東京五輪・パラリンピックが5年後に迫っている。だが、何をめざし、どんな大会にするのか、いまだに見えてこない。

 基本理念と国民的論議を欠いたまま見切り発車していた大会のシンボルは、相次いで振り出しに戻った。主会場となる新国立競技場の建て替えと、大会エンブレムである。

 どちらも迷走した末、「このままでは国民の理解が得られない」として、公募をやり直すことになった。これを機に改めて大会の意義を考えたい。

 競技場については新しい計画が示された。工費と工期の圧縮を最優先したとされるが、具体的な基準として目を引くのは「日本らしさに配慮して施設整備を行い、木材の活用を図る」とあるぐらいだ。

 これでは、巨費を投じて、「安かろう、悪かろう」とならないか。後世の子どもたちやアスリートが夢を描ける拠点となるのか、疑わしくなる。

 二つのシンボルの見直しが象徴するのは、明確な責任の下に組織を統べて、基軸となる理念を練り上げ、世に訴える主体がいないという現実である。

 大会組織委員会、文科省、日本スポーツ振興センター、東京都。どの組織の誰に、何の権限と責任があるのか。今に至るもあいまいとしたままだ。

 そもそも、2016年大会の招致段階から、開催意義や理念を誰も打ち出せずにきた。

 組織委が中心となって、今からでも「なぜ五輪なのか」をわかりやすく示さなければならない。それなしに、この先も広く国民の理解は得られまい。

 「復興五輪」ならば、震災被災地と大会をつなぐ工夫が必要だろう。「成熟都市の五輪」をうたうのであれば、無駄を省きつつ、質的、精神的な豊かさを追求する新しい五輪の姿を描くという指針がありえる。

 そうした議論の中心となるのが政治家や官僚では、発想の幅が限られる。日本オリンピック委員会や各競技団体など、あらゆるスポーツ界の人々に積極的に関わってほしい。

 スポーツを通じて世界中の人々と交流してきたアスリートたちは、五輪やスポーツの持つ力の大きさを実体験としてもっている。彼らの言葉には、国民的議論を巻き起こせる潜在的な力があるはずだ。

 大会の理念を語ることは、どんな未来の社会を築くのかという問いでもある。後世に豊かな記憶と遺産を残せるよう、今こそ本来の原点に立ちもどり、「TOKYO 2020」の理念を定めたい。