NHKスペシャル「女たちの太平洋戦争〜従軍看護婦 激戦地の記録〜」 2015.09.16


昭和20年8月フィリピン。
戦いに敗れた日本軍。
その中に女性の姿がありました。
いわゆる従軍看護婦です。
日中戦争から太平洋戦争にかけて5万人を超える女性が戦地に送られ傷ついた兵士の看護に当たりました。
軍の求めに応じ多くの従軍看護婦を送り出したのは日本赤十字社でした。
長く非公開とされてきた貴重な資料が残されています。
日々傷病兵と向き合った看護婦たちの記録です。
軍の検閲を受けた上で毎月日赤本社に送られていました。
病院での治療や看護の実態。
現地の状況に対応した看護婦たちの訓練。
派遣されてから帰国するまで克明に記されています。
日本が戦争へと突き進む中使命感に燃え戦地に向かった女性たち。
南方の戦場で最も多くの従軍看護婦が送り込まれたのは激戦地ビルマとフィリピンでした。
兵士の命を守ろうとした女性たちはやがて自らも死と隣り合わせの状況に追い込まれます。
戦後70年。
おびただしい数の死と向き合い続けた女性たちの記録です。
19歳からの3年余りを従軍看護婦として過ごした…戦場の記憶は今も心に深く刻まれています。
その強烈な思い出がね。
フィリピンルソン島の病院で毎日50人以上の将兵の看護に当たっていました。
ああゆう気持ちになるんよね。
従軍看護婦は国内外の軍の病院に派遣され軍医や衛生兵と共に負傷兵の治療や看護に当たりました。
兵士になる事ができない女性にとって従軍看護婦として国に尽くす事は憧れの生き方でした。
中国そしてビルマに派遣された長谷部鷹子さん。
看護婦は母のような存在だったといいます。
昭和16年12月8日。
日本軍は真珠湾攻撃とともにマレー半島に上陸。
シンガポールビルマなど東南アジア各地へ急速に戦線を拡大していきます。
1月14日。
1通の電報が日赤本社に届きます。
陸軍大臣から新たに進攻した地域への救護班の派遣を命じるものでした。
戦時救護班は婦長を中心におよそ25人で編成されます。
班ごとに戦地に置かれた軍の病院に派遣されました。
二十歳で従軍看護婦となった…志願者100人のうち6人が採用という狭き門でした。
日本最大の看護婦養成機関だった日赤。
全国35か所の養成所から毎年2,000人以上の看護婦を送り出していました。
戦時中は軍の求めに応じて看護婦を戦地に派遣する事が義務づけられていました。
看護婦一人一人に宛て日赤が発行した戦時召集状。
いわゆる赤紙です。
看護婦の多くは20代前半の若い女性たち。
中には既に結婚し家庭を持っている人もいました。
そらもう…。
従軍看護婦の数は終戦までに5万人以上。
その派遣先は中国東南アジア更に赤道を越えて南太平洋にまで及びました。
南方の戦地で最も多くの看護婦が送り込まれたビルマ現在のミャンマー。
19世紀にイギリスに敗れて以来その植民地となっていました。
日本軍のビルマ進攻は資源を獲得し連合軍の中国への補給路を遮断する事が目的でした。
日本軍はイギリスからの独立を求めるビルマ人の協力を得て戦いを有利に進めます。
首都ラングーンを占領し更に北部へと進攻を続けていました。
昭和17年4月。
戦時救護班の第一陣48人がラングーンに到着します。
ミャンマーに残る日本軍の病院跡。
イギリス時代の官舎を接収したものです。
従軍看護婦が働くこうした病院は兵站病院と呼ばれ戦線の動きに応じビルマ各地に置かれました。
軍医や衛生兵だけでおよそ350人が勤務し1,000人が入院できました。
看護婦たちのこの地での勤務は召集から2年間。
ところがビルマが半年に及ぶ雨季に入って間もなく報告書に意外な記述が現れます。
「期限満了まで勤続は不可能かとも思われます」。
看護婦たちを苦しめたのは熱帯特有の病でした。
体調を崩し帰国する看護婦が各地で相次ぎました。
そして兵士たちの間にも恐ろしい病がまん延します。
蚊を媒介とする感染症マラリア。
高熱に何度も襲われ治療を怠ると脳に障害を起こし死に至ります。
本当の意識がないからね「お母さ〜んお母さ〜ん」って病室でね聞こえてきたら悲しいよ。
もう言わんで下さいっていう事ある。
「こっちまで悲しゅうなるけんあなた言わんどって」って言う。
陸軍ではマラリアの脅威を懸念する声が繰り返し上がっていました。
戦線が拡大する中での東條英機陸軍大臣の発言です。
「マラリアは戦力損耗の最大原因である」。
日本軍と戦うイギリス軍はマラリア対策のため医薬品の補給体制を整えていました。
しかし日本はマラリアの特効薬キニーネを外国製に頼ってきました。
開戦と同時にその輸入も途絶。
キニーネの蓄えがないままマラリアの多発地帯に兵士が送り込まれていきます。
もうキニーネなんてねよっぽど上官というか偉い人が入院してこないとね普通の兵隊にはのませなかったもん。
ものすごい貴重品な…キニーネなんて尊い薬だもの。
普通の一般の兵隊になんかのませたらとてもとても。
ビルマ北部ではイギリス軍が反攻を開始。
戦闘は激しさを増していました。
敵の攻撃を避けジャングルの中に造った病棟で頼藤ツルさんは看護に当たりました。
もうこうして来て泣くんですよ。
だけんやっぱ私たちもね強くと思うけどやっぱり一緒にもらい泣きしてました。
看護婦たちはこれまで体験した事のない事態に直面します。
「病院の患者最大収容力が一千名のところ三千有余名に達せり」。
拭いてからねやっぱり鼻とかね口とか耳とかお尻に詰めるんですよ綿花を。
焼き場に行くまでにね汁が出ないように。
追い詰められる医療の現場。
南方戦線での医療の責任者だった青木九一郎はビルマでの兵站病院の増設を求めました。
しかしこの要請は受け入れられる事なく戦線は更に拡大していきます。
日本軍はビルマから国境を越え東インドにあるイギリス軍の拠点インパールを攻略しようとします。
しかし国境地帯には標高4,000メートル級のアラカン山脈が立ちはだかり武器や食糧の補給は極めて困難でした。
反対を押し切り作戦は決行。
十分な補給もないまま山越えの強行軍を強いられます。
飢えと病に苦しむ兵士たちにイギリス軍の激しい攻撃が浴びせられました。
病院に運び込まれ次々と最期の時を迎えていく兵士たち。
更に新たな問題に看護婦たちは直面します。
兵站病院は前線の野戦病院では治療が難しい重症者を収容しています。
比較的安全とされる後方の地域にありました。
回復した者は前線に戻されその見込みがない場合は日本などの陸軍病院に後送する事が原則でした。
ところがビルマの輸送路はイギリス軍に押さえられもはや後送は不可能。
一方死者が続出する前線では一人でも多くの兵士を復帰させようとします。
傷病兵があふれる中婦長の吉田八千代さんは軍への対応に当たりました。
かわいそうよね。
インパール作戦は4か月で中止。
補給と兵站をないがしろにした作戦は5万人もの命を奪って終わりました。
太平洋でも戦況は急速に悪化していました。
昭和19年7月サイパンが陥落。
アメリカ軍は日本本土への進攻を目指します。
大本営が太平洋の決戦場と位置づけたのはフィリピンでした。
ルソン島首都マニラにあった南方第12陸軍病院。
東南アジア最大の陸軍病院には1,000人を超える看護婦が勤務していました。
昭和19年9月。
アメリカ軍の空母部隊がマニラ湾の日本軍に襲いかかります。
狙われたのは決戦に備えて兵士をフィリピンに送り込もうとしていた輸送船団でした。
木村美喜さんは当時16歳。
最年少の看護婦でした。
こういうところはみんなベロ〜ンって皮膚はむけちゃうしぶら下がってるしとにかく全身湾内水の中だからビショビショですものね。
だからどっから手をつけていいか分かんないくらい。
「苦しい苦しい」って転がっているの。
助けようと思っても下手するとズルッとねえ力入れてやるとズルッとむけるじゃないですか。
そういうやけどの患者さんなんてのはどうしてあげる事もできないしね。
昭和20年1月9日。
20万のアメリカ軍がルソン島中部に上陸。
首都マニラに向け進軍します。
1月22日。
第12陸軍病院のある一帯はアメリカ軍の激しい爆撃に見舞われました。
「勤務員患者の死傷者多数を出す。
その惨害筆舌にては表し難し」。
この日病棟には川崎啓子さんの仲間の一人森塚千代子さんが腸チフスで入院していました。
ところが空襲警報が発せられ川崎さんは仲間を病室に残したまま防空ごうに避難します。
その直後爆弾が病院を直撃しました。
それこそよじ登ってはりの上通っていって彼女の部屋まで飛んでいきましたよ。
そしたらもう彼女がそれこそこっから口と鼻こんだけだけ残ってこんな格好でねこっから上がなくてこれが壁やらそこら辺のへりやらへね脳みそや何かがへばりついてるんですよね。
ほんでここだけが残ってて…。
マニラに迫るアメリカ軍を逃れて日本軍はルソン島北部に撤退を開始。
各地の兵站病院も軍と共に移動するよう命じられます。
看護婦たちが重症患者を連れて逃げ延びた場所の一つが既に使われなくなった金鉱山の坑道でした。
排水路の上に板を敷きその上に1,000人以上の患者が寝かせられました。
毎日何人もの患者が命を落としていきます。
山へ捨てたか川へ捨てたかどっちかやね。
だからトロッコで死体をあけて「はい一丁上がり!」なんて冗談言い仕事したもんよ。
そういう感覚でなきゃできん。
かわいそうじゃなんて涙出しよったら仕事できんもん。
悲しいとか何とかいう感情がないようになるね自分が。
人が死んでも涙も出ん。
この時期ビルマの日本軍も壊滅状態に陥っていました。
インド国境そして中国国境を越えて攻め込んだ連合軍に追撃され南部へと退却を強いられます。
それまで後方と位置づけられていた兵站病院のある地域が戦闘の最前線になっていきます。
2月26日。
イギリス軍の戦車200両がビルマ中部にあった兵站病院に迫りました。
そしてもうどんどん空襲があって砂がバ〜ッと上から落ちてくるんですよ。
4月27日。
ビルマ各地の兵站病院に撤退命令が下ります。
敵の目を逃れての逃避行。
食糧が尽きついには現地住民の食糧を徴発した救護班もありました。
ラングーンの北方の町パウンデー。
ここにあった兵站病院もタイとの国境に向け撤退を開始します。
人々が渡ったシッタン川。
当時橋はなく折からの大雨で増水した川に多くの人々がのみ込まれました。
イギリス軍との戦闘に巻き込まれ命を落とす人も続出します。
その中を生き延びたのはインパール作戦のために派遣された戦時救護班第490班の看護婦たち。
20日間の行軍の末軍医や衛生兵と共にこのチンドウェ村にたどりつきました。
そして事件が起こります。
ビルマの人々への横暴な振る舞いや食糧の徴発。
このころビルマ人の間で日本軍への反発が広がっていました。
当時18歳だったパウサさん。
抗日組織の一員でした。
ビルマ各地の村では農民ゲリラが組織され日本軍に対する蜂起が相次いでいました。
イギリス軍もこうした動きを水面下で支援していました。
第490班の看護婦たちは突如ゲリラの襲撃を受けます。
若いのだったよ二十歳ぐらいの。
この日婦長の中尾敏子さんをはじめ9人の看護婦が戦死しました。
アメリカ軍の上陸により始まった看護婦たちの逃避行は既に半年に及んでいました。
マニラを脱出した日本軍司令部は島の北へと追い詰められていきます。
救護班は多くの重症患者を抱え山岳地帯を転々としていました。
間近にアメリカ軍が迫る中奥村モト子さんたち看護婦に思わぬ命令が下されます。
生きて敵の捕虜となる事を固く禁じていた日本軍。
重症患者すらその例外ではありませんでした。
だけど七転八倒苦しむの空気入れると。
撤退する部隊を追いかけ密林をさまよう看護婦たち。
飢えと病が襲いかかります。
看護婦を含むルソン島の全日本軍は「自活自戦永久抗戦」。
自分で食糧を確保し永久に戦えと命じられていました。
それっきり配給はなかったね。
土人の芋を掘って土人の作った稲穂を摘んで鉄かぶとで突いて食べたですね。
いや本当に泥棒したんじゃけん怒るの当たり前じゃ思うた私ら。
そりゃ土人が一生懸命作ったね芋やら稲穂をね泥棒して食べたんじゃけん私らは。
食べ尽くしたんじゃけん。
そら泥棒いわれるの無理ないよね。
もうな仲間が山の中でこっちの谷間で1人あっちの谷間で1人。
そしてみんな私たちの手で掘る物もなくてもほんの少しでも土を掘ってそこへ埋葬してきたんです。
「死にたくない死にたくない」って言いながらいつかは誰かが死んでったんですよね。
ああ気の毒にと思う気持ちと何か持ってへんやろかっていう自分が何にも食べるもんないし何か欲しいでしょ?亡くなった兵隊さんをこう隠し持ってそうなところ触ったりしてる自分がねすっごく嫌らしく思いましたよそん時は。
もう本当に情けなく思った事今でも思い出すね。
そうでしょ。
もう生きて帰りたい。
看護婦たちが終戦まで書き続けた戦時救護班業務報告書。
誰もが繰り返し日々の仕事への決意を記しました。
「班員一同志気ますます旺盛にして使命の達成に邁進しあり」。
しかし戦場で待っていたのは看護婦としての誇りも人としての尊厳も打ち砕く無残な現実でした。
日中戦争から太平洋戦争にかけて従軍看護婦となった女性は5万人以上。
そのうち何人が亡くなったのか確かな記録は残されていません。
戦後70年。
あの戦場での体験とは一体何だったのか。
(取材者)戦争ってどういうものだって思いますか?バカのする仕事。
それを何で止められんやったろうかと思うね。
そんな戦争好きな人はビルマのねインパールの方に飯ごうやらあれを担いで行ってみたらいいと思うとですよ。
西内清子さんは戦後間もないある日偶然元患者だったという人と再会しました。
2015/09/16(水) 00:10〜01:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「女たちの太平洋戦争〜従軍看護婦 激戦地の記録〜」[字][再]

使命感に燃えて戦地に向かった日赤の「従軍看護婦」。長く非公開だった戦場からの報告書と、元看護婦の証言から、おびただしい死と向き合い続けた女性たちの戦争を描く。

詳細情報
番組内容
使命感に燃えて戦地に向かった日赤の「従軍看護婦」。しかし、待ち受けていたのは、あまりに残酷な戦場の現実だった。献身的な看護のかいなく次々と亡くなっていく傷病兵。そして、戦況悪化の中、看護婦たちも生死の境をさ迷うまでに追いつめられる。派遣されて帰国するまでを克明に記した業務報告書と、元看護婦の証言から、激戦地ビルマとフィリピンで、おびただしい数の死と向き合い続けた女性たちの戦争を描く。
出演者
【語り】伊東敏恵

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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