教育熱心な親と、その子どもの関係性
教育虐待、という言葉を知ったのはつい数ヶ月前のことだった。
ネットメディアの記事で取り上げられていたその記事には、子どもの頃のわが家の風景が描写されているかのようだった。
子ども目線では、自立心・自尊心がなくなる場だった
学力強化という物差しを最優先にし、子どもの自立心・自尊心の優先順位が低い環境。
……そう書くと、とてもややこしい話に聞こえるけれど、とても単純だ。
多くの物事に関して、何かを自分で決めることはできない。
洋服や文房具から、テレビ番組やゲーム、放課後や休みの日の過ごし方まで。
子ども同士のコミュニケーションも、親が認める範囲でしかできない。
親の指導方針が絶対正義で、世の中の流れとは断絶されている息苦しさと、子どもである無力感の毎日。
身に覚えのある「教育ママ」の話題
この週末、Twitterのタイムラインでは、東大に息子三人を入れた教育ママの記事が話題だ。
受験に恋愛は不要だと断言して、その方針を誇らしげに語っている対談記事。
読むとわが実家を思い出してしまい、私は一読してすぐ閉じた。
ただ、その記事を読んだ人々の反応が流れてくるので、気になってしまい、読んでいる。
「子どもが自発的にとりくんでいたならいいけれど、あんまりだ」という言葉が多く、私の中にいる“子どもの私”が、救われた気持ちになっている。
そんな私も、成人して十年近く経った。
“教育熱心な親元で育った子”が、どんな成長をして何を思うか、いち当事者として書きたくなったのでここに書いておこうと思う。
“教育熱心な親元で育った子”が、三十歳を目の前に思うこと。
自立しているはずなのに、生きる自信がない。
私も、もうすぐ三十歳。
大学に通い、親元を離れ働き、結婚し夫婦助け合い、いかにもいち社会人としては自立したように見える。
でも、正直なところ、未だに、生きる自信がない。
親の指導方針が、骨まで染み付いているのを、未だに感じている。
「だからお前は駄目なんだ、遊んでばっかりで」
たまたま出先で電話をとっただけなのに、父は反射的に叫んだ。
「何かあったときに、頼れるのは家族しかいないのよ」
私が身体を壊したとき、母親は深刻そうな響きで言った。
記憶に強く残っている両親の言葉は、どちらも私が社会人になってから言われたものだ。
今でも時々、何か似たようなシチュエーションでフラッシュバックし、苦しむ。
誰かに悩みを相談するときに、自尊心が足らなくて躊躇する
例えば私は、何か失敗したとき困ったとき、相談する友人や仕事の仲間がいても相談に気後れしてしまう。
(誰しもがそんな経験や心情はあるのだろうけれど、自尊心が低いので、他の人よりもおそらく大きく気後れしていると思われる。)
そんなとき、先ほどの両親の言葉を、思い出す。
両親にとって私はいつまでたっても不完全な“教育すべき子ども”で、相談すれば努力が足らないと怒られるか、相談の内容おかまいなしに“無力な子どもである”姿勢を押し付けられる記憶ばかり積み重ねてきた。
“努力が足らなく無力な私なんか”が、相手の時間を使って相談してもいいのかな、と考えてしまう。
これが、自尊心の欠如した人間のでき上がり。
そして結局、一人で解決策を考えて実行する。
運がよければ成功するし、駄目なことも多い。
運がいいときは人から認められ、駄目なことは駄目なループにハマる。
でも世の中は、両親二人が忠告するよりも、私が怖がっているよりも、広くて優しい。
今まで何度も何度も落ち込みながらも生き続けられたのは、インターネット上で誰かにSOSを発信し続けてきたからでもあった。
SNSのゆるやかなコミュニケーションで助けられたり、生活から心身の悩みまで行政の相談窓口があることをTwitterで知ったり。
知識は身を助ける、といった意味では、文字を読み書きすることを苦でない身にしてくれた教育には、感謝をしているところ。
あの頃頑張った私は、どこかに消えてしまった。
実は先日、両親と夫と4人で食事をした。
私は一週間前から気分が優れず体調を崩していたのだけれど、両親ともに楽しみだったようだ。
会食はほとんど、私の幼少の頃の話に終始した。
両親が希望する大学や就職先には叶わなかったが嫁に出せて安心している、といったところなのか、教育熱心だった小学生以降の話は、一ミリも出なかった。
それは、教育熱心だった親の希望に合わない私の大学進学・就職が理由かもしれない。
結婚をしてしまった娘にそこまで教育の成果を求めていないのかもしれない。
どちらにせよ、悲しくて、空しい。
あんなに頑張っていた私は結局なんだったのか、私は自分で、過去の私がよくわからない。
そして、今の私も、私自身でわからない。
隠居生活を楽しむ目の前の老人夫婦に、過去の恨み言を投げる元気もなく、力なく笑うだけだった。
投げなくてもいい、やりすごして抱えるしかないのかな、と、今は思う。
自分で育て直すしかない自尊心を抱え、毎日もがいている
最近はもう一つ新しい悩みができた。
「夫婦なのに、どうしてもっと相談してくれないのか」
一人で様々な課題を抱え込んでしまう私に、夫が寂しげに言う。
夫は、私と違って、人に悩みを相談すること・助け合うことが上手な人だ。
私が、夫にすら悩みを相談できないぐらいにちっぽけな自尊心だなんて、未だ理解できかねないらしい。
だから必死で今、私が私の自尊心を育てているのだけれど、世の中のスピードは速く大人になってしまった私にはやらなければならない事も多くて、仕事も暮らしも回しながら自分を育てるのはとても大変。
苦しい。辛い。泣いたり、無気力になったり、失敗したり。
でも、自分でできることが選択できる分、子どもの頃の無力感はないから、だいぶ生きるのは楽になったと思う。
夫や世の中の人が羨ましくなることはたくさんあって、その度に自尊心の低さを呪いつつも、私の未来の子どもや仕事の後輩に連鎖させないように、とても気を遣い続けるのだろう。
こんな私に付き合わせてごめんね、と、夫に心の中で何度も謝りながら、毎日を必死でもがいている。
これが、“教育熱心な親元で育った子”が、三十歳を目の前に思うことの、一例。
参考リンク
「あなたのため」が「教育虐待」に変わるとき 子供の人生を狂わせる「追いつめる親」たち | 東洋経済オンライン
息子3人を東大に入れた佐藤ママ「受験に恋愛は無駄です」 〈週刊朝日〉|dot.ドット 朝日新聞出版