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2-「信ずる」とは「シン活動」
いわゆるネット上の様々なツールによるやり取りを見ても、おしなべて希薄化した言葉のやりと
りに終始しており、生身の人としての不在が見られている。本人たちは、まったく「わからな
い」状態にある。このような現象は自分自身の存在を否定するというところまで進んでいる。そ
して、それが自殺念慮・自殺願望を抱きやすくなる土壌の上に成り立っている。そうしたアンバ
ランスを基盤とする人々が増えている。
「思い込み」「信じ込み」に意識が向いている限り、迷妄・迷走・妄想からの離脱はできない。
自分自身の命にかかわる出来事に遭遇した時にすべての「思い込み」「信じ込み」が崩壊するの
だ。思考すること、愚考からの離脱が起きる。臨終の時にはじめて「わかる」人がほとんどなの
だ。身体感覚が自身から乖離・遊離した現代人が自身の「身体感覚」に目覚める時である。
「思い込み」「信じ込み」という信念体系が脅かさられる状況になると誰でも「抵抗」示す。自
分自身の存在が脅かされる脅威となるからである。実はこれが妄想なのだ。それが愚考の在り様
なのだ。つまり、ブレて、揺れているのが思考なのだ。身体感覚で生活していると、こうしたブ
レ・揺れは起きない。
「発迹顕本」の「迹を払う」とは、「愚考」を消去することによる覚醒を言うのである。「思い
込み」「信じ込み」からの離脱を言うのである。身体感覚にもとずく世界を自得することでもあ
るのだ。釈尊の成道のプロセスは愚考からの離脱であったとも言える。
日蓮大聖人の身口意の三業とは、思考を離れた身体感覚による体感・体験であった。ご自身の身
で、生命で法華経を体現なされた現象だったのだ。ここで、あえて「現象であった」と表現する
のは、人間であるならば、誰でも体感・体験として「現象として現れる」ことがあること、すな
わち「発迹顕本」という現象がもたらされることを示すために述べているのである。
池田先生が「深く大きく境涯を開き、目の覚めるような自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む」
とのことは、一人一人の「思い込み、信じ込みの信心」から「生命感覚による信心」へのシフト
を期待されての指導なのだ。
別な角度から言うならば、「一人の生命感覚の体現が、自己の覚醒をもたらせ、他者の覚醒をも
たらす」という
ことなのだ。このことが「生命の世紀」となるのだ。愚考の世界では、口先やスローガン等、モ
ノ化された「生命の世紀」であり続けるのだ。なぜならば「生命感覚」が体感・体験として自分
自身の内面に定着化していないからである。
「愚考」と言う「相対的世界」と「絶対的な生命感覚の世界」とは、同じ現象に遭遇していても
「生きている次元」が異なるのだ。例えば創価学会という世界を相対的な次元の中から見ている
者、生命感覚の次元から見ている者がいるということだ。生命活動の格差が生じているのだ。
「愚考」という「相対的世界」は、「白黒」・「敵・味方」・「善悪」「左右」等の対立を引き
起こしている。私たちの生きる現実の世界は「対立」することにより自己を形成し、文化を形成
しているのだ。相対的世界の「平和」は対立する構造が元型となっている。これが人類の意識構
造として機能しているのだ。愚考文明である。
ちなみに「宿坊」「反宿坊」等の存在は、相対的世界の話、物語なのである。相対的世界に身を
置くことが意識に定着化しているのだ。「対立」することで自己を確認し、他者を攻める。「対
立」することでしか物事を見る事ができないという限定された世界にある。「智慧」も対立する
世界に限定される相対的なものとなるのだ。
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