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「愚考」と「身体感覚」のアバランス現象
明治大学の憲法学者青柳幸一氏の不祥事について読売新聞は「倫理観の欠如が招いた」と社説で
能書きを述べている。愚考である。
学者の世界は、常に「思い込み」と「信じ込み」の世界という「愚考」で生息しているのだ。身
体感覚による体感・体験が希薄だから「教え子」に性的エネルギーが向いてしまうのだ。「倫理
観」ということも思考による「思い込み」である。汚職・腐敗等は「思い込み」「信じ込み」で
はない「金が欲しい」という欲望であり身体感覚による反応である。自己コントルールが効かな
い。嗜癖行動として定着化しているのだ。学校の先生・お巡りさん・公務員・医師等の不祥事に
は、このような歪みが内在されているのだ。当然、彼らだけではなく、我々も含めてのことであ
る。たまたま不祥事にならないだけの人間がいるということだ。
理屈が通らない、道理が通らない、おかしい、変だ、事象の全ては「愚考」ゆえの現象である。
その背景に身体感覚の抑圧、欠如が厳然として在るのである。創価の腐敗、不祥事も同様なメカ
ニズムにより起きているのだ。そして人がいる以上、不祥事は無くならないのだ。
軽減税率の財務省の発表時の麻生の「めんどうだから」と、ここに日本人の愚考文化が象徴され
ている。今の人々の抱える「めんどうだから」が世界中を空気のように覆っている。
身体感覚の抑圧・欠如がもたらせている現象なののだ。
「依正不二」ゆえに人心も自然環境も「病んで」いるのだ。鎌倉時代の様相が写しだされている
のだ。時空を超えた世界が同時に今、進行しているのだ。「愚考」からの離脱、シフトは「身体
感覚」の活性化であり、身体感覚を「体現する事」なのだ。
「信心」とは「思い込み」「信じ込み」ではなく、「身体感覚」の「体現」でなければ、世俗化
した信仰者となるだけである。そして創価学会という教団は、既に世俗化した教団となっている
のである。ここが「わからない」と組織や幹部に期待し依存するだけの「思い込み」「信じ込
み」の「会員集団」としての働き作用となるだけである。
信仰、信心は、どこまでも自分自身の事なのだ。組織・幹部は宗教法人としての役割・行動なの
だ。
「思い込み」「信じ込み」という「愚考」と「身体感覚」の歪みの現象が起きているのである。
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