|
|
「信ずる」とは「シン活動」
「信ずる」とは「思考世界」、「シン作用」は「身体感覚」の働き作用を言う。自然が内包する
バランス作用である。
42年前、精神分析の研究会で、フロイトの「精神分析」ヒステリーの研究を担当した時、精神
分析の「浄化作用」と「シン作用」についてのプレゼンテーションをした。 ※「信作用」とす
ると誤解を招くのでカタカナ表記した。なぜ、「浄化作用が起きるのか」を植物の光合成の働き
作用から説明したものである。
「太陽に向かって向日葵は生育する」という現象を通し、自然の働き作用としてカタルシス現象
がもたらされるという内容であった。フロイトはヒステリー研究の中で「カタルシス」の働きを
取り上げた箇所だった。ちなみに心身の浄化作用については現代の脳科学・生理学・心理学で
も、いまだに解明されていない。「モノ化」する思考の中にあるからである。
「シン作用」とは、成長、成熟に伴う働きを言い、生命が内包する新陳代謝機能を言う。東洋医
学で言うならば自然治癒力の活性化である。ヒステリー患者の回復改善にはカタルシス(心の浄
化)が欠かせない。この浄化作用が、生命が内包する新陳代謝であり、自然治癒力の活性化であ
る。フロイトは患者に語らせることにより心の浄化がもたらされると述べている。私は「語らせ
る」のではなく「シン作用」によるアプローチ、すなわち
自然のリズムに合わせる生活と、姿勢の調整により可能であることを展開した。残念ながら当時
の教授は西洋医学・西洋心理学の洗礼をうけた者であり、まったく理解はしてくれなかった。東
洋医学のアプローチは論外の中で育ってきたからである。
私が御本尊に向かう時、は「私」と「御本尊」との二者関係(二人称)となる。この構造自体
は、生命論的に言うと自然な新陳代謝の働き作用の形なのである。一般的にはこの構造は「祈
り」として「私から御本尊」という方向性がある。この「祈り」の現象自体も人間が内包してい
る自然現象なのだ。このことを「シン作用の基本形態」と言う。人間存在の尊さを能動的に示す
と自然と「祈りの形」となる。
「シン作用の基本形態」は、「真理を実行する」「自然のリズムに合わせる」こととなる。体
感・体験する世界である。「真理」は「対象」ではない。「真理」は自身で「体感」する現象で
ある。このような見方をする人は現代でほとんどいない。なぜならば、「わからない」「消失し
た」世界を選択しているからである。
※「祈り」の類似形態は野生のチンパンジーにもあることが観察されている。
しかし現代人は、体感・体験したことが即、思考に結び付き「信じる」という人間的事象とな
る。体感・体験した世界に留まる事ができないのである。身体感覚が希薄だからである。
思考の「信じる」現象は自己都合により発展する妄想の世界へと反転してしまう。古今東西の宗
教の異なり、文化・民族の異なり等は自己都合による反転現象による相対化なのである。それゆ
え様々な宗教・文化・民族があるのである。多様化という現象の背景にはこのような内的な現象
があるのである。そして相互間の葛藤・軋轢となり紛争・戦争へとシフトしていくのが人類の今
までの歴史であった。
生命活動としての「シン作用」は、波動医学で言うならば「波動調整」にあたる。波動医学の場
合、波動調整は機器によるものであるが、「シン作用」は自分自身による波動調整なのだ。
法華経で展開されている「良医のたとえ」は、衆生の救済としての働き作用を述べたものである
が、その原理が「シン作用」なのである。何回も言うが、思考による「信ずる事」ではない。自
然現象として「在る働き」であり東洋医学的な表現をするならば「自然治癒力」である。身体感
覚としての無限性が働き作用としてもたらされるのである。仏界が九界の現実世界に現われる現
象をいうのである。
では、なぜ御本尊に向かうのか、それは、対象化された生命活動を文字により表記された曼荼羅
に向かうことにより自身の生命が活性化されるからである。信仰の形態として象徴化された「対
象」に向かう事となる。
向日葵が太陽に向かって成長・成熟していく過程、すなわち生命活動の象徴としての構造が御本
尊に向かうという「祈り」の形態の中にあると言える。(宗教の発生はシン作用の現象化なの
だ)
現実世界は、意識が対象化されることにより「現象化」される。現実という視点から対象化せざ
るをえないのが現実という世界なのだ。私たち人間は、意識を対象化することにより認識すると
いう基本的な働き作用の中にある。
宗教の「祈りの形態」は、自然のリズムとして内包されている働き作用であり「現象化」される
と「礼拝する対象に向かう」という「形」が発生したのである。この働き作用は自分自身に内在
する「元々ある智慧」の現われなのである。自己と他者(法)という構造が元々あるのである。
(自他は同根)二者関係(一人称・二人称)はツイン・ぺア・として統合したものとしてある。
「統合」とは「全て」であり、「円」である。私は、「円」とは「球」であると体感している。
「球」は「無限」である。今述べている「円」「球」とは私たちが理解しやすいようにビジュア
ル化し文字化した表現である。「縁」ということは働き作用を文字記号として表現したものであ
る。
「以信得入」「以信代慧」の「信」は「ただ信ずる事」ではない、「シン」という働き作用を言
うのであり、身体感覚である。このことは「道理」でもある。「喉が渇くと水を飲む」「便意を
感じたらトイレに行く」身体感覚の反応である。「向日葵は太陽を求めて育つ現象」は「シンと
は自然也」を示していると言える。
「信ずる」という人間的な思考は、身体感覚の反応ではない。「思いこみ」「信じ込み」という
世界の事象であり、「身体感覚」と「思考」の混同が「愚考」を形成させ発展させていると言え
る。意識・心は「モノ化」する反転をもたらすのである。生命・命のモノ化である。今、述べて
いる「身体感覚」という用語も思考により瞬時に「モノ化」してしまうことが起きているのであ
る。「モノ化」してしまうことが習慣化されている読み手は「身体感覚」という言葉[表現]がわ
からない、理解できない世界を選択しているのである。
「身体感覚」が不在の「思考」は勝手に「妄想」へと発展する。こうした事が「人間の幼稚化現
象」をもたらしているのである。肥大する自我・浮遊する自我・居場所作り・迷走する若者・心
の迷宮等々は「思い込み」「信じ込み」の文化なのだ。過剰な思考は身体感覚を抑制させ心身を
歪曲化させる現象として現れている。
官僚による統治的思考・政治的思考・各業界のシステム思考・学問的思考・信仰的思考・教育的
思考等の社会システムといわれる領域的な思考は、それぞれの「思い込み」「信じ込み」により
成立しているのである。こうした状況の中では、自分自身の身体感覚の危機的状況により木端微
塵になることは明白である。
現代社会は「思い込み」「信じ込み」の「もろさ」の上に成り立っている。気づく時は自分自身
の生命の「危機的状況」に遭遇して始めて気づくのである。
当然、このような身体感覚不在の思考は創価学会の世界にもある。つまり「信仰自体」が身体感
覚から離れた思考的世界にあるということである。創価教学の体系にも身体感覚が不在となって
いる。
仏教各宗派の教義でも、思考と言う相対的現象により形成され、その時々の仮説・解釈がなされ
ており身体感覚の消失が見られている。衰退する宗教離れ・組織離れ等は身体感覚の不在による
「意味の消失」が起きているということなのである。つまり人々の内面では「意味がわからな
い」「意味不明」の現象が起きているのだ。「自分とは何か」という問いかけがあっても「わか
らない」という状況があるのだ。
この「わからない状況」は自分自身の「思い込み」「信じ込み」の崩落・崩壊をもたらす。わか
りやすく言うならば、今までの自分自身の思い、思考では通用しない現象が常に起きているとい
うことだ。
「対話」が重視されているが、現代は、メール化された言葉による対話がゲームとなり、内実性
を裏打ちしている身体感覚が無いという状況が見られている。今年、入社した若者の研修会での
彼らのやり取りを観察していると、明らかに身体感覚が失われている「言葉」が行き交うだけで
胸に響かないのだ。彼らにとっては当たり前のやり取りであるが、観る者から言うならば、対人
的な面での過剰な気遣い、表向きの姿の内側に彼らの慢性的な不安、恐れが感じられていた。
「ここまできたか奴隷化現象」と思わずにはいられなかった。
私たちが学んできた世界と彼らの学びの世界とは、もはや次元が異なっているということであ
る。
|
|