大学では、明晰に、丁寧に、真剣に、明晰に、丁寧に、真剣に考えるための技術と楽しさを伝えよう。
人生の大部分を、少しだけ有利な環境にいてちょっと賢しくて、そこそこ相対的にはそつなく何でもそれなりにできたがゆえに、冷笑的な態度を取りつつ過ごしがちだったけれど、しばらく前からそれとは決別しようとしている。
明晰に、丁寧に、真剣に考えることを、明晰に、丁寧に、真剣に伝えよう。
そのために、研究については、限定合理的なゲームとしての研究アウトプットをいたずらに求めるのではなく、その位置づけを問い直そう。
教育では、学ぶ機会がなかったがゆえにできないことのないよう、考えるとはどういうことかを伝えよう。
そのために、自分ができていることをメタな言葉にできるよう、自分も基本から学ぼう。冷静に、真剣に、緊張して。
一見したところ抽象的な対象、人が普通に言う「社会」とは離れたところにあるようにみえる対象を扱っていたとしても、明晰さ、丁寧さ、真剣さをもって、単なる主観的な態度としてではなく身につけ習慣化された認識と思考の技術を実際に運用することができれば、それは直接扱っている知識以外のところにも、自然に外挿される。
T-nsSOWLのタクヤさんが
tweetで次のように言っている。
まぁ暇でやる事のないネトウヨ諸君は、一生ネットの世界にいればいいと思うけど、
いまだに冷笑してるやつはなんなの? 政権にこんな半独裁みたいなことされて腹立たないの?
国民主権なんだから、もう少し自分の事として考えようよ
まじ賛成派は意見持ってるからいいけど、冷笑1番ダサい。
冷笑は、必ずしも個人の属性ではない。周囲が冷笑を許容するばかりでなく称賛さえすることが、個人の冷笑的態度を生む。
教育に携わる人は、全力をあげて、真剣に、誠実に、そのように仕向けられる環境を、変えよう。
全力でやることは、不格好だと思わないこと。その見かけ上の不格好さも含めて、大切で価値があるものだと伝え、示すこと。
戦後70年の危機に際して、ともすると冷笑が身についた自分への戒めとして、書いておく。