最小限の生存」を確保するべく戦わざるをえなくなった。岸はそう述懐しているが、おそらく、それが実態であったのだろう。
岸は東条内閣の商工大臣として戦時統制経済の運営に奔走したが、戦況の悪化の中で、それが円滑に行くはずはなかった。それゆえ統制経済には失敗のイメージが付きまとう。しかし、戦争という特殊事情を考慮に入れなければ、岸の統制経済論の本質を正当に評価することはできまい。
岸の下で戦時統制経済を担った商工官僚たちは、戦後、通商産業省に復帰し、かつての経験を活かして産業政策を実行していった。戦前、企業間の協調のために形成された各種の業界団体もまた、戦後に引き継がれた。こうして戦前の統制経済を源流とした戦後の日本型経済システムが形成されていったのである(岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社)。
岸自身もまた、1926年の欧米視察以来の協調的経営者資本主義の理想を、戦後においても一貫して堅持した。
1953年、政界に復帰した岸は「ティピカルな資本主義、自由主義で、すべてのものは、自由競争に任すのだということは日本の現状からいうと許されない。(中略)あくまで各人の持っている能力をできるだけフルに発揮せしめると同時に全体として一つの計画性をもたねばならぬという考え方をしなければならない」と述べ、「資本と経営と労働とがバランスをもって再建について真剣に協力するという体制」を構想している。岸がその範としたのは、やはりドイツであった(岸信介「新保守党論」『改造』1953年5月号)。
1957年に成立した岸政権は「新長期経済計画」を策定し、鳩山前政権の緊縮財政の方針を改めて積極財政に転じ、公共事業費を大幅に増額して道路整備や港湾整備を積極的に推し進めた。この「新長期経済計画」は、次の池田勇人政権における「所得倍増計画」の原型となり、高度経済成長の基盤を用意するものとなった(中村隆英・宮崎正康編『岸信介政権と高度成長』東洋経済新報社)。
こうして世界第二位の経済大国となった日本は、ドイツ経済と並ぶ協調的経営者資本主義の成功例として、欧米の研究者からも高く評価されてきた。岸が若き商工官僚として見た夢がついに実現したのである。
1987年、岸信介はこの世を去った。それから数年後、バブル崩壊による不況に突入した日本は、およそ二十年にわたって構造改革に邁進し続けた。目指したのは計画性なき自由競争、そして協調的経営者資本主義の解体である。現在、安倍政権がそれをさらに徹底しようとしている。
■プロフィール
なかの たけし 1971年生まれ。東京大学教養学部卒業。元京都大学大学院准教授。著書に『資本主義の預言者たち』(角川新書)、『国力とは何か』(講談社現代新書)など多数。
決定版
知性で戦え 昭和史大論争
・昭和史を武器に変える10 の思考術(佐藤優)
・戦前エリートはなぜ劣化したのか(磯田道史)
・満州事変「解決」を妨げたマネー敗戦(広中一成)
・総力戦の罠にはまった永田鉄山(川田稔)
・「南京事件」の総決算(原剛)
・石橋湛山の「小日本主義」とは何だったのか(上田美和)
・戦前日本の石油政策 失敗の本質(岩瀬昇)
・日米関係を悪化させたグローバリゼーション(高光佳絵)
・統制経済 岸信介の選択(中野剛志)
・最大の失策「三国同盟」を招いた対ソ恐怖症(清水政彦)
・なぜ海軍は戦争を止められなかったのか(手嶋泰伸)
・戦略なき作戦 ミッドウェー真の敗因(星野了俊)
・ヒロシマ・ナガサキ 核抑止の原点(三浦瑠麗)
・侍従武官未発表日記が明かす「昭和天皇の戦争」(保阪正康)
・司馬遼太郎と三島由紀夫「国民作家」の戦争体験(福嶋亮大)
・世界文化遺産にも反対 韓国歴史アタックに備えよ(澤田克己)
・新・脱亜論「内なる中国」と闘え(平野聡)
満州事変から安倍談話まで
30代論客白熱討議 あの戦争の呪縛を解く(白井聡×浜崎洋介×三浦瑠麗)
戦後70年 3大論争に決着をつける
・徹底比較 東京裁判 vs.ニュルンベルク裁判(日暮吉延×芝健介)
・慰安婦問題 なぜ冷戦後に火が付いたのか(木村幹)
・靖国神社とおおらかな昭和(古市憲寿)
・年表で読む歴史認識論争(三浦小太郎)
・憲法学者たちはいつまでごまかしを続けるのか 緊急提言 憲法から九条を削除せよ(東京大学教授 井上達夫)
・名将・今村均 97歳長男が語る「父と戦争」(今村和男)
・カタヤマ教授 入試問題で解く昭和の戦争(片山杜秀)
特別座談会
世界史の中の日米戦争 失敗の根源 なぜアメリカと戦ったか (半藤一利 船橋洋一 出口治明 阿川尚之 川田稔)
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