『キングスマン』 知性の本質とは?
「最近のはシリアスで好みじゃないが、昔のは素晴らしい。荒唐無稽でね。」
「古いボンド映画とかな。」
そう、そうなのだ。最近の007シリーズへの挑戦状ともいえる『キングスマン』の会話を聞いて、私は膝を打ちたくなった。
マシュー・ヴォーン監督が仕掛けたのは会話ばかりではない。荒唐無稽で外連味たっぷりの『キングスマン』は、全編が古いボンド映画のような痺れる作品だ。
今のボンド映画も面白い。他のスパイ映画、たとえばミッション:インポッシブルシリーズだって面白い。テンポの良さといい、アクションの迫力といい、総じて新作のほうが古い映画を上回っていると思う。
それは間違いないのだが、足りないなぁと思うものもある。それが荒唐無稽さだ。
仕方がないのだろう。アクションの凄味を出すにはリアリティが欠かせない。何も持たない主人公が崖から突き落とされたら観客は驚くだろうが、万能の秘密道具を体中に仕込んだ主人公が突き落とされてもハラハラしない。アクションを重視すればするほど、荒唐無稽さは引っ込めざるを得ない。
それに、かつて007シリーズは荒唐無稽になり過ぎた。シリーズ第11作『007/ムーンレイカー』で宇宙戦争になったときは、ボンド映画にここまで求めていないよと思ったものだ。
007が洒落たスーツやタキシードに身を包み、美食にこだわっているあいだに、シルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーやブルース・ウィリスが汗と汚れにまみれたボロボロのヒーローを演じて喝采を浴びるようになった。時流に合わせてリアルなアクションを志向した第16作『007/消されたライセンス』では、007が殺人許可証を剥奪され、ボロボロになりながら孤軍奮闘してみた。滅法面白かったけれど、それがボンド映画なのかという疑問は残った。
ボンド映画のリニューアルは裏目に出ることが多い気がする。だが、ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンド役に就いた第21作『007/カジノ・ロワイヤル』(2006年)以降は、シリアス路線が功を奏したようだ。
バットマンもスーパーマンもリブートのたびにシリアスになる御時世だ。荒唐無稽さはファンタジー映画やSF映画に譲り、リアルな社会が舞台の映画はシリアスを極めたほうが観客には受けるのかもしれない。
それでも荒唐無稽だった頃のボンド映画が好きな人はいる。アニメーション作家のクリス・ルノーとピエール・コフィンは怪盗グルーシリーズで60年代のボンド映画の荒唐無稽さの復活を試み、とうとう『ミニオンズ』では60年代を舞台にしてしまった。
同様に60年代を舞台にボンド映画の荒唐無稽さを復活させたのが、マシュー・ヴォーン監督の『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』だ。SF映画の枠組みを利用しながら、ヴォーン監督が目指したのは冷戦下のスパイ映画だった。
ヴォーン監督はこの作品でファンタジーやSFの衣をまとったりせず、60年代の話だと云い訳もせず、現代を舞台に本気で荒唐無稽なスパイアクションに挑んだ。
登場するのは懐かしさ溢れるアイテムの数々だ。007シリーズ第2作『007/危機一発』(リバイバル時に『007/ロシアより愛をこめて』に改題)に出てきたのとそっくりな仕込みのある靴。同作の腕時計やブリーフ・ケースに対抗するように、本作では傘や万年筆が武器になる。義足の殺し屋ガゼルとの闘いに、『007/ゴールドフィンガー』に登場した殺人帽子のオッド・ジョブや『007/私を愛したスパイ』の義歯の男ジョーズを思い出す人もいるだろう。
オマージュを捧げられるのはボンド映画だけではない。
コリン・ファース演じる主人公はメガネの諜報員ハリー・ハート。メガネの諜報員ハリーといえば、秘密組織キングスマンのリーダー役のマイケル・ケインが『国際諜報局』で演じたハリー・パーマーのことだろう。
ハリーに見込まれてキングスマン候補生になるゲイリー・"エグジー"・アンウィンの名は、ゲーリー・アンダーソン制作の特撮番組『ロンドン指令X』(原題『The Secret Service』)の主人公アンウィン神父からの借用だ(『キングスマン』の原題が『Kingsman: The Secret Service』でもあるし)。
プロダクションデザイナーのポール・カービーは、ロジャー・ムーアが主演した時代のボンド映画を求められたと述べている。
宣伝スタッフの仕事もいい。スラリと伸びた女性の脚の向こうに主人公の全身が見えるポスターは、『007/ユア・アイズ・オンリー』のポスターのもじりであろう。しかも、ただ美脚が描かれた『007/ユア・アイズ・オンリー』と違い、本作のポスターにはガゼルの義足に仕込まれた殺人剣を強調する効果もある。
特殊な小道具だけなら2011年の『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』にも登場した。ボンド映画のQほどではないが、ミッション:インポッシブルシリーズのベンジー・ダンは技術担当だ。怪盗グルーシリーズも秘密兵器にこと欠かなかった。
だが、それでは私には不満だった。007シリーズでも、とりわけ『007は二度死ぬ』が好きな私には荒唐無稽さが足りなかった。だから本作の、飛行機が山の中に呑まれるシーンに感激した。
山の中の秘密基地!悪の戦闘員たち!そうそう、コレなのだ。秘密兵器だけじゃダメなのだ。最後は秘密基地に乗り込んで、激しい戦闘を繰り広げなくては。海中とか宇宙とか秘密基地にもいろいろあるが、ロマンをかき立てられるのはやっぱり山だ。山の中をくり抜いた基地こそ悪役に相応しい。
荒唐無稽さの絶妙なさじ加減に、私は感服つかまつった。
さて、本作は痛快なスパイアクションなだけでなく、もう一つ骨太のテーマに貫かれている。
「紳士」というテーマだ。
007シリーズの原作者イアン・フレミングが、ジェームズ・ボンドに名優デヴィッド・ニーヴンをイメージしていたのは有名だ。『八十日間世界一周』の裕福な英国紳士役や『ピンクの豹』の泥棒紳士サー・チャールズ・リットン役で知られるデヴィッド・ニーヴンは、スマートで物腰の柔らかな、上流階級然とした人物だ(実際に彼は裕福な家に生まれ、英国王室をはじめ各国の王侯貴族が教育を受けるサンドハースト王立陸軍士官学校の出である)。イアン・フレミングはジェームズ・ボンドを紳士として考えていたのだろう。
なのに初代ジェームズ・ボンドに起用されたのは、毛むくじゃらで目つきが鋭く獰猛そうなツラ構えの大男ショーン・コネリーだった。トラック運転手の父と掃除婦の母のあいだに生まれ、生協の牛乳配達をしていたショーン・コネリーは、およそデヴィッド・ニーヴンとは対極のイメージだ。
本作の公式サイトは、ショーン・コネリーが007に起用されたエピソードが本作のきっかけだったと明かしている。
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(本作の原作者)ミラーはある新聞記事について、ヴォーンに話した。その記事は、ジェームズ・ボンド映画の第1作『007/ドクター・ノオ』を監督したテレンス・ヤング監督が007の原作者であるイアン・フレミングの反対を押し切って、どうやってショーン・コネリーを起用したかを取り上げたものだった。
フレミングが考えていたボンド役は、ジェームズ・メイソンやデヴィッド・ニーヴンのようなタイプだった。ミラーが言う。「ヤング監督は、エジンバラ出身のコネリーを紳士に仕立てなければならないことに気づき、撮影を始める前に、コネリーを自分が通っている紳士服の店やひいきにしているレストランへ連れて行き、食事の作法から、話し方、紳士的なスパイとしての着こなしまで徹底的に教え込んだんだ。」この話がきっかけとなって、『キングスマン』を製作する話は始まった
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かつてマシュー・ヴォーン監督は、労働者階級のチンピラがどうして洗練されたスパイになったのかという物語をやりたくて『007』の企画を出したが、コンペで落ちてしまったという。『キングスマン』はヴォーン監督の復讐戦なのだと町山智浩氏は解説する。
もちろん、仕立ての良い服を着て、レストランで作法に気をつければ紳士なわけではない。マシュー・ヴォーン監督は「紳士とは何か」を掘り下げなければならなかった。
マシュー・ヴォーンはマンガ家マーク・ミラーを説得して『キングスマン』の舞台を米国から英国に変えさせ、コリン・ファースには三代目ジェームズ・ボンドとして七本ものボンド映画に出演したロジャー・ムーアよりもデヴィッド・ニーヴンを意識して役作りするように伝えた。デヴィッド・ニーヴンは本家007シリーズには起用されなかったものの、他社が作ったパロディ映画『007/カジノ・ロワイヤル』(1967年)にキャスティングされ、ナイトの称号を持つサー・ジェームズ・ボンドを演じている。この映画は無茶苦茶なコメディだが、紳士ジェームズ・ボンドとしては正しいイメージを体現しているのかもしれない。
マシュー・ヴォーンの考える紳士とは、単に上流階級や金持ちの家に生まれてなるものではない。高等教育を受ければよいわけでもない。
それどころか本作は上流階級に極めて手厳しい。本作は、広い意味での上流階級が庶民の犠牲の上に理想の世界を作ろうとする話だ。だから上流階級はみんな敵だ。そこには金持ちや大物政治家や政府高官や大学教授や各界の名士が含まれている。本作はアメリカ映画ではなく、今なお身分制度が残るイギリスの映画だから、なおのこと上流階級への皮肉は辛辣だ。
同時に労働者階級にも辛辣である。庶民のゲイリー・"エグジー"・アンウィンもその継父も取り巻き連中も、みんな粗野な荒くれ者に描かれる。継父の取り巻きたちは紳士のハリーによって容赦なくやっつけられてしまう。
一方で"自由の国アメリカ"も厳しく批判する。アメリカ映画の悪役は英国風のアクセントで話すことが多い(つまり英国人)そうだが、本作の悪役――短絡的な発想を金の力で実現しようとするリッチモンド・ヴァレンタインは戯画化された米国人だ。
金持ちばかりではない。本作はケンタッキーの教会に集まる偏狭な民衆の醜さをあらわにし、劇中で皆殺しにしてしまう。
批判の矛先は四方八方、全方位的なのだ。
反知性主義(Anti-intellectualism)とは米国の歴史家リチャード・ホフスタッターが名付けたもので、既存の権威に立ち向かう思想のことだ。山形浩生氏は反知性主義をこんな風に説明する。
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大学いって勉強した博士様や学士様がえらいわけじゃない、いやむしろ、そういう人たちは象牙の塔に閉じこもり、現実との接点を失った空理空論にはしり、それなのに下々の連中を見下す。でもそんなのには価値はない。一般の人々にだって、いやかれらのほうがずっと知恵を持っている、という考え方だ。
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金持ちや政治家を悪者扱いする映画は多い。
だが、普通に大学で教鞭を執る教授をその一味とするのは珍しい。加えて、労働者階級から唯一キングスマン候補になったエグジーをバカにするのは名門大学卒のエリートたちだ。学業や知識でエグジーを圧倒する彼らは、しかし候補生に課された試練を乗り越えられずに次々脱落していく。まさに、下々の連中を見下す博士様や学士様がえらいわけじゃない、という映画なのだ。
その点で、日本映画にはエグジーに先行するヒーローがいる。『男はつらいよ』シリーズの主人公、車寅次郎だ。寅さんは相手の男が医師や大学教授と判ると「てめえ、さしずめインテリだな!」と反発する。そして知識と教養を身につけたはずのインテリは、しばしば無学な寅さんに諭されたり元気づけられたりするのだ。
かといって、反知性主義を肯定しよう、とはならないのが『キングスマン』のイカすところだ。
反知性主義が強まり過ぎれば、営々と築かれた英知が否定され、衆愚に堕してしまいかねない。
本作でうさん臭い牧師の説教を鵜呑みにして熱狂する民衆は、その悪しき例だろう。マシュー・ヴォーン監督は反知性主義の問題点も突いている。
ここらへんの判りにくさは、日本語の問題もあるように思う。
「知性」を英語で表現すれば「intellect」だが、知性の優れた人を表す「intellectual」の日本語訳は「知識人」になってしまう。でも「知識人」という言葉は、知性の優れた人ばかりでなく、豊富な知識を持つ人も指すように感じられる。
知性に類する言葉を慎重に区別するのが田坂広志氏だ。
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「知識」という言葉も、「知性」という言葉と混同して使われることが多い言葉ですが、世の中には、多くの「書物」を読み、該博な「知識」を身につけた人物を、「知性」を身につけた人間と思い込む傾向があります。
しかし、実は、どれほど該博な「知識」を身につけても、それが「知性」を身につけたことを意味するわけではないのですね。
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そして田坂氏は、「知性」の本質は「知識」ではなく「智恵」である、と説明する。
18世紀の米国では、牧師連合会が「ハーバードかイェールを卒業した者でなければ、教会では説教させない」と定めたことに対して、「あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない」と云い返すのが反知性主義の決めゼリフだったという。これはアンチ「知性」なのかアンチ「知識」なのか。
ちなみに当ブログでは、特に必要がない限り、引用に際して発言者の肩書を書かないことにしている。たとえば田坂広志氏のことを「多摩大学大学院の田坂教授」とか「元内閣官房参与の田坂氏」と記述すれば引用文を権威づけられるかもしれない。しかし、そこに権威を感じて欲しくないのだ(肩書はリンク先を見れば判ることだし)。
それはさておき、人はどうすれば紳士になれるのだろうか。
キングスマン候補生になったエグジーに、先輩キングスマンのハリーは云う。「まず第一に我々は紳士だ。」
エグジーはあわてて否定する。「僕はただの庶民だよ。」
「ナンセンス。紳士であることは生まれとは関係ない。紳士とは学ぶものなのだ。」
「どうやって?」
「よろしい、最初のレッスンだ。君は椅子に座る前に許可を求めるべきだった。第二のレッスンは、きちんとしたマティーニの作り方だ。」
こうしてエグジーは、あたかもショーン・コネリーがテレンス・ヤング監督の馴染みの店に連れて行かれたように、ハリーから紳士の教育を受ける。
これは英国の名門パブリックスクール、ウィンチェスター・カレッジのモットーである。日本での公開に当たり、「manners maketh man」の「man」を「紳士」と訳しているが、主人公が女性ならば「淑女」になるところだろう(ウィンチェスター・カレッジは男子校だけれど)。
反知性主義の匂いのある本作だが、教育を軽んじるわけではない。権威づいたり、無学な者を見下すことを諌めているのであって、学びの重要性は強調している。「学ぶ」と「真似る」の語源が同じであることを考えれば、エグジーがハリーを真似るのは理にかなった行為といえるだろう。
そして本作は、ありとあらゆる問題を飲み込んで、暴力の饗宴へと昇華する。
ヴォーン監督の『キック・アス』を上回る盛大な暴力シーンが現れるが、ここで荒唐無稽なタッチが効いてくる。人体が切断されようと、頭が吹っ飛ばされようと、ほとんど血が流れないのだ。リアリズムを追及した作品ではないから、グロテスクなシーンですら美しく滑稽に描かれる。ここから感じられるのは、暴力の心地好さだ。
米倉一哉氏は、グロテスクな漫画や映画を観賞するのは社会の平和にとって「いいこと」だと述べている。誰もが心に抱える「グロテスクなことや危険なことへの関心・興味」や「周囲への攻撃性」を、実生活で爆発させる前に昇華させたり発散させたりできるからだ。
マシュー・ヴォーン監督の愉快で楽しい暴力シーンは、まさに攻撃性の発散に打ってつけだ。
さらにヴォーン監督は、自分がグロテスクなことへの関心や周囲への攻撃性に呑みこまれておらず、メタな立場から俯瞰していることを「これは映画じゃない」というセリフで表明する。荒唐無稽な展開も、溢れる暴力も、映画だからいいじゃないかと云い訳せず、現実とのかかわりの中に位置づける。そんな覚悟が感じられるセリフだ。
ところで、劇中、計画に支障を来したリッチモンド・ヴァレンタインは、「"E"か、こちらは"V"だ」と電話して、スペースX社のCEOイーロン・マスク(Elon Musk)に助けを求める。
映画『アイアンマン』の主人公のモデルといわれる天才発明家イーロン・マスクに敬意を表しているのだが、ヴァレンタインと仲が良いということは、この実在の人物もマイクロチップを埋め込んでいたのだろうか。
『キングスマン』 [か行]
監督・制作・脚本/マシュー・ヴォーン 脚本/ジェーン・ゴールドマン
出演/コリン・ファース マイケル・ケイン タロン・エガートン マーク・ストロング ソフィア・ブテラ サミュエル・L・ジャクソン ソフィー・クックソン マーク・ハミル ハンナ・アルストロム
日本公開/2015年9月11日
ジャンル/[アクション]
【theme : アクション映画】
【genre : 映画】
tag : マシュー・ヴォーン コリン・ファース マイケル・ケイン タロン・エガートン マーク・ストロング ソフィア・ブテラ サミュエル・L・ジャクソン ソフィー・クックソン マーク・ハミル ハンナ・アルストロム
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「面白い」と思える理由は、なにか。
飛行機内で鑑賞。事前情報としては、コリン・ファースが出ている。マイケル・ケインが出ている。義足の女がいる。スパイである。スーツ。くらいでした。
あらすじ:君も! 今日から! キングスマン!
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