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【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(5)】「金学順さんに会ったのは、弁護士聞き取りの同席の時だけ」

【元朝日新聞・植村隆氏インタビュー詳報(5)】「金学順さんに会ったのは、弁護士聞き取りの同席の時だけ」

インタビューに応じる元朝日新聞記者の植村隆氏=7月30日、札幌市(早坂洋祐撮影)

 朝日新聞で初期の慰安婦報道に関わった植村隆元記者(北星学園大非常勤講師)の産経新聞インタビュー詳報の5回目は次の通り。聞き手は本紙政治部の阿比留瑠比編集委員と外信部の原川貴郎記者。

「間接情報であまり答えられない」

阿比留「分かりました。それでじゃあ、一応これも、ハッキリさせておきたいので、(元朝日新聞ソウル特派員の)前川恵司さんが当時の植村さんの担当デスク、大阪本社担当デスクに取材した。そしたら、(1991年12月25日の記事は)植村氏からの売り込み記事だったと。『彼は義母が遺族会の幹部であることを言わなかったし、私も知らなかった』と」 

植村「これに関しては、前川さんに僕、会っていないし、直接取材していないんだけれども、これ、大阪のデスクってどういう人ですか。前川さんから何か聞きましたか」

阿比留「まだ聞いていないですね」

植村「じゃあ、そんな間接的な情報であんまり答えられないんだけど、売り込みじゃないですよ」

原川「売り込みではない?」

植村「売り込みとかじゃないですよ。で、そのデスクの根拠って何か、産経新聞として前川さんのデータ以上にあるんですか。独自に」

阿比留「ないです。いや、だから確かめているわけですね。(当時の担当デスクは)義母が遺族会の幹部であることを言わなかったし、私も知らなかった、と」

植村「当時の社会部はですね、知っていたはずですよ。社会部のデスクですか、その人は」

阿比留「(前川氏の文章では)大阪本社の担当デスク」

植村「じゃあ、聞いてみてください、直接それは」

阿比留「で、(前川氏が)知っていたらと尋ねると(担当デスクから)即座に原稿は使わなかったとの答えが返ってきた、と。それもちょっと違うという感じですか」

植村「うん、もちろんね(違う)」

原川「この8月19日の(太平洋戦争犠牲者遺族会の元慰安婦女性が日本政府を相手取った訴訟を準備しているという)記事を書くために、平成3年の8月11日の(『元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く』という)記事を書かれて、12日には確か1回、日本に戻られて、それでまたソウルに…」

植村「そうそう。おお、すごいなあ。僕の動き表をつくっているの? いいなあ。ちょっとコピーさせてよ。取り調べだなあ、原川記者(笑)」

原川「いやいや、時系列で見た方が分かりやすいと思いまして。それであのー、この19日の記事を書くにあたって何日かソウルに滞在されて…」

植村「いやいや、これは僕はよう分からんけど…、あの、まさか、取り調べとは思わなかったから」

原川「いやいや」

植村「原川さんまた別途きて、手帳があるんで、残っているんだけど、僕の記憶では要するに弁護団が入っているときに取材している記事です」

原川「細かい日にちまで、そこまではうかがわないんですけども、要はこの1回日本に戻られてまたソウルに行って…」

植村「それはなぜかと言ったら」

原川「で、その時に、金学順さんに取材は申し込まれなかったんですか」

金学順さんの記者会見は「知らなかった」

植村「ああ、その時はやらなかったね。なぜなら、8月のね、14日の、要するにそれは残念なことなんだけど。8月14日に、インタビューというか共同会見があったじゃない。普通の記者だと、当然ながら自分らが取材した、存在をスクープした、一報をスクープしてるわけだから、その人の生の声やったら聞きたい。しかし、僕は、記者会見というのを知らなかったから。知っていたら当然、大阪社会部はOK出したと思うんだけど、僕も知らなかったから、そのまま帰った。で、突然それやったみたいです。それは、あのー、多分、北海道新聞の記者にも聞かれれば分かると思います。多分、突然やったんじゃないかと思う。当時の状況を知っている人がいるはずですから」

原川「で、手記には悔しい思いを書かれてましたけれども」

植村「ああ、だから申し込まなかった。それはなぜなら、慰安婦のおばあさんたちの動きがどんどん出てきて。要するに、高木弁護士の方の動きを追っかけていたということです。簡単に言えばね。だって一旦存在が明らかになって、その人が記者会見して最低限書いているじゃない。僕は要するにその前に書いていたから。要するに、まあ、(元慰安婦として証言する女性が)一人出たと、また出るみたいな感じの話でした」

原川「で、それでこの、先ほども話に出ました12月25日の記事。この間、書かれた署名記事というのはこの2本、いわゆる金学順さんに関する署名記事というのは当初は、8月11日は匿名であったけれども」

植村「まあ、金学順さんですね。その後、金学順さん…」

原川「それと、今度は、もう、名乗り出て、訴訟も起こされた後に掲載された、この3年12月25日の…」

植村「署名がね、出ている91年の記事は多分その2つで。後ね、だから、産経も、会社で朝日のデータベースって入れます? 入ってみてください。植村と金学順を」

原川「いわゆる一般向けのデータベースですね」

植村「それでひいてみてください。そこに出てる通りで、僕の記憶ではこの2つと。その後、金学順さんが亡くなった時も書いている」

「弁護士の前での話を記録すべきだと思った」

原川「手記で書かれてたと思うが、この11月25日に初めて金学順さんと会ったと」

植村「あ、結局、僕の場合、一旦存在を書いて、そして、その後、続報という形で小さいけど、金学順さんの記者会見を追っかけた。フォローね。これね(記事を示す)。そして、まあ、じゃあ、弁護士たちが聞くから、弁護士たちの前でしゃべったことというのは一つの記録だろうと思ったんで、高木さんに同行許可をもらって同席した。だから、この辺で聞き取りしている後ろの方に僕がいた。それは多分ね、手記にもその辺の経緯は書いたと思う」

原川「その時は、金学順さんとは会われたけども、こういうような取材、質問して答えていただいて、というそういう取材は?」

植村「うん、だから、ここにこう書いているように。弁護士らの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いたっていうんだけど、弁護士の質問、やり取りを僕は横で聞いていた。なぜなら、弁護士が質問しているとき、僕が質問するのは失礼だし、じゃあ、その後、別にやったらいいじゃないかと言うんだけど、僕としては法的なプロセスとして、もうこれは訴訟準備しているんで、弁護士の前で言うのが一番話としては記録すべきだろうなというふうに思ったんで、一石二鳥だからね」

原川「なるほど。で、これについては横で聞いていたものを録ったテープを再現したとありますけど」

植村「ま、テープを再現したと、ここでまたテープにこだわるけど。要するに、テープを再現した、当時ちょっと使った。要するに、あれだね、聞き取り調査を再録したというか、それを紹介するという意味の文章です」

原川「で、11月25日に初めて金学順さんに会われて、都合、97(平成9)年に亡くなられるまでに何度、金学順さんにお会いになったんですか」

植村「一度だけ。うん。なぜなら、最初の人だったけれども、その後も、何人か慰安婦のおばあさんが登場しはじめてくるから。あんまり個々の、なんというのかな、もう何回も会ったということはなかったです。それで、その後実は、まあ、ここ(文芸春秋の手記)でも書いたけど、僕は『文藝春秋』92年4月号から、西岡(力・東京基督教大教授)さんに、こういうふうに(批判を)やられていたから。そして、その時は阿比留さんと同じでさ、要するに家族がどうだみたいなことをね、遺族会の幹部の義理の息子みたいなこと。

 やっぱり、僕としてはトラウマになっていた。つまり僕がどんどん書けば書くほど、同じことがやっぱり繰り返されると思って、少し距離を置いていたというところ」

原川「そうすると訴訟がその年の12月6日に、東京に原告団が来て。その時は…」

植村「ああ、そうか、そうか。ごめん、ごめん。その時は、訴訟の時はもちろん現場にはいた。そういう意味ではね」

原川「司法クラブ?」

植村「司法クラブじゃなくて、司法クラブは別に司法担当がいたから。そうだね。ちょっと今、言い間違った。こういう聞き取り調査をしたのは、1回だけれども、もちろん提訴の時は東京社会部と僕は一緒に(取材を)やったから」

原川「それは記者会見を取材したのではない?」

植村「記者会見だけじゃなくて、もちろん、記者会見というのは裁判所だけども、その動きというのも、やっぱり分担してやっていたから」

原川「じゃあ、その時も、署名ではないが記事は書かれてるんですか」

植村「まあ、社会部だから、当然チームで取材しているから。当然、だって最初から取材していて、大阪でちょこっと書いているから呼ばれて、もちろん一緒にやっていた」

訴状には「養父とはなかったね」

原川「(質問しても)よろしいですか?」

植村「それで、ちょっとここで言っておきたいんだけど、例の聞き取り調査のところ、まあ、どうせ聞かれると思うから」

原川「11月25日の?」

植村「これがね。これ1回、産経の原川さんに確か、書面でやったときに」

原川「私が朝日新聞広報部を通じて、質問をして…。まあ、あのその時は、取材申し込みの取り次ぎをお願いしますということでお願いしたら、朝日新聞社からは、植村さんからは、お受けできない旨の返答があったけれども、植村氏の見解が示されたので、それを、その資料を送ることができますということで。だから、直接は取材を受けていただいたという認識ではないんですけど」

植村「僕としては質問を受けて、それの答えを書いて資料を送ったということです。まあ、でも記事が出ていたんだけど。その時には、多分送ったと思うけど、これ(ハッキリ会が弁護団の聞き取りを記録した)ハッキリ通信の2号でね、念のため今日、お渡しした方がいいと思って持ってきました」

原川「この11月25日の記事について質問いたしますと、金学順さんが、慰安婦となった過程で、訴状とかその他、金学順さんが日本で講演していた時に言われていたような養父の存在がここには出てこなくて、地区の人と言って…」

植村「まあ、そうなんだよね。まあ、でも、それを言うとさ、もう何回も同じことになるんだけど、多分ご存じで聞いているだろうけど、最初、この弁護団の話し合いの時もね、結局、(ハッキリ通信2号では)これは町内の里長なんだけど、これは韓国語で言ったから訳し方はちょっと違うと思うんだけど、そういう風にしゃべっていたんで、それを僕が僕なりの言葉で書いたということですよね」

原川「ところが、この間、訴状が提出されて…」

植村「養父とはここ(ハッキリ通信2号)にはなかったね」

原川「(訴状が)提出されましたよね。で、その他、講演でも確か、提訴のために日本に来られて、その後しばらく日本に滞在されて、(12月)16日に金学順さんが帰国されるまで、数百人規模の集会を7回、関西中心に、東京でもやられたそうなんです。その時のものであろう記録を見ていると、養父ということがでてきている。仮に11月25日に養父という言葉が出てこなくても、なぜ、それをそのまま1カ月後もこの『地区の人』という、1カ月前の情報のまま書かれたのか」

植村「まあ、これは多分、いくつかの、金学順さんの講演会だけじゃなくて、いろんな記事とかも見られていると思うんですけれども、例えば、これ1991(平成3)年12月7日付の産経新聞大阪本社版記事が、12月6日のね、大阪での記者会見ですよ。ここには、『日本軍に強制的に連行され』とあるじゃないですか。この人(金学順さん)の証言というのは、ずれがあるというのはご存じですよね。

 まあ、それ以上はやめましょうや。なぜなら、そういうことで弁護団の前でしゃべった、だから弁護団の前でしゃべったこと(を書いた)、そして、訴状では要するにいい仕事があると言って、養父と行ったと、養父が出てきますよね。だけど、それは、僕の目の前では言われなかったから。要するに弁護団の前でしゃべったことの記録だから、それはそうですよ。そんなことを言えば、この時は強制連行って書いている新聞だってあるわけでしょう」

<詳報(6)に続く>

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