あの暑かった夏のこと 内藤 誠
あの暑かった夏のこと
内藤 誠
かつて大島渚監督はこう書いたことがある。「一九七九年夏、内藤誠と私は『日本の黒幕』のシナリオを書くべく京都にいた。石塀小路の宿の小部屋は暑く、私は死ぬのではないかと思うほどがんばったが、シナリオはとうとう一か所が埋まらなかった」。これは、わたしにとって忘れがたく、悔やまれる文章である。
その暑い夏、わたしは大島渚組の仕事を手伝うようにと言われて、京都下河原石塀小路の田舎亭へ長期滞在の支度をして出かけていった。降って湧いたような話であったが、たとえ助手だって、「世界の大島」の仕事なら、一度はやってみようという気分だった。そのときまでは、監督協会でご挨拶するくらいのお付き合いだった。
東映関係者からの事情説明がなくて、呼び出しが大島監督みずからだというのが、へんだったけれど、日下部五朗プロデューサーの新刊『シネマの極道』を読むまで、わたしは前後の事情も知らず、その日から宿屋に缶詰になり、読み、かつ書いた。にわか勉強で、児玉誉士夫『悪政・銃声・乱世』から始めて、内村剛介編『商社は裁かれるか』や、白井為雄『ロッキード事件恐怖の陰謀』など、次々に速読しながら、メモをとり、シナリオのキメをこまかくしようとした。
大島さんが東京のテレビ局で「女の学校」の校長先生としてレギュラー出演しているときが、先行する大島さんの教養に追いつくチャンスだった。戸田・元持の美術スタッフがやってきて、大島脚本ではツナギのシーンは無用であると教えてくれた。「でも東映の台本のリズムとしては」と言いながら、こっそりとツナギの場面を入れたりした。
翻訳の出はじめたコーチャンの膨大な証言も精読したいと思ったが、その時間はなくて、大島さんのことばに耳をすませながら、せっせと鉛筆で二百字詰め原稿用紙を埋めていった。「右翼のセリフが巧いですね」とわたしが言うと、大島さんは苦笑していた。「誰がはかせた赤い靴よ 涙知らない乙女なのに」と『赤い靴のタンゴ』を挿入しながら、「これは川喜多和子のイメージだな」とか、「テロリストの少年の殺陣は、崔洋一がいいですよ」とか言いながら、時間がないわりにはむしろ陽気に、二百三十枚ほどの原稿を書いていったのだけれど、日下部さんが著書で書いているようにラストシーンが決まらなかった。
東映の封切りは絶対にのばせない。わたしは荒戸源次郎作詞の『昆虫採集の唄』などを引用しながら、いちおうエンドマークを書き込んだが、わたしたちの共同作業もそこまでだった。京都から引き上げるとき、「ナマ原稿はマコちゃんが持っていてくれ」と大島さんに言われて、そのままバッグに詰めて帰京した。もちろん、東映にもコピーはあるはずで、次の監督に決まった降旗さんから自宅に電話があり、「あなたたちの台本から使ってしまうところがあるかもしれないが、いいか?」と訊かれた。「東映の封切りは動かせませんし、降旗さんが好きなようにして、いい映画を作ってください」とわたしは言った。
大島さんは大友克洋の『童夢』を撮るようなことがあったら、またシナリオを手伝ってほしいと言ってくれたが、その話はなかった。
二〇〇八年に現代思潮新社から大島渚著作集が出ることになって、編集と解説の四方田犬彦から、映画化されなかったナマ原稿は残っていないのかと訊かれた。「持っている」と答えると四方田は喜んだが、わたしは東映から脚本料はもらっていないゆえ、東映の許可をとる必要はないけれども、大島さんの了解だけはとってほしいと言った。シナリオは第三巻「わが映画を解体する」に無事収録されて、わたしはナマ原稿を持っているという、積年の鬱陶しさから解放された。
挫折した仕事については小川徹のインタビューなども断り、沈黙を守ったが、大島さんは松田政男との「国文学」誌上の対談で、わたしとの仕事については好意的に語ってくれた。それをいいことに、わたしは拙著『昭和の映画少年』や『映画百年の事件簿』の解説をたのんだ。大島さんはそれらすべてを編集部が驚くほどの丁寧さでこなしてくれたが、いま思うと、大島さんは現代日本の映画監督の悲しみを熟知していて、映画監督にだけはやさしかったのだ。長年のご好意に感謝しつつ、ご冥福を祈り、お別れを言います。