自動運転の倫理的な考察

自動運転には倫理的な考察を行う必要性がある。それは道徳的行為者でない機械が、人間の命を危うくする可能性があるからである。米国ではこの点に関して議論が始められている。
 <2015年6月25日Automotive News

記事の概要

参照記事によると、Ford(フォード)、GM、 Audi(アウディ―)、Renault(ルノー) 及びトヨタの各自動車メーカーの上層部は、Stanford University(スタンフォード大学)のCenter for Automotive Research(自動車研究センター)に対してコンタクトをとっているとしている。このセンターは、自動車に倫理的な判断を入れたプログラムを作成して、何が起こるかを研究している。

記事の中で問題とされている例は、「スクールバスにいっぱいに載った子供を殺さないために、自動運転車両は乗員もろとも谷から転落するのを選択して良いか?」を挙げている。

研究室を運営して、この問題でFordとGMの最高責任者ともあっているChris Gerdes氏は、「FordやGMの最高責任者は、彼らのプログラマーが積極的にこれらの意思決定を行おうとしていることに対して問題意識を持っている。」と述べている。

Yale University(イェール大学)のInterdisciplinary Center for Bioethics(生命倫理学術センター)のWallach氏によると、「進むべき道は、機械が人の生死を決定しないことを原則とすることである。」としている。

解説

記事の中で例として挙げられているのは、倫理学上で有名である「トロッコ問題」を自動車に変えられたものである。

「トロッコ問題」とは、「トロッコが暴走してしまった。その時、トロッコが暴走している先で作業している5人がいた。このまま放置すると、作業をしている5人がトロッコに轢かれて死亡する事態に陥る可能性がある。ここで、A氏がトロッコの分岐点におり、A氏がトロッコの分岐を変更することにより、5人は助けることができる。ところが。トロッコの分岐先にはB氏が作業しており、分岐を切り替えるとB氏がトロッコに轢かれて死亡することになる。A氏はどうすべきであるか?」という問題である。

この時、「A氏は分岐を切り替えて5人を救うべきである。」と考えるのが、功利主義(最大多数の最大幸福という考え方)である。これに対して、「B氏を5人を助けるための手段として用いており、人を手段として用いるような行為は許されない。」と考えるのが義務論(人を手段として用いてはならないという考え方)である。この場合、どちらを選択したとしても倫理的な価値があるとされる。

ここで、A氏ではなく、機械が選択した場合はどうなるかが問題なのである。機械は道徳的行為者ではない(簡単にいうと、道徳的にふるまうことができないものである)ので、「このような決定を行っても良いのか?」という問題が発生する。

このように運転者が各々で向かい合うべき問題に対して、プログラマーが己の価値観で勝手に運転者の生死を決定していることが正しい行いであるかが問題となるのである。

「トロッコ問題」についてアンケートをとった結果、多くの人が5人を助けないで、ポイントを放置すると答えている。つまり、多くの人は自らが生死を決定するのを拒んでいるのである。にもかかわらず、多くの人を助けるために、自ら若しくは他の人を犠牲にするような決定を機械が行ってしまうことには、大きな問題がある。

この点をわきまえて、Yale UniversityのInterdisciplinary Center for BioethicsのWallach氏の言葉があるのではなかろうか?

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