ダニエル・ベルによる野田哲也論
ダニエル・ベル
ハーバード大学名誉教授(社会学)ならびにアメリカ芸術科学アカデミー・スカラー・イン・レジデンス。版画のコレクターとしてボストン美術館とハーバード大学フォッグ美術館の客員委員も勤める。著書に「イデオロギーの終焉」(東京創元社)「21世紀への予感」(ダイヤモンド社)「資本主義の文化的矛盾」(講談社)「20世紀文化の散歩道」(ダイヤモンド社)などがある。
野田哲也が現代日本版画の第一人者であることはまちがいないだろう。日本版画協会は日本の最も優れた版画を記念して版画集を出版してきたが、そのシリーズの最後から2番目となった第9集が1998年に出版された際、収録された10人の版画家の巻頭を飾ったのが野田だった。「上野のホームレス」という野田の版画は、日本のマスコミで広く取り上げられ、称賛された。(1)
野田は、東京芸術大学を卒業してからわずか4年後の1968年に、初めて出品した東京国際版画ビエンナーレで国際大賞を受賞し、一躍注目を集めることになる。彼の版画は、微妙に手を加えた写真を謄写ファックスにかけてスキャニングし、それを伝統的木版画の技法でもって木版摺りの背景に刷るという斬新な制作方法で、人々を驚かした。写真を取り入れた版画がこのような賞を受賞するのは初めてだった。その後、こうした異なる表現媒体を混合するという技法は広く世界の版画で用いられようになり、表現力に富んだ新しい様式として認められることになる。28歳の野田哲也はその先鞭をつけたのだった。
革新的な技法ばかりでなく、主題の構成もまたきわめて興味をそそるものだった。野田が発表したのは2点一組の作品で、一方には彼の日本の家族が、他方には若いイスラエル女性ドリット・バルトゥールの家族が描かれていた。その女性と野田はまもなく結婚することになる。野田の人生にとってかけがえのない絆を並べて示す二家族。しかし両者の国の違いを強調するような身振りはまったくみられない。細部を省略した簡潔な背景のなかで、二家族ともロココ風のソファーに腰をかけている。
ただし、一方は椅子が緑色(Fig.1)で、横に盆栽が置かれ、もう一方は赤(Fig.2)で、犬がいる。家族ひとりひとりの名前が、それぞれの頭上の細長い長方形のなかに手書きの文字で記されている。どちらの版画でも家族は前景に位置し、背景はベージュ色の木版摺りである。すべてが単純明快な要素に切りつめられ、見る者はそれぞれの家族とじかに相対することになる。こうした特徴は野田の全作品の基調となっていく。凝った細部もなければ、劇的に演出したり、「異国趣味」を創り出そうという意図もみられない。野田は自分の住む世界とそこで目にするものをただ提示する。それでいて、野田の版画の一点一点からは、彼の世界がひしひしと見る者に伝わってくる。俗な言い方をすれば、「心にひっかかる」のだ。しかも多くの場合その理由さえ判然としないままに。これこそが、感動を呼ぶ芸術作品に共通する力である。
長年にわたって野田は数え切れないほどの国際的な賞を受賞してきた。1978年に東京芸術大学の講師に就任し、1991年には常勤の教授となる。1992年に野田の専属画廊のフジテレビギャラリーが2巻からなるカタログ・レゾネを出版したが、そこには358点の作品が(図版とともに)収録されている。野田によればその後50点以上もの作品を制作したそうだが、彼の版画が一点一点バレンを使い、手作業で網目スクリーンからインクを浸透させて刷られていることを考えると、この数字は離れ業といっても過言ではない。
私が野田の作品を最初に見たのは1992年のことだった。友人が当時新宿にあったフジテレビギャラリーの展覧会に連れていってくれたのだ。私は主題の豊かさに魅了された。風景、家族、そしてタバコの吸い殻で一杯となった椀を写真に撮り、それを木版摺りの背景に印刷した愉快な作品(Fig.3)まで。これについて野田は、息子のイザヤが一日でどのぐらいタバコを吸ったかを示したものだと言う。テーマはいかにも散文的だが、端正な椀に投げ込まれた吸い殻という構成は、単なるタバコの切れ端を心に訴える印象的な画面にと変えている。また明らかにどのイメージをとってもひとつとして「写真」ではなかった。それというのも、ストレート・フォトに特有の事実をそのまま表現した硬質さがなかったからだ。各イメージには感覚に訴えるところがあり、それがわたしの視線を惹き付けた。
なかでも心を奪われたのが、黄色の繊細な花をつけた南瓜が巻ひげに囲まれて質感に富んだ地面を背景にひしゃげて横たわっている大判の版画(51×81cm)だった。サイズが大きいために、8つの部分に分割されて制作されたという技術的側面も関心を引いた。各部分には細い線で見当がつけられ、全体がどのように合わされているのかを示している。見当があることで、木版の技術がどのようにスクリーン印刷と組み合わされているのかという、微妙な点に関心が向かったのだった。そして何よりも、安らぎと静寂があった。
作品には題がなかった。すべての野田の作品は無題で、代わりに「日記」という言葉と日付が記されている(この作品の場合は1991年8月19日)。南瓜の版画は、私がほかに適当な表現が見当たらずにしかたなく「日本的感性」と呼んでいるものを体現していた。この「日本的感性」については後に説明したいと思う。私はその作品を買った。こと美術に関しては私の人生の一部となった日本から、作品は地球を半周もして、アメリカ・マサチューセッツ州ケンブリッジの我が家の居間の中央の壁におさまっている。つまり、私は野田の版画のコレクターになったのだった。
ここ10年間、私はサントリー財団の理事として少なくとも一年に一回は日本を訪れてきた。現在では野田の版画をほぼ一ダース所有しているが、そのなかには、心惹かれて探し求めた初期の作品も何点か含まれている。家族の肖像や子供の様子を描いたものもあれば、果物を取り上げたものもある。例えば、箱からあふれ出る柑橘類の果物。充分な量感をもって表現されたひとつひとつの果実は、模倣という意味ではまったくなしに、セザンヌのオレンジを連想させた。私がコレクションした版画からも、野田の様々な技法を知ることができる。
過去30年間にわたり特に興味をもって収集してきたのは、あるひとつの図柄の様々な段階が存在し、そうした出版前の段階の変化を通して、版画家の創作意図をたどっていくことができる作品だった。ヨーロッパの版画で主に集めてきたのは、ジャポニスムの開拓者の一人のフェリックス・ビュオ、アルベール・ベナールとジャック・ヴィヨン、版画に絵画との関連性がみられるマネ、日本の版画の影響を示すホイッスラーなどである。日本の版画家では月岡芳年、なかでも下絵が残っているもの、それに勝川春章と春好の役者絵だった。これらのことから、なぜ私が野田の絶えざる実験精神に心惹かれたのか、その理由が明らかになるのではないだろうか。
野田の作品はすべて彼の生活の周辺に題材を取っている。だから、彼の作品は総体としてイメージによる自伝を構成することになるのだが、これは版画という分野ではまったく珍しいことである。各版画は一枚の写真から出発する。しかし、ロバート・フランクやウォーカー・エヴァンズなどの作品のように、それ自体で人々の注目を集めるような「主張」を表してはいない。野田が画像に手を加えることによって変化が起こり、伝統と文脈が途絶えた現代の版画からはほとんど失われてしまった資質、かつてウォルター・ベンヤミンが「アウラ」と呼んだものが立ち現れてくるのだ。
そしてわたしはどのようにしてこうした効果が得られるのかを探究し始めたのだった。この一文ですべてを論じようとは思っていない。これはひとりのコレクターが、いかにして野田が写真から不思議な魅力を引き出すことができたのかを、他人にとはいわずにしても、少なくとも自分自身に対して説明しようとして考えをめぐらしてきた結果なのである。(2)ここ数年で野田の作品は三箇所で紹介された。大英博物館の出版物、ハーバード大学フォッグ美術館で開催された展覧会とボストン美術館での展覧会。これらが私の探究の出発点となった。
「日本美術:大英博物館所蔵主要作品」(1990年)には仏教美術から20世紀版画にいたる作品が紹介されている。野田の3歳半の娘リカを主題とする版画「日記:1978年6月24日」(Fig.4)は次のような説明文を添えて掲載されている。
野田の作品はすべて題名には日記の日付しかなく、そのほとんどが作家自身が写した写真を出発点にしている。この意味で極めて個人的な内容の作品である。それにも関わらず、野田は他のどの日本人よりも、例えば黒崎彰などと比べてさえも、国際的に高い評価を得ている。いかにして野田は娘の写真に、作品として完成した肖像が力強く表現しているような日常を超えた尊厳さを付加することができたのか、これは問うてみてもおそらく無駄だろう。(3)これは挑戦にほかならない。いかに?と問うてみても「無駄」なのだろうか。
次は柔らかいグレーの背景に幼い息子イザヤの写真を組み込んだリトグラフだ(Fig.5)。黒っぽい線にところどころ色の交じったなぐり書きが前面に描かれた作品「日記:1974年9月1日」(cut.no.65)は、1998年にハーバード大学のフォッグ美術館で開催された「タッチストーン:アーティストによるリトグラフの200年」という展覧会に出品された。フォッグ美術館の版画部門の学芸員マージョリー・コーンは、「作家は種々の伝統的な描画方法をすべて身に付けている。しかし、スクラッチやしみ、さらには直接身体で触れて描くことなども魅力ある選択ではあるだろうが、より古典的な方法で代替することもできるだろう」と述べたあとに、次のように続けている。
野田は主題である幼い息子が版画制作に参加することを許し、息子は指紋となぐり書きの線を加えた。それらは、グレーの背景から浮かび上がるリトグラフとなった肖像写真以上に、彼の存在をあたかも手を伸ばせば触れられそうなほど現実感のあるものにしている。
展覧会では、野田のこの版画はジャスパー・ジョーンズの「オハラ・ポエムと肌」(Fig.6)の隣に展示された。ジョーンズの作品では使用された製図用のトレーシング・ペーパーに作家の苦悩に満ちた存在の痕跡と同様に力強い指紋が残り、作家がそのイメージにどれだけ自己を投入しているのかを示している。(4)
第3の版画(Fig.7)は、先に触れた野田家の庭の南瓜の作品で、わたしは自分が所有するその作品を1998年夏/秋にボストン美術館で開催された「フォト・イメージ:60年代から90年代の版画制作」という展覧会に貸し出した。展覧会は、写真技術による複製を元にドットや網目印刷の技術を使って創造的な版画作品を生み出すという視覚言語の探究をテーマとし、ロバート・ラウシェンバーグ、リチャード・ハミルトン、チャック・クロース、ヨーゼフ・ボイス、そしてアンディ・ウォーホルなどを取り上げていた。
展覧会を組織したクリフォード・アックリーは、展覧会カタログのなかで、野田をゲルハルト・リヒター(Fig.8)と比較して論じた。リヒターはソフト・フォーカスの沈んだグレーの階調を使って「幻のような美」を創造したドイツの画家である。野田についてアックリーは次のように述べている。
柔らかいグレーに繊細な黄色のタッチが映える、ほのかで、どこか神秘的なイメージの「日記:1991年8月19日」は、野田が自宅の庭に咲き始めた南瓜の花をクローズ・アップで写真に撮ったときが出発点となった。ついで写真は野田の手により表現意図に沿って調整が加えられ、「料理され、味付けがなされ」た。完成したイメージでは、シルクスクリーンが伝統的版画技法と静かに溶け合って、歌磨のような伝統的日本の版画家とリヒターのような西洋の現代作家との中間点に位置する作品を生み出した。(5)
野田はあきらかに独創的な作家であり、最新の技術を身に付けているという点では現代版画家の最高峰に匹敵する。それでいて彼はまた、自分自身の感性を形成した日本美術の伝統にも精通している日本人でもある。この二つはどのように混ざりあっているのだろうか。以下に、彼の時代と場所という文脈から、野田に迫ってみたいと思う。
20世紀の日本美術は根本から異なる二つの時期に分けることができるだろう。第二次世界大戦前までを前期とすると、その時代隆盛をみたのは新版画運動だった。当時は喧噪と混沌に満ちた新しい都市型の生活スタイルが無秩序に広がり出し、東京や大阪近郊の村々を二極分解しつつあった。新版画運動の作家たちは、おおむね高い技術を有していたが、こうした新しい生活スタイルを忌避する傾向にあった。
この時代を代表する版画家として伊東深水、川瀬巴水、そして吉田博の三名が挙げられるが、いずれも浮世絵の伝統を意識していた。彼らは伝統とのきずなを断たなかったばかりか、当時進行していた産業化や政治状況がもたらした変化を否定することで伝統を強化しようとした。深水は浮世絵の美を描きつつ、そこに現代の香水の広告にも似た「甘ったるい」雰囲気を加えたのだった。巴水は田舎の村の情景を版画にしたが、夕暮れ時や雨の日に場面を設定し、ほのかに照らされた家路や灯火で、見る人の思いを過去へと誘う感傷的演出を行なった。彼の視界に都市生活が姿を現すことは一度もなかった。吉田博は京都の夜景を描いたが、それは谷崎潤一郎が大都市の腐敗した醜悪な姿を隠すものとして称賛した薄暮の「陰翳」にほかならなかった。吉田はスイスと日本の山岳風景を主題とする優れた版画も残していて、全体の雰囲気はホイッスラー風ながら、空への階梯をグラデーションで表現した見事な色使いは彼独自のものである。
新版画の作家たちは、ホリーズ・グッドールが指摘したように、谷崎潤一郎や川端康成などの著名な作家が小説で述べていることを、視覚的に表現しようとしたのだった。つまり、東京的な近代生活の放棄や文化的アイデンティティの喪失、より伝統的な価値の希求などを。あるいは、谷崎のエロティシズムにみられるように、平安時代の錯綜した性的関係の復活や、合成素材に対抗して木製の便器など自然の素材を使うという願望を。大正時代には、慶應大学を創始した福沢諭吉の自由主義思想のように、民主的な表現を開拓しようという最初の試みが散見されるが、その面影を東條元帥の支配する昭和初期に見い出すことは希であり、ましてや苛酷な軍事体制やその思想統制に対する批判は存在するべくもなかった。(6)
戦前の日本美術がおおむね過去へと顔を向けていたとすれば、1945年以降は前衛であることを意識したテーマ(前衛美術)が爆発的に出現する。それらは、最初に西欧モダニズムへの関心が開花した大正時代に培われた表現方法を活用した。しかしこうした流れは、グッゲンハイム美術館の展覧会で「空に向かっての叫び」と呼ばれるようになるもの、つまり、すべてを捨てて「絶対無」から出発し、伝統的美意識に則った様式はすべて芸術表現から追放しようという欲望として表わされることになった。
この流れを集約するのが具体派(具体美術協会)で、吉原治郎という裕福な油絵画家によって1954年に創始された。最初のマニフェストで吉原はこう宣言した。「過去の芸術は欺瞞だ。...デッサン室に...積み上げられた捏造品とは決別しよう。......これら死骸は墓地に閉じ込めろ」。
作品制作にあたっては故意に破壊を狙った儀式が重要視された。じょうろやリモコンの玩具で絵具が塗られ、ブリキ缶や水、煙、電球が素材となり、芸術作品はアーティストたちの裸足で踏みしだかれた。
ハイレッドセンターはネオ・ダダのハプニングを専門とし、衆目を驚かし、新聞の見出しに掲載されることを目論んだ。彼らの活動はフルクサスと機を一にしていたが、フルクサスはのちに戦後の美術運動として最も広く語られ、記録されることになる。コンセプチュアル・アートとハプニングを重視したフルクサスの作品は、非永続的な性格のものとならざるを得ず、作品について語ることができるのは必然的に過ぎ去ってからでしかなかった。フルクサスを代表するアーティストのひとりのオノ・ヨーコは、「スモーク・ペインティング」という作品を制作した。観客はタバコでキャンヴァスを焦がし、その煙を眺めるよう求められた。キャンヴァスが灰塵に帰したときに作品は完成するのだった。(7)
こうした運動を推進する原動力となったのは、型にはまった文化や社会慣行に対する徹底した反発だった。その原動力は理解できるが、自然に対する感性は別にして、それらが日本固有のものではないところに難しさがあった。こうした発想は、半世紀かそれ以前にも遡る西欧の古びた前衛運動に由来するものだった。具体のマニフェストは1910年のマリネッティの未来派宣言の虚しいエコーでしかない。マリネッティは美術館を破壊し、ミロのヴィ−ナスに代わってブガッティのレーシング・カーを玉座につけることを要求した。皮肉なことに(あるいは論理的帰結なのだろうか)今日の美術館は前衛美術の保管所となり、2000年のグッゲンハイム美術館のように、ハーレー・ダヴィッドソンのバイクの展覧会を取り上げるまでになっている。
戦後の日本の版画も木版を中心とするという点に変わりはなかった。しかしここでもまた、日本の版画家たちは過去から離脱しようとしていた。ただし、より静かでひそやかな方法で。先鞭をつけたのが、創作版画の創始者山本鼎である。彼は丸味のついた鑿、不規則な縁、丸刀で彫ったくぼみを使って、浮世絵の制作行程と反対のことを行った。恩地孝四郎も重要な存在で、彼の起こした運動はより抽象的な方向へと向かった。大英博物館のカタログに収録されている二人の作家、小野木学と浜田知明はそれぞれ別の方向に歩みを進めた。小野木は「不思議な魅力を持った奇妙な形」の作品を創造した。表現としては絵画的なそれらの作品群を、作家は「心の内にある情景」という意味で風景と呼んだ。浜田は恐怖、孤独、虚無の表情を浮かべた顔を版画にしたが、その強烈なイメージは目を離したのちのちまでも心にまとわりついてくることがある。
もう二人ほど戦後まもない日本で注目すべき人物がいる。ひとりは写真家の東松照明で、1960年代に苛酷で強烈な写真シリーズに取り組み、原子爆弾の被爆者の変形した身体を記録し、また同時に沈んだ家や船の断片などほかの災害の惨状もカメラに納めた。無慈悲な主題を東松はクローズ・アップを使ってさらに劇的なものに変え、イメージとの距離を排除し、衝撃の強度を増している。
もう一人は棟方志功で、みなぎるエネルギーから沸いて出たような独特の版画で、最も名の知れた日本の作家となり、現代日本版画を世界に広めた。大勢の人物で埋まった彼の白黒版画には、ときにインドの春画に出てくるような人物も登場し、仏教や神道に関わる古代民俗芸術と現代フランスの表現様式とが渾然と融け合っている。棟方を野田は非常に称賛し、私に次のように書いてきた。「棟方の版画はデ・クーニングのようなアクション・ペインターを連想させます。というのも彼の木版制作は、直接的で力に満ちたものだからです。彼の彫リは強い線と形を生み出し、それが作品に力を吹き込みます。わたしは彼の自由な精神と、作品全体からほとばしるエネルギーと躍動感が好きです」。
何人か選び出すことのできる人物には敬意を評するが、それでも日本の現代版画を見ていくと、落胆を禁じ得ない。分厚い講談社の「現代日本版画1」には、370名の版画家による600点もの版画が網羅されているが、その大半が西洋版画から派生しているのがわかる。装飾的、形体のない抽象、キッチュ、そして様式にしても主題にしても過去への言及はあってもわずかで、過去の巨匠との繋がりもなければ、独創性もみられない。これらを見ていると、野田哲也へと回帰して行かざるを得ない。(9)
野田哲也はいかなる美術運動にも政治運動にも参加したことはない。特筆に値するのは、彼が30年間にわたって自分自身の身近な体験に目を向け続けてきたことだ。家族や友人の生活、日常の営みや旅行、抽象的な自然ではなく自ら手入れする庭に育つ果実。野田はこれらを見続けてきた。彼の世界は日々の営みそのものである。浮世絵の版画家は一瞬に生き、ある特定の感情や状況を劇的に表現した。野田はほとんど散文的に目にするものを、言葉の二重の意味において、「記念」として記録しようとしている。つまり、形見の品として、あるいは過ぎ去る前に時をとどめておこうとする努力の記憶として。野田はずっと独立独歩の人だった。そして彼の版画にはそれとわかる確かな印が刻まれている。
野田の版画は私的ではあるが、主観的ではない。具象であっても何かを表象してはいず、写実的ながら生き写しではない。何が描かれているのかはわかるが、現実そのものではない。絵画的ではあるが、絵空事ではない。それらはあるがままにそこに存在する。芳年の作品「月明かりに黙想する」は満月の下で岩々の間に腰をかける聖人を描いている。力強い版画ではあるが、明るい月と対比させて、赤い着物、開いた襟元からのぞく毛深い胸、黒っぽい岩という設定にすることで、力を表現している。一方、野田の娘の肖像では、ベージュ色の縁に囲まれた何もない空間に簡潔に存在が示されているだけだ。そして見る者は即座にイメージへと引き付けられる。溝口の「雨月物語」と対照をなすものとしての小津の「東京物語」に野田の作品は近いといえるだろう。(10)
カメラは自分の写生帖だと野田は語っている。しかしこの言葉は、彼の創作過程を理解するうえで、ほんの出発点にすぎない。ウォルター・ベンヤミンは、頻繁に引用される著作「複製時代の芸術作品」のなかで、「写真は手から最も重要な機能を解放し、今後はレンズを覗く眼だけがそれを担うことになる」と宣言した。ベンヤミンは、なかばマルクス主義の視点から、技術の発達が芸術作品からアウラを失わせ、逆説的にカメラを使う誰をも「芸術家」にしてしまうことを示そうとしたのだった。全自動カメラの時代にあってはなおさらである。しかしまさに野田が示したように、偉大な芸術家の証は、元のイメージを操作し、修正や強調を加えるかどうか決定し、表現(野田の場合は私的な表現)を様式と融合させることにある。実際今日でも、芸術家の手から解放されたアート作品は「レディメイド」と拾ったジャンクからなる作品しかない。それらを畏敬の念でみるモダン・アートの理論家たちもいる。
野田の独創性は3点に要約される。全作品を通じて見事なまでにに一貫した主題、画面の組立てと構成、そして意識的に浮世絵を範としながらも自分自身の創意を実現するために採用した斬新な技法。
野田はかなり早い時期から構成に新機軸を導入していた。「日記 1970年4月27日ニューヨーク」(cat.No.70)(fig.9)では、作品の下半分にストライプの大きなソファーのまわりに腰を下ろした7人のパーティ参加者を写したソフト・フォーカスの写真が明るいタッチで刷られ、それぞれの名前もタイプで小さく印字されている。その一方で、人々の頭上にあたる版画の上半分には、より暗い色調で、女性の胴体と脚を彷佛させるおおきな雲が浮かんでいる。上下のコントラストが鮮烈だ。版画からは世界が漂っているような感覚が伝わってくる。のちに野田は、この作品が友人の池田満寿夫のニューヨークのロフトで開かれた仲間のパーティからとられていると説明してくれた。当時池田が青空に浮かぶ雲をモチーフにしていたので、野田はエアブラシを使ってリトグラフ版に描くという方法で同じモチーフを作品に組み入れたのだった。雲が女性の形をしているのは、池田の作品の主要なテーマであるエロティシズムへのオマージュだった。
野田の作品のなかでも人目を奪う意表性に富んだ版画のひとつが、「日記 1971年6月11日」(cat.No.96)だ(Fig.10)。前景下部に黒く太い眉をした男(明らかに野田自身)の頭と目があり、男のうしろ、全体の6分の5を占める空間にはシナゴーグを描いた鉛筆による軽いドローイングが刷られている。3人の人物が「ビーマー」と呼ばれる朗読用小卓を囲んですわり、その周辺はあかるい青で縁取りがされている。何本かのろうそくが小卓の上でほのかに輝き、さらに上にはランプが吊り下がり、そして壁には十戒の銘版が掛けられている。幅の広い縁に沿って花をいけた花瓶がいくつかあり、そしてまたいくつもの品々が赤鉛筆で印を付されている。細かいものが数多く描きこまれた広い背景から、前景の頭と眉という強烈なイメージが浮かびあがり、迫ってくる。
この作品が野田の全作品のなかでももっとも個人的なものであることは明白だ。これは野田がユダヤ教に改宗したときの「記念」である。彼が改宗したのは、1968年に受賞した作品「私の二つの家族」に登場する若いイスラエル女性ドリット・バルトゥールと結婚するためだった。この版画について野田はこう私に書いている。「No.96は亜鉛版の上に直接描いたもので、東京の古いユダヤ・コミュニティー・センター・シナゴーグを表しています。私はそこでラビ・トケイヤーについてユダヤ教を学んだのです。ほかの二人の男性もラビです(彼らは私の改宗を確認するために呼ばれたのです)。三人のラビと前景の私の肖像は、シルクスクリーンの写真映像から亜鉛版に転写され、手描きのドゥローイングとともにリトグラフの技法で刷られたのです。背景に書かれた言葉は、私がラビの講議を受けている最中に書き留めた重要なメモです。ラビの名前は赤色のペンで小さく書き加えられています」。見るほどに不思議な版画である。
野田の版画はしばしば遊び心に満ち、主題と技法の両方で目で見る地口を形成していることがある。「日記 1979年8月10日」(cat. No.230)(fig.11)は、歯の抜けた口を大きく開けた幼い息子イザヤの写真からなる。背景には鉛筆書きの計算問題が並べられているが、それらはイザヤの顔の上に重ねて刷られていて、愛敬のある楽しい画面を形作っている。野田は次のように説明している。「まず顔のイメージが先で、計算問題は後でした。この版画で私はイザヤの前歯の永久歯の発達を強調し、子供の知恵が増していくことを象徴したいとも思ったのです。同じようなテーマでもう一点版画を作っています。No.207がそれで、一年ほど前の作品で、下の前歯の乳歯が一本抜けています。息子の鼻の脇に、8と7の数字があります。8はハチで、7はナナ。あわせるとハナになりますが、それは日本語で「鼻」を意味しますから、言葉と数字を使った遊びになっています」。
ごく最近の野田の作品は抽象に向かっているものが多いが、それらは抽象そのものを目的としてはいない。日本版画協会の版画集のために制作された「上野のホームレス」(Fig.12)という作品は、社会批判の行為として始められたものだった。東京芸術大学や主要な美術館がある上野公園に皇族が来訪することが発表された。すると公園からホームレスと彼らの仮住まいが一掃され、皇族のために「清潔な」風景が作られた。
野田は公園の地面、木々、空を融合させたうえで、ホームレスの存在を示すためにひとつのテントのアウトラインを残したのだった。作品全体は統一のとれた雄大な美を生み出している。野田は私に次のようにも書いている。「ホームレスの版画は、ご指摘のとおりに、いくぶん抽象的にみえますが、それが私の意図したところでもありました。上部の次第に傾いていく線(放物線)はテントの形で、空はその線の上の狭い刷られていない部分です。青地のテントに映る木々の影を見ていると、影そのものが自然に美しい抽象的形をなしていたのです。ですから、まったく現実的な主題から発想を得ているにもかかわらず、抽象的な結果が得られたのです。写真映像を使いながら、私はよく抽象的で神秘的、あるいはユーモラスな要素を探して、見る人の想像力に刺激を与えようとします。また、現実的な情況のなかにさまざまな抽象的要素を取り入れることも可能であることを示したいとも願っています」。
野田は木版の背景にシルクスクリーンのステンシル印刷法を組み合わせた技法を開拓して、版画制作の歴史に名を刻んだ。表層的に見るならば、野田は単に写真の効果を高めているにすぎないと思われるかもしれない。しかし彼のしていることはそんなこととは程遠い。野田は写真のネガを選び、ある部分を切除したり、あるいは引き伸ばしたりして変化させる。現像した映像の上に黒鉛や水彩で手を加え、最初にカメラのレンズに映った映像とはまったく異なるイメージを創り出す。そしてそのイメージがスキャナー(元々は彼が大学で見つけた謄写ファックスだった)にかけられ、ステンシル原紙に放電させて小さい孔をあける。そしてそれをシルクスクリーンの下側に固定する。その間、日本製の紙ーたいていは和紙ーに木版で背景が印刷される。次にシルクスクリーンを紙の上に下ろして重ね、シルクスクリーンの上からインクをローラーを転がし浸透させることによって、木版の背景に写真のイメージが転写される。大きい作品の場合は、6から8の部分に分割されて、別々に手作業で刷られた後、見当を合わせることで境目なく接合され、最終イメージが出来上がる。偶然にゆだねられる部分は一切ない。その手順についてある書き手が描写したように、制作行程においては「油性の謄写版用インクの粘着性、ステンシルの孔の大きさ、紙の吸収性と質感、そして水性絵の具の濃度を調和させなければならず、これらの要素に少しでも不均衡が生じれば、完成した版画の性格が変わってしまう」。野田の版画を見た別のある人物は「いぶし銀のような質感」と評したが、それは水性絵の具の表面に油性の謄写版用インクが重なることによって生み出される魅惑的な効果のひとつなのである。(11)
野田は受けた初期教育から、完全に浮世絵の伝統を念頭に置いている。浮世絵の摺りでは、まずは主版が摺られ、その後に色版が別々の摺りで重ねられていく。これが可能なのは、水性の色は透明なために、色版を重ねていっても、彫師の目安となる主版の線を隠してしまわないからだ。野田は主版の代わりにフォトスクリーン印刷を使用する。木版の背景が最初に摺られ、次に色版が、浮世絵の摺りと同様に、見当を使って重ね合わせられる。
しかし、野田の版画は伝統的浮世絵とも肝心な点で異なっている。浮世絵のなかには強烈な色彩を用い、奇抜な構図を取入れ、雲母地を使ったり、凹凸を出してハイライトを演出したりするものもあるが、野田がそういう手法で版画を制作することはまずない。彼は抑制された落ち着いた色彩を伝統的水性木版用絵の具と組み合わせて使用する。印刷の際、水性絵の具は色が和紙の繊維に吸収されてしまうが、油性インクは紙の表面に留まる。(12) この効果が彼の作品に特別なぬくもりを与えている。
野田の空間構成はさらに伝統の浮世絵から乖離している。対象物は中央に置かれるが、これは日本の伝統的美意識からは外れている。野田の肖像には人の注意を主題から逸らすようなものは含まれていない。風景には、ジュディス・キャランダーが指摘したように、17世紀のオランダ絵画の様式を思わせるような低い水平線が使われている。それにもかかわらず野田の作品には感性に訴えるものがある。それを生み出しているのが、浮世絵の一種の漆絵に使われる艶のある黒ではなく、つるの上で熟した果物やふっくらした枕の上の四つの桃の暖かみのある自然な色彩なのである。これらの版画にはしばしば日本人なら見逃すことのない地口が含まれている。例えば「枕絵」だが、これは平安時代に関するアイヴァン・モリスの著作を読むような教養ある西洋人にも通じることだろう。
この文の冒頭で私が述べた野田の版画の魅力の秘密を解く鍵は、この細かく綿密な技法と構図との組み合せにある。ボストン美術館で展示された南瓜の版画では、二つの版木が色刷りに使われた。淡いグレーの背景と花の黄色のグラデーションは水性顔料を使って刷られた。南瓜と茎を含むほかの部分は、刷られているのではなく、木版の彫られた部分にあたっている。単純な庭の風景と見えるものは、実は二つのイメージが重ねられた複雑なものなのである。結果は、広い庭にぽつんと置かれた唯一の黄色という繊細な表現となった。これが日本的感性のひとつの定義となるかもしれない。 フォッグ美術館で紹介されたイザヤのなぐり書きを含んだ印象的な版画に関して、野田は、新しい作品用の亜鉛版を用意していた時に、息子がそれに落書きを始めてしまったのだと述べている。彼はそれを面白いと思い、息子の写真を撮影し、つぎにそれを別の感光性のある亜鉛版に転写した。まず最初に写真が刷られ、それを被うようになぐり書きが重ねて刷られた。つまり、子供が自分の写真の上に落書きをしているようにみえるものは、実際は二つの異なる版を意外な方法で組み合わせて創られたイメージだった。それをフォッグ美術館は、ジャスパー・ジョーンズが版に自分の手を直接描いた作品と並べて比較したのだった。ジョーンズの作品と同様、ひとつのイメージとみえるものは、重ねることによって生み出されたのだった。
残るは大英博物館の評論家ローレンス・スミスからの挑戦状だ。王族のパーティ・ドレスのような長いネグリジェを着て、裾からちらっと足を見せてこちらをじっと見つめているリカの肖像が発散する不思議な力について、「問うてみても無駄」な疑問という彼の言明だ。
私が思うに、答えはジャポニスムの本質のなかに存在する。ジャポニスムは1870年代にゴンクール兄弟によってフランスに紹介され、ホイッスラーやヴイヤールなどの西洋の芸術家に非常に大きな影響を与えた。その衝撃はマネが描いたゾラの肖像の背景に掛けられた浮世絵がその衝撃を記念しているといえる。 ジャポニスムの魅力は、平面性を強調し、空間や絵画面を定義するのに、ルネサンス以降の西洋絵画を形成してきた綿密な立体表現や遠近法のイリュージョンに代えて、色面を用いたことにあった。「わたしたちは鎧戸を閉めなければならない」と印象派の理論家のひとりのモーリス・ドニは記した。また20世紀半ばのアメリカでは、抽象表現主義の大御所クレメント・グリーンバーグが、絵画面の「平面性」を高らかにとなえ、ほかのすべての様式は退行であり、問題外である、と宣言した。
野田がしたことは「反転したジャポニスム」の創造である、と私は考える。野田の作品はしばしば見る者に境界を超えさせ、画面のなかに導きいれ、空間を示し、さらには空間の一部にまでしてしまう。どのようにしてか。リカの肖像を間近に目にした場合、ベージュの縁取りと底辺部を水平に横切る部分とによって「奥行きのある空間」が創りだされる。そして見る者はそのなかに入っていく。奥行きによって見る者は版画のなかに閉じ込められ、そして少女の迫真に満ちた力強い視線を共有することになる。 これこそが、理論をふりまわすこともなければ、おそらく理論を志向してもいない男、野田哲也が達成した驚くべき独創性なのだ、とわたしは考える。野田はたゆみなく続くイメージ群という、日常生活の刻印を宿した作品を創造してきた。しかしそれ以上に重要なことは、作品の空間のなかに「入って」そこで生きることを見る者に呼びかけ、ときには強いることさえもあるような、優れた技法と構成美を開拓したことだろう。それによって野田は版画制作の歴史に刻印を残したのである。
「ダニエル・ベル 野田哲也全作品Ⅲより」「Daniel Bell Tetsuya Noda Works Ⅲ 1992-2000」
原註
(1)ウオーホルやラウシェンバーグなどが写真映像とシルクスクリーンの技法を組み合わせていることは指摘しておかなければならないが、両者とも木版を背景に使ったことはない。木版の使用が野田の作品に彼ならではの質感を与えている。
(2)野田の作品をアメリカ合衆国で入手するのは難しい。部数は、すべて野田が手で刷っているために15から40に限定されていて、特に日本ではすぐに完売してしまう。ヘレン&フェリックス・ジュダは現代日本版画を早くから収集した人物で、1971年に「News letter on Contemporary Japanese Prints」(現代日本版画に関するニュースレター)の発行を始めた。彼らのキュレイターであるアイリーン・ドローリが編集を担当した。ニュースレターは国際的に頒布され、1977年までに全部で9号が発行された。世界旅行の際にロサンゼルスに立ち寄った野田は、ジュダ夫妻のニュースレター第一号が特集した作家だった。ジュダ夫妻は全部で21点ほどの野田の版画をコレクションした。その大部分は作家から直接購入された。これらの作品は1999年4月22日にクリスティーズが行ったヘレン&フェリックス・コレクションの売り立てで売却された。2000年11月にはサンフランシシコのドン・ソーカー現代美術画廊で野田の展覧会が開催された。
野田の作品については数々の記事が書かれてきた。2巻からなるカタログ・レゾネに掲載された文献リストには95の記事に加え、25の野田自身の著述や講議が挙げられている。レゾネには13回の受賞が記録され、野田の作品を収蔵している63の機関が列挙され、そのなかには世界の主要美術館のほとんどが含まれている。カタログレゾネでは野田の各版画に番号が付されているので、本文を執筆する際にそれらを使用した。
(3)「Japanese Art: Masterpieces in the British Museum」Lawrence Smith/Victor Harris/Timothy Clark著(1990年British Museum Publications発行、ロンドン、No.248/246ページ)
(4)Marjorie B. Cohn & Clare I. Rogan「Touchstone-200 Years of Artists' Lithographs」(Cambridge, Mass.:Harvard University Art Museum, 1998) 引用したリトグラフに関するマージョリー・コーンのコメントは11ページに、野田とジョーンズに関するコメントは27ページに掲載。
(5)Clifford Ackley+美術館版画部「Photo Image: Printmaking 60s to 90s」Boston: Museum of fine Arts, 1998. 11ページ
(6)新版画運動に関する議論については、1996年1月から6月までロサンゼルス郡立美術館で開催された展覧会に際して出版された研究論文を参照。グッドールのコメントは15ページに掲載されている。谷崎に関する論評は私自身のもので、小説「蓼食う虫」を参照した。また便器に関するコメントは「陰翳礼讃」による。
(7)日本の前衛運動に関する英文資料は主としてアレクサンドラ・モンローが編纂した「Japanese Art After 1945: Scream Against the Sky」(1994年Harry N. Abrams発行、ニューヨーク、全416ページ)を参照した。私のコメントは22~24ページ、83~84ページ、218~219ページに基づいている。
(8)写真家の森山大道の作品を加えることもできるだろう。彼は芳年の影響を受け、さらに劇場性やエロティシズムを究め、見るものを圧倒するようなイメージを発表した。例えば、電線や電話線からなる前景と背景に対し、煉瓦の壁から網目ストッキングをはいた女性の足が突き出ているといったイメージがある。Sandra S. Phillips「Daido Moriyama: Stray Dog」(1999年San Francisco Museum of Modern Art)を参照。取り上げた写真は、カタログ番号194、図版番号94。
(9)東松照明については「Japanese Art After 1945」(p164~)を参照。棟方に関する野田のコメントは2000年6月12日の私信に書かれている。日本の版画家の調査は「現代日本版画1」(1983年講談社発行)によった。
(10)野田哲也の作品の主題が限られたものに集中していることについて、影響関係を考えるとしたら、伯父の野田英夫がまず挙げられるかもしれない。伯父は野田が生まれる一年前に亡くなっているが、彼の絵やデッサンが家に飾られていたために、非常に存在感があった。20世紀初頭の数十年を野田英夫はアメリカで学び、パリで学んだ人々とは対照的に、ジョン・スローン、エドワード・ホッパー、ロバート・ヘンリ、ジャック・レヴィン、ウィリアム・グロッパーらの写実的作品に熱中した。これらの美術家の写実主義は、ホッパーらが描いた、都市の街路、地下鉄、非常口、寂寥とした人々や場面に現れている。この時期に関する説明は、1982年に東京国立近代美術館で開催された「アメリカで学んだ日本の画家とアメリカの風景」展のカタログを参照。
野田と近い路線で制作している現代アーティストのなかで、ジム・ダインは、妻、人物、手、ローブ、貝殻、花などに主題を集中させている点で特筆されるだろう。ウエイン・ティボーのケーキなど食べ物の絵画は、肉感的で、甘ったるい食べ物であふれかえっている。そしてリチャード・ディーベンコーンは「バークレイ」や「海浜公園」といった作品シリーズで、都市の街路や風景を、認識はできるが、ほとんど抽象に近いところまでデフォルメしている。2000年8月にロンドンのアラン・クリスティ画廊からダインの「主題」に関する研究論文が出版された。ティボーの絵は2000年8/9月にカリフォルニア・レジオン・ドヌール宮で展示された。
(11)Judith Callender, "Creating a Middle Way"ARTENTION INTERNATIONAL; March & April 1989, published in Hong Kong 80ページからの引用
(12)野田はわたしにこう語った。「東京から電車で一時間ほどのところに埼玉県小川町があります。わたしは以前からそこで制作される紙を使ってきました。わたしが使う紙は楮(コウゾ)の皮から作られますが、通常のものよりも厚さが二倍あります。わたしは年に一度学生をそこに連れていって、和紙がどのようにして伝統的手法で作られているのかを見せます。」
(13)この点については次に掲げる著書が有益な示唆をを与えてくれる。 Timothy Hyman "Bonnard" (London: Thames and Hudson, 1998)の"Flatness and the Floating World"の章(13-34ページ)および Donald B. Kuspit "Clement Greenberg, Art Critic" (University of Wisconsin Press, 1949)の32-85ページ。
(翻訳:梅宮典子)
このテキストはアメリカ浮世絵協会発行の会報に掲載されたものです。