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法華経の智慧236 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月11日(金)06時50分32秒
■ 「本来の生命に帰る」のが本門
名誉会長: 寿量品では「久遠の仏」が説かれる。その仏とは、だれのことか。大聖人は「我実に成仏してより己来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」(法華経 p496)の「我」とは「法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり」(御書 p753)と仰せだ。
寿量品の「久遠の仏」とは一切衆生のことなのです。私どものことです。凡夫は凡夫のままで仏なのです。
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大聖人は『当体義抄』(御書六九五頁)で、
「至理は名無し。聖人、理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減なし」
と仰せである。
一法とは、大聖人の一念の心法である。大聖人はこの一念の心法に十界三千の諸法が具わっていることを覚知されるのだ。
即ち、仏とは「覚者」であり、学会は仏を「宇宙の創造主」のように捉えるからおかしくなるのだ。さらに、「一切衆生が仏」と即断するから慢心を起こすのだ。
大聖人を離れて法(南無妙法蓮華経)はなく、大聖人はそのまま南無妙法蓮華経の御当体である。
よって池田氏や学会首脳の考え方は全くの我見であり、正しい考え方ではない。
詳しくは宿坊2の掲示板に述べますから、異論がある場合どうぞ
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