生字幕放送でお伝えします
亡くなった方、そして行方不明になった方、合わせまして2万1000人余り。
東日本大震災から、まもなく4年半を迎えようとしています。
こんにちは。
特集・明日へー支えあおう。
きょうは宮城県女川町から、生中継でお伝えしています。
震災からこれだけ時間がたって、最初はなかなか進まないといわれていた、土地のかさ上げなどの基盤整備も、だいぶ地域によって急ピッチに進んできたという感じがしますが、そこで暮らしていた人たちの暮らしの息吹きっていうのは、まだまだ戻ってきていないですよね。
そうなんですよね。
この番組では本当にいろいろな被災地から、生放送でお届けしていますけれども、4年半たった今、やっぱりそれぞれの進捗状況の中で、それぞれの向き合っている課題に違いが出てきたというような印象は改めて思いますよね。
そうなんですね。
きょう私たちが訪れています、宮城県女川町の今の様子、ちょっとご覧いただきたいと思うんですが。
海に程近い所に私たちがいます。
その海からずっと津波が入って、町並みを襲ってしまったんですね。
その被災した町の中心部、今、かさ上げが行われておりまして、商店街、あるいは地域の交流センターなど、建設が進められています。
そして見えてきました。
この羽のような、象徴的な屋根。
ことし3月に完成した、JR女川駅です。
石巻線の終着駅なんですね。
そうなんですね。
この白い屋根の下、3階の部分は、海が見える展望フロアがあり、温泉施設も入っている施設なんですが、この駅舎、それから鉄路の開通を、地元の人たち、本当に多くの人たちが待ってらっしゃったんですよね。
地元の方に加えて、外からの多くの観光客の方々もね、きのう、きょうといらっしゃってます。
そうです。
ただ、今、このように見えてますが、この周辺の4年半前、どういう状況だったか。
これがそうなんです。
この駅周辺の被災直後の状況ですね。
駅舎も何もないです。
駅がない?
流されました。
この辺りを襲った津波の高さは最大で14メートル。
町の建物のおよそ7割が全壊したんですね。
人口の8%に当たります、827人の方が亡くなったんですね。
これから4年半たったわけです。
こうして、年月を重ねて、今の駅の前を見ますと、ご覧ください。
きょうね、私たちの放送をご覧いただくために。
皆さんありがとうございます。
ありがとうございます。
地元の方も観光客の方も来てくださっています。
のぼりが立っていますが、駅の前、まだまだ少ない、だったら、週末ぐらいは、なんとかお客さんのためにということで、地元の方が、出店も出していたりして、おいしいものも販売したりしてくださっています。
つぶを焼いている香りとかね。
ここまで漂ってきて、おいしそう。
さあ、私たちは今、その女川駅の隣にあります、地域の皆さんが集まって交流するための施設、女川フューチャーセンターにおります。
きょうはこちらをキーステーションにして、伝えていきたいと思っています。
東日本大震災から4年半です。
実はですね、今年度中には復興事業費を国が全額負担する、集中復興期間というのが、終了するんですよね。
そうなんです。
つまり被災地の復興というのは、また、次の段階に入ることになります。
節目を迎えようとしている今、被災地はどんな現実を迎えているのか。
そして未来に向けて、何をしていけばいいのか、考えていきます。
もう建物がですねどんどんできていくんですよ。
それはできないですよ正直言って。
ほんとにあとで失敗したなってなるよ。
俺たちがつくるまちでねえかな。
♪〜
きょうは、こちらのほうにゲストをお招きしました。
中村雅俊さんと、シンガーソングライターのmiwaさんです。
よろしくどうぞ。
よろしくお願いします。
中村さんはこの女川町出身で、震災直後から何度もこの現地のほうに足を運ばれて。
そうですね。
この4年半というのはどういうふうに映ってますか?
そうですね、被災地はやっぱり、復興に格差はありますね。
それは事実ですけれども、でも、復興はちゃんと確実に、確かに進んでるって実感ありますね。
ただ、4年半たって、先ほど言いましたけど、集中復興期間というのが終了するんで、やっぱり、新しい局面に入ってるんで、やっぱりここで何かギアチェンジというか、背中を押すようなアクションが必要なんじゃないかなっていうふうに思っているんですよね。
miwaさんは去年、若い人たちがこれから希望を持って、なんとかしていきたいという思いを込めた曲を作られましたよね。
被災地についてはどういうふうに、今、見ていますか?
そうですね。
もうその曲をきっかけに、気仙でライブをやらせていただいたり、先日も、ここの女川町に訪れることができたんですけど、新しく出来た女川駅を拝見させていただいたりとか、いろんな女川のいいところを見させていただいて、水産業も、だいぶ復活しているのを見ることができて、すごく、生活する人に出会えたことが、すごいよかったなと思っていて、これから、もっと、より生活が、皆さんが便利にもっともっと楽しく暮らせる町づくりっていうのが、楽しみだなというふうに感じました。
きょう、お2人、よろしくどうぞお願いします。
よろしくお願いします。
さあきょうは、この復興が進みます、女川町の中心部の様子をお伝えいたします。
NHK仙台放送局のリポーター、吉田さんです。
吉田さん。
駅から歩いて3分ほど、町の中心となる駅前商業エリアに来ています。
手前で建設中の建物は、地域の交流センターです。
12月にオープンする予定です。
周りにも続々と建物が建っています。
さてこうして復興に向けて、次々と急ピッチで整備が進めている一方で、そのままの姿をとどめるところもあるんです。
それが、あちらです。
旧女川交番です。
震災の記憶や教訓を後世に語り継ごうと、今もこの姿で残しているんです。
そして少し目を向けますと、女川湾が見えます。
海が本当に近くに感じられます。
女川の人たちは、この眺めを残すために、高い防潮堤を作るのではなくて、土地をかさ上げして復興をしようとしているんです。
女川の人たちの、海とともに生きるんだという強い覚悟の表れなんです。
さて、その強い覚悟が感じられる場所から、後ほど中継でたっぷりとお伝えします。
この番組では、皆さんからのメッセージも募集しています。
インターネットのホームページから書き込んでいただけますので、ぜひお寄せください。
届いております、紹介しましょう。
もうね、きょうさんま船入ってますね。
水揚げはあしたって言ってましたが。
さんま祭り、確か女川は9月20日ですよね。
まもなくですね。
9月20日、まもなくなので、ぜひまたそのときにもいらしていただきたいと思います。
さあまずは、被災した各地は、今、どのように復興に向けて進んでいるのか、見ていきたいと思います。
こちら、中村さんはご存じかもしれないんですが、ここ、女川が目指す将来図、ここにご用意いたしました。
見ていただくと、津波の被害を受けた中心部、全体かさ上げしていますけれども、住宅の建設はできません。
なのでお店ですとか病院、学校、町の機能をぎゅっと、ここ中心に集めます。
人が住む住宅というのは、高台に、周辺に配置するというので、なんとか頑張って3年後ぐらいにはこうした町になればいいなという願いがありますよね。
ここ今、駅ですよね。
そうですね。
この周辺がずっと、こういう形になるんですね。
さあ、この復興に向けて、急ピッチで進むふるさと女川の様子を、実は先日、中村雅俊さんに訪ねてもらいました。
震災後、刻々と姿を変えるふるさとを見守ってきた中村さん。
3か月ぶりに女川を訪れました。
水産業は女川の基幹産業です。
かつては日本有数のサンマの漁獲量を誇り銀ざけやホヤの養殖も有名です。
津波で町は大きな被害を受けました。
港や関連施設が壊され水揚げ量は震災前の3割と激減しました。
それから4年半、水揚げ量は震災前の8割以上にまで回復しています。
久々に港へ行ってみたんだけど船がすごい増えてるので。
港付近には10を超える水産施設が再建を果たしていました。
その一つが復興の象徴として建設されたこちらの大型冷蔵施設です。
どうぞ、入ってください。
水産業には欠かせない大型冷蔵庫。
室内は氷点下30度。
水揚げされたカツオやサバ、イワシなどおよそ50種類の魚が保存されています。
想像を超えてかなり寒い。
魚たちにはなりたくないって感じしますよね。
この建物の大きさからするとすごい量ですよね。
再来年には女川の水揚げ量は震災前と同じ水準にまで回復する見通しです。
しかしその量に対応できる水産施設がすべて整備される見通しは5年後。
水産業の町の復活にはまだ時間がかかります。
町の中心部では店舗や施設の建設が急ピッチで進んでいます。
もう建物がですねどんどん出来ているんですよ。
12月にはテナント型の商店街が完成します。
7月には、先駆けて3つの店舗がオープンしました。
すみません、お邪魔します。
店主の島貫洋子さん。
震災で、創業80年を超える洋品店を失いました。
島貫さんは震災後仮設商店街で営業を続けてきましたが町を盛り上げたいと借金をして店を構えました。
活気にあふれていたかつての町に戻ってほしい。
島貫さんの願いです。
商業などの復興が進む一方住民の暮らしはどうなっているのか。
震災後、女川は人口減少に拍車がかかり、住民のおよそ3割が町を離れました。
仮設住宅では今なお918世帯が暮らしています。
平らな土地が少ない女川。
高台移転の造成工事に時間がかかるからです。
仮設住宅からの移転がすべて完了する見通しは3年後です。
中村さんが次に訪ねたのは去年、町で最初にできた災害公営住宅です。
現在、200世帯が暮らしています。
住民の6割が70歳以上です。
住民の孤独や引きこもりなどを防ごうとこんな場所も作りました。
こんにちは。
どうも、皆さん、お邪魔します。
「ふれあいカフェ」です。
飲み物はすべて50円。
オープンから半年お客が絶えることはありません。
まさに、生まれ育った土地の変化をご覧いただいたんですけども、どうでしたか?
まず、実感として感じるのは、やっぱり笑顔が増えたと。
皆さんの笑顔が増えたということと、やっぱり前向きになってるっていうことと、やっぱりなんと言うんですかね、すごいいろんな人たちの相当なる覚悟みたいなものが見えて、頑張らなきゃいけないんだという、そういう覚悟がすごくひしひしと伝わってきますよね。
覚悟。
特に、女川自体も、個々の人たちもやっぱり自分たちが何をやらなきゃいけないのかという、そういう優先順位みたいのがちゃんとこう、はっきり分かって、まずはこれをやるんだというようなことが、すごい明確になってるという。
あと今、復興住宅、見たんですけど、あれもやっぱり、1つの問題を解決すると、もう1つ問題が生まれるみたいな、例えば仮設出て、復興住宅に行って、生活の環境はよくなるんですけど、やっぱり孤独死とか、引きこもりとかっていうのが増えていったり。
また仮設だと、長屋の感じだから、隣どうしの交流とかが、結構密に行われて、その人間と人間のつながりみたいなのが、ちゃんとできてたんですけど、復興住宅へ行くと、なんかよすぎて、逆に孤独を感じたりするみたいな、そういう現実があって、なかなか、複雑で、すぐには解決しないんだなというのを実感としてありましたけどね。
ただ笑顔は増えてきたということですね。
笑顔は本当に増えて。
これ一番大切ですよね。
ここからは、東北大学大学院の小野田泰明さんにも入っていただきます。
建築の専門家のお立場で、実際に被災地の復興計画を、建築関係の仕事もされているということで、実体験を交えていろいろ、教えていただければと思います。
よろしくお願いします。
小野田さんはこの女川の復興については、どのようにご覧になっていますか?
そうですね。
復興自体は自治体が基本の単位になるんですけども、女川は1つには、自治体の規模が非常にコンパクトで、複雑なことに、本当にうまく対応していかなきゃいけないんですが、そのコンパクトさが、非常によく生きているというふうに思います。
もう一つにはやはり、自治体を経営するマネジメント力が、すごくあるなというふうに見ております。
それは町長さんをはじめ、町のスタッフがですね、非常にうまく専門家を使って、先進的な町づくりをしっかりと主導していると。
3つ目には、やはり、一番大事なことだと思いますけれども、民間の力ですね、民間の力が、非常にうまく復興計画の中に取り入れられています。
そういうリスクを取りながら、町と緊張的な関係を保ちながらも、復興を進めていこうという、民間の人たちのパワーが、この計画の中にうまく入ってると、そのあたりじゃないでしょうか。
ただ、VTRにもありましたように、非常に人口減、激しくなっておりますので、区画整理の一部は見直していったりとかですね、中心部では、目につかないようなところでやはり復興の難しさを抱えているというふうに理解しています。
この東北の今の災害の復興、どうなっているのかここでちょっと確認しておきたいんですが。
まず全体がどうなっているのか、ちょっとこれをご覧ください、まとめました。
岩手、宮城、福島3県では、ご覧のように、港湾の施設や学校だとか病院といったものは、ほぼ復旧しました。
ただ、暮らしの再建という面ではまだ立ち遅れているんですね。
住宅を建設する高台の造成工事が完了したというのが、まだ52%です。
災害公営住宅が36%。
仮設住宅で暮らす方、今、17万人いらっしゃるんですよね。
その移転先のメドも立たないで、今後3年ぐらいは、まだ仮設で暮らさなきゃいけないかなという方も2万人以上いるともいわれているんですよね。
阪神・淡路大震災のとき、最後の仮設がなくなったというのが、5年でしたよね。
それよりもさらにかかるという見通しの中で、この長期化っていうのは被災された方々には、相当な負担になってるんじゃないですか。
そうですね。
2つの問題があって、1つは物理的な問題ですね。
仮設住宅はそんなに長くもつようには作られてません。
2年ですよね?
制度的には2年ですけれども、ものとしては5年ぐらいですかね。
特に基礎の部分が…ですので、そこが腐食したりとか、壁が傷んだりとか、劣化したりと、目に見えないところ、それから雨漏りとかそういう問題、やはりどうしても劣化が進むと。
今、それ以上に大きな問題になってるのは、いわゆる世帯分離という問題でして、仮設住宅は、多世代世帯用には作られてませんので、3世代で住んでおられた、非常に地域の中で中心を成していたおうちが、ばらばらに家族が住まわれる、特にみなし仮設で大都市の近く、お年を召した家長の世帯は仮設住宅というふうにばらばらになって生活を始めた。
それが3年、4年ぐらいたっていくと、なかなか元に戻ってもう一回うちを建てるというふうにならないで、お年を召した世帯だけが公営住宅に入って、若い世帯が都会に出ていくという問題が今、増えております。
それを考えるとやっぱり、なんでもうちょっと速くできないのかという、スピードをついつい見てしまう部分もあるんですけれども。
それでですね、スピードは確かに非常に重要なことなんですが、スピードだけを強調すると、非常に不適切な計画が建てられてしまって。
急ぐあまり?
そうですね。
人口減局面にもかかわらず、過剰な供給がなされてしまうと。
要するにデッドストックが起こってしまうということですね。
空き家がたくさん増えるという問題。
もう一つは、住みにくい、非常に計画があまりよくないもので、適合してないので戻りにくいと。
一番大事なことは、むだをそぎ落としちゃうので、交流人口が増えない、6次化にも期待できない、非常に痩せ衰えた町になってしまうと、あまり急ぎすぎるとですね、そういう問題が起こってしまいます。
そのスピードと本当の…の部分を、両方見なきゃいけない。
それが難しいところなんですね。
そういった、非常に時間がかかっている中で、実はいち早く、住民たちが集団で移転した地域もあるんですよね。
宮城県の岩沼市の玉浦西地区という所なんです。
この夏、町開きが行われました。
ことし7月、被災地に新たな町が誕生しました。
岩沼市玉浦西地区。
水田を2メートルかさ上げし津波で家を失ったおよそ1000人が新生活をスタートさせました。
住民たちは、震災前美しい松林が広がる仙台平野の海岸沿い6つの集落に暮らしていました。
津波は家々や田畑を飲み込みおよそ1700人のうち118人が亡くなりました。
すべてを失い仮設住宅に入居した住民たち。
集団移転の話が持ち上がったのは震災から3か月後のことでした。
その年の秋、本格的な町づくりの議論が始まりました。
重視したのは住民同士の徹底的な話し合い。
6つの集落に分かれて暮らしていた住民およそ50人が集まりました。
海から3キロ内陸に入った移転先そこにどのような町をつくるのか意見を出し合おうというのです。
議論には町づくりの専門家も参加。
みんなであるルールを決めました。
思ったことを自由に発言する。
人の意見を非難しない。
すると…
次々と意見を出し始めた住民たち。
さらに、住民と行政の関係も岩沼ならではでした。
多くの地域では自治体が町づくりの青写真を作り住民に意見を求めます。
一方、岩沼では白紙からスタート。
しかも自治体は初め話し合いに加わらず住民同士の議論にゆだねました。
年が明けた、4度目の話し合い。
この日は移転地の大きな図面を使って住宅や道路の配置など町のレイアウトを考えます。
チップは、自分たちがこの町で暮らす新しい家。
話し合いを重ねるにつれてばらばらだった住民の意見に町づくりのテーマが見えてきました。
その後市も加わって議論を重ね話し合いを始めてから10か月ついに、新たな町のプランが出来上がりました。
子どもたちの遊び場となる芝生に覆われた公園が至る所に配置されました。
町の周りには冬の季節風を遮るイグネ。
住民たちが大切にした緑あふれる町が姿を現しました。
震災から1年半集団移転事業のトップを切って土地の造成工事が始まります。
ここまでたどり着くのに住民たちの話し合いは実に20回近くに及んでいました。
しかし1年後順調に進んできた町づくりは大きな壁にぶつかります。
市が示した計画案は住民の意向と違ったものになっていたのです。
住民が最も大切にしていた町の緑。
全面芝生のはずだった公園の大半が土に変わっていました。
税金で整備する以上市内のほかの住宅地とバランスを取らなければならないという理由でした。
芝生にこだわる住民たち。
震災後、玉浦地区は若い人の流出が続き高齢化が一気に進みました。
若い世代を呼び込むため子どもが安心して遊べる公園は町に不可欠でした。
造成が終わり家が建ち始めた新しい町。
公園となる場所に150人近い住民が集まりました。
作業開始!
住民たちは市に頼ることなく自力で芝生を調達し植えることにしたのです。
水道代など管理にかかる費用も住民みずから負担します。
よいしょ、よいしょ…。
風の強い町の西側では防風林となるイグネの木を植えていました。
これはシラカシの木。
この地域の鎮守の森にあるふるさとの木を選びました。
そして、迎えた町開き当日。
わっしょい、わっしょい。
6つの集落の人たちが一つになって新しい町の門出を祝います。
公園には、芝生がしっかりと根付いていました。
いち早く集団移転を成し遂げた玉浦西地区。
その原動力は一見遠回りに見えても住民の力を信じた町づくりでした。
今の岩沼の町づくりを見ていきますと、まさに住民が主体的に関わっていく、自分の町をどうしていこうかと考えて、miwaさん、こういった動きって、どういうふうに見ます?
そうですね、去年、東北の子たちと出会ったときにも同じように感じたんですけど、本当に、自分たちの地元のことをすごくみんな愛していて、自分たちが住んでた町をまた取り戻したいっていう思いだったり、海をすごく愛してるから、海に悲しい思い出だけじゃなくて、また水産とかも復活して、もとのみんなの笑顔が戻るといいなって、そういう気持ちで町っていうのは、実は生きているというか、町も生きてるんだなというふうに、すごく感じました。
確かに、中村さんね、震災があったその地域っていうものはすごく大事にされますよね。
そうですね、ただ見てて、あれですよね、子どもたちとか若い人たちが町づくりに参加するって、あるようでないですよね、実は。
自分のことを考えると、そんな、うちのことは考えたことはあるけど、町のことを考えるって、町がどうなってほしいとかって、考えたことないですよね。
そうやって、住民が参加していく町づくり、そういった部分のメリット、なぜ造成されたかっていうことが、震災されたきっかけだと思うんですけど、そのあと、そういう気持ちをうまく具体化させるには、相当壁がありましたけれども、よく乗り越えましたよね。
岩沼、早い例として非常によく取り上げられますし、私も裏方でお手伝いさせていただいたんですが、1つには、平野型の被災で、ちょっとリアスとは状況が違うってことですね。
6つの集落が失われて非常に歴史のある集落が失われて、それが内陸移転するという、非常に厳しい局面であるんですが、市の中心部は津波の被害を受けていないということで、市役所が非常にちゃんと機能しながら、集落のリーダーたちと、しっかりと話し合いをして、非常に早い初動をしたと、それがまず一番だと思います。
VTRには出てませんでしたけれども、そういう裏の作業が非常に早かったと。
2番目に、今ここでお話しされてるように、住民参加で、初動は早かったけれども、そのあとはじっくり住民参加で町づくりを考えていったという、そこがポイントかと思います。
特に、若いお母さん、地域の移転してくる先の地域の人たち、そして、いわゆる町の顔役の人たち、そういう人たちをバランスよく集めて、ワークショップを丁寧にやったと、これがポイントです。
実際にワークショップに出ると、非常に若いお母さんたちの意見が、ぐいぐい話を引っ張り上げていって、やっぱりここに皆さんおっしゃったようにここに住みたいんだと、住むためにはやっぱりちょっと高くなっても、みんなが本当に愛してくれるような、そういう場所じゃないとだめだよ、少しぐらいの負担は自分たちでしますからというふうに、リスクを取りながら、行政に働きかけていった、そこが非常にすばらしいことだと思います。
なるほどね。
お話を聞いてますとね、やっぱり住民がどこかで、積極的に町づくりに関わるというのが大きなポイントのね、一つとして、分かってきましたが、実は、きょう私たちが中継しているこの場所も、そのために作られた施設なんですね。
ちょっとご覧ください。
ことし3月、女川駅の再開に合わせて完成したここ、女川フューチャーセンター。
名称は、カマスです。
中村さん、これ地元の方言で。
これはかき混ぜる。
かき混ぜるという意味だそうですね。
ミックスするって感じですね。
この日なんですが、町の人を集めてちょっと不思議な話し合いが行われました。
ここまでする?
そう、男性はなぜかマスク。
実はこれ、女性の意見を積極的に取り入れて、新しい視点で町づくりをしようと企画された会議なんですね。
早速、さまざまな意見が出ます。
この日、参加した1人の女性からは、ファッションイベントを、ここ、女川で開きたいという提案も出ました。
さあ、この活動の仕掛け人をお呼びいたしました。
NPO法人の代表の小松洋介さんです、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
なかなかこれ、ユニークな会議ですね。
どのくらいの頻度で開いてらっしゃるんですか?
テーマごとにだと、月1でやってまして、そこからもう、分科会になるともう、月に何回もやってますね。
そうですか。
参加される方が毎回ああやって、自由に意見を出せる。
いいですよね、ああいうの。
そうですね。
意外な意見が出てくるでしょう?
そうですね、かなり意外な意見が出てきて、それこそ女性のためのファッションショーをやりたいとか、女性の写真集を出したいとか、女川で頑張ってる女性のとか、はたまた、海辺で結婚式をやりたいとか、本当にいろんなアイデアが出てきました。
まあね、男性がばってんのマスクしてるって、一見ちょっと、怪しい会議のようですが、実はとてもね、緻密に計算された、この本から出来ているんですよね。
小松さんが作られた、これ、データブックとありますが、分かりやすく言うと、これ、どんなものなんですか?
そうですね。
女川の未来を考えるにあたって、やっぱり感覚的なことだけではなくて、データをうまく活用しましょうということで、データをですね、いろいろ国とか県が出しているものをまとめさせていただいたものになっています。
ちょっとこれね、一部だけこんな分厚いんですけれども、ちょっとだけ、例えばなんですが、ここを見てほしいんです。
これ、小松さん、これ女性が意外に働く人が多いよというページなんですけれども、ここ見ていただきたいですよね。
はい、そうですね。
ここから分かってくること。
こちらの製造業というのは、女川の水産加工業がメインになるんですけど、この基幹産業、どうしてもイメージ的には男性が多いというふうに思われがちなんですけれども、実際、働いている人の男女比率を見ると、女性のほうが多いんですね。
実は。
ちょっと思い当たる節ありますよね。
あります?
やっぱり、水産業っていうのは基幹産業なんで、ほとんどが、そういう、水産業の従事している人いるんですけど、やっぱり女性が働いている姿って、結構子どものとき見てましたからね。
例えばなんか、魚が水揚げすると、その処理とか、かきとか、そういうのとか、みんな女性ですよ。
現場で処理してるのは。
漁師は魚を取ってきますけど、そのあとの処理は、ほとんど女性がやってるっていうイメージですよね。
そうですね、完全にそれがデータとして、もう、女性が多いと。
きちんと証明される。
こんなことがそうだった?ってこともあるわけでしょ?
そうですね、まさにこういった女性のデータのところもそうですし、それ以外にもさまざまなデータのところから読み取れることもあって、例えばその、仕事があれば、地方には人が来るからっていうところとか見ていくと、有効求人倍率と人口の相関関係って意外にないことが見えてきて、もっと、いろんな人たちが楽しめる仕事がこの地域にあるほうが人が集まるんじゃないかとか。
女川に、どこの県の人が一番多く来てると思います?
えー?そうですね、あえて言うなら関東。
関東?これ、データありましたよね?
データありましたね。
岐阜だったかな?
岐阜、そうですね、岐阜ですね。
岐阜県から来てる。
意外な所。
姉妹都市とかになってるんですかね?
特にそれはなくて。
そうなると、このデータブックから新たなものが生まれる。
きちんとした情報が伝わるということですよね。
あいまいな印象とかではなくて。
そうですね。
それを活用しようという。
現実が把握できるということですよね。
こういった町づくり、データを元にして作っていく、これはいいですね。
そうですね。
復興というのは、王道がなくて、これやればいいという話じゃなくて、やっぱり残酷なようですが、町の人たち、町の地域の人たちが、自分たちの未来を自分たちで考えるっていうのは基本になります。
そのときに、今、お話しにあったように、しっかりと今、自分たちの町がどういう資源を持っているのかというところから、しっかりくみ上げていくと、地域の資源を生かした復興、個性的な復興を行うということが、やはり基本になります。
そのときに、地域の人たちが生かすだけじゃなくて、それを実際にやる、ほかと違ったことをやるときに、リスクをとらなきゃいけない、それはもしかすると失敗するかもしれない、もしかすると、復興庁のほかとは違って大丈夫ですか?っていう指導を受けるかもしれない。
その中でも、負けずに頑張っていくという体制をどうやって作れるか。
それがまた、ちゃんと持続していけるかですね。
何十年も持続していけるものになるのか、そういったところが非常に重要なことだと思いますね。
町民の人たちは、女川という家を作るようなものじゃないですか。
そこに自分たちはその家に住むじゃないですか、住むんだったら、自分のこうしたいとか、台所はアイランドにしたいだとか、なんかそういう注文ってあるじゃないですか、そういう意識の中で、この町という家を作っていけたらいいですよね。
いいですが、例えばね、中村さんのお宅でも、奥様が望まれるちゅう房と、ご主人が望まれるの、違うでしょ。
そういう意見がたくさん出てくると、先生、これどうやって調整するのが一番いいんですか?
だからさっき、岩沼の例であったように、ワークショップで徹底して議論して。
お父さんにはしゃべらせない、みたいなね。
いやいや。
そこいくわけですね。
ここが重要で、そこに専門家が入ると、専門家が入って、一つ一つの意見をこれはこうなりますよ、これはこうなりますよと。
ポストイット貼るだけではなくて、その向こうにどういう世界が広がっているかってことを専門家を使って、上手に検証していくと。
そのプロセスがやれる町と、やれてないところではやはり、結果に大きな差が出てくると思います。
建築家と住む人たちはいろんな話し合いをすべきだということですね。
じっくりと丁寧にね。
建築家だけじゃなくて、土木の人とか産業の人とか。
私は建築家ですから、建築いっていただけるとうれしいんですけど、いろいろな人たちとちゃんと話をしていく、そういうことかと思います。
ここまでは、住民が主体的に参加する町づくりということについて、考えてまいりました。
特集・明日へー支えあおうー震災から4年半未来に向けて。
きょうは生中継で女川からお伝えしております。
さて、東日本大震災では津波とともに、福島第一原子力発電所の事故というものもありました。
今の福島の現状をここでご紹介、お伝えいたしましょう。
ここに地図をご用意いたしました。
第一原子力発電所の場所がここになりますね。
状況によって3つに相変わらず分かれています。
薄い赤の部分、ここはなかなかまだ帰還が難しい区域。
そして、その周辺には、まだ居住、生活をするということがなかなか難しいという空気もあります。
つまりまだ10万8000人もの方々が、ふるさとを離れて避難生活を余儀なくしているという状況です。
そうなんですよね。
そうした中できのう、住民のすべてが避難しました自治体としては初めて、ここにあります、福島県の楢葉町、こちらの避難指示が解除されたんですね。
ここです。
きょうは、この楢葉町にNHK福島放送局の今井アナウンサーが行っています。
今井さん。
海岸からおよそ1キロ。
楢葉町の木戸駅から程近い住宅街に来ています。
楢葉町はもともと、8000人ほどの人が暮らしていましたが、その住民全員が、避難をしていました。
それがきのうから自由な寝泊まりをすることが、再びできるようになりました。
この地区もですね、古い日本屋敷が立ち並んでいる場所です。
江戸時代からの風情が残っている所です。
宿場町として栄えていました。
この道をけさは、ランニングをする人や、また犬の散歩をする人を見かけました。
少しずつ、町に生活が戻ってきているということを感じる、そんな景色でした。
ただ一方で、道を挟んだ向かい側、こちらでは家の解体工事が行われています。
4年半の間に建物が傷み、人が住めなくなった家も多くあります。
町では、避難指示解除を前に、生活を再開する準備を行うための宿泊、準備宿泊というものが、ことしの4月から行われていました。
この地区には313の世帯があるのですが、そのうちの15個で準備宿泊が行われていました。
そしてこちらのおうちはですね、その4月から一足早く、避難を解除して戻ってきた方のおうちです。
お邪魔します。
この家には、100年以上の歴史があります。
今はとてもきれいに片づいていますよね。
避難をしていたときは、草なども生えて荒れていました。
ただ、家に戻りたいという思いで、ここまで掃除と庭のせんていを行ってきました。
こちらのご主人の永山和平さん、そして妻の貞子さんです。
こんにちは。
こんにちは。
失礼します。
和平さん、楢葉町の避難指示がきのう解除されました。
これを今、どういうふうに受け止めていますか?
私は本当に喜んでね、だから、仮の住宅から、ここに住所を持ってきたんです。
私も第一歩だと、町も第一歩打とね。
これで本当に、初めて、大きな歩みができたと私は思ってますね。
ありがとうございます。
お2人はこの立派なおうちで60年以上前から、暮らしをされてきたんですよね。
そうですね。
お2人にとってのおじいさんの代から、そしてまた、孫の代まで、ずっとこのいおりを囲んで食事をとられてきたんですよね。
そうなんですね。
貞子さん、またこのふるさとの家で、お2人での生活が始まるわけなんですけれども、生活の不便さ、また放射線に対してなど、不安や心配することなどはありませんでしたか?
今のとこは2人で健康で、月1回、お医者さんの薬もらいに行くだけですので、2人とも、それで不安といえば、新聞と、医療機関のことですが、10月1日、新聞屋さんも開所する、医療も、10月1日から開所する、そんなうわさが立ってますので、安心してこの町で頑張ります。
ありがとうございます。
お2人のように戻ってこられた方もいる一方で、また戻ってこない方、そして戻りたくても戻れない方もたくさんいらっしゃいます。
おりますもんね。
それぞれの状況によって、町の捉え方もまた違っていると思います。
今の楢葉町の現状と課題を取材しました。
VTRをご覧ください。
原発事故で失われた暮らしを再び取り戻そうと動き始めた楢葉町。
去年、復興庁と町が住民に対して行った調査では「すぐに戻る」と「条件が整えば戻る」を合わせた割合は4割以上にのぼりました。
しかし、準備宿泊しているとみられる世帯は、僅か5%。
実際の帰還には結びついていない現実が明らかになりました。
戻れない理由として上位にあげられたのが病院や学校などの生活基盤がまだ十分に整備されていないこと。
そして原発と放射線量への不安が払拭されていないことがあげられました。
さらに、実際に帰還に動き出した人たちの間にも具体的な課題があります。
きょうはよろしくお願いします。
はい、こちらこそよろしくお願いします。
いわき市で避難生活を続ける安藤英明さんです。
安藤さんは、避難先から楢葉町の自宅へ毎週通っています。
長男として代々続いた家を次の世代へとつないでいきたいと考えてきました。
しかし、4年半前の地震で自宅は今も一部が壊れたままになっています。
安藤さんは昨年夏自宅のリフォームを業者に依頼しましたが既に先約が入っていたため来年半ばまで待たざるを得ません。
楢葉町は改修や建て直しが必要な家が1100戸にのぼると見積もっています。
町は業者を斡旋してきましたが業者も手いっぱいの状態が続いています。
住民の帰還が進まない中いち早く町に戻った人たちの生活もかつての暮らしからはほど遠い状態にあります。
NHKが準備宿泊中の208人にアンケートを実施したところ4割が、避難先などの家族と別居が固定化する世帯分離状態にあることが分かりました。
先月4年半ぶりに楢葉町へ戻った横田芙美子さんです。
横田さんもまた、家族と別れて楢葉で1人暮らしをすることに決めました。
息子夫婦は孫が進学を控えていて、避難先に留まらざるを得ませんでした。
しかし、横田さんは亡くなった夫と過ごしたこの町で余生を過ごすことを選びました。
人が戻らない町で生きがいだった場所も失われたままです。
ここは、横田さんが友人たちとよく集まった地区の集会所です。
震災前、横田さんはバレーボールやカラオケの同好会ボランティア活動などに積極的に参加していました。
しかし今はそうした人のつながりもほとんど途絶えたままです。
こんにちは。
そうした中横田さんにとって支えとなっているのが同じく町に帰ってきた数少ないご近所の存在です。
この日は、かつて一緒に町内活動に取り組んだ友人の家を訪ねました。
いまだ多くの不安を抱えたまま迎えた楢葉町への帰還。
戻る人も戻らない人も手探りの日々が続いています。
ご覧のように、避難指示が解除されても、住民の皆さん、それぞれ難しい状況にまだ置かれています。
ここからは楢葉町の現状と今後について、松本幸英町長にお話を伺います。
お願いいたします。
まずこの避難指示の解除、この4年半でのタイミングというのは、町長としてどういうふうに捉えていますか?
そうですね、大変、課題山積の中での解除でありますので、町民の間でも、いろいろと議論があるということは招致しております。
しかしながら、実態をお話をさせていただくんであれば、企業の誘致であるとか、あるいは住宅の再建であるとか、それがですね、やはり避難指示を敷かれたままでは、進まないということが実態でありますので、これ、なかなか難しいのかなというふうに思っております。
松本町長、こちらのほうからも一点伺いたいんですが、アナウンサーの畠山と申します。
今回の帰還といいますのは、全住民が避難した自治体として初めてでいらっしゃいますよね。
その意味では、ほかのモデルになるというふうに思うんですが、再生への鍵はなんだというふうに思われてますか?
非常に難しいと思います。
今、お話しされたように、避難から4年と6か月が経過しようとしておりますので、町全体のコミュニティーがまず崩れているということが、一つ大きなことかなというふうに思います。
その中での、なんといいますか、ポイントといいますのは、やはり子どもたちがどのぐらい、町に戻ってくるのかなということが、一つのポイントになるのかなというふうに思っております。
楢葉町では、町で教育の総合会議を先日開きまして、学校再開を平成29年の4月というような方向性は出させていただきましたけれども、これ、1年と数か月、準備期間があります。
その中でですね、いろいろと、魅力のある教育づくりとはどういうことをすればいいのかということをですね、考えながら、組み立てていきたいなというふうに思っております。
分かりました、ありがとうございます。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
復興に向けて、一歩進み始めた楢葉町からお伝えしました。
避難は解除になったとはいえ、戻ろうというふうに準備をされていた世帯が313戸中15戸しかまだないという状況。
これはいろんな課題をまだクリアしていないということですよね。
さあ、ここで皆さんからメッセージを頂いていますね。
福島から頂きました。
ありがとうございます。
20代の男性の声です。
そして、中村さん、女川関連のメールが来ました。
10代の女性から頂きました、ありがとうございます。
生放送としては4時半までなので、たくさんお寄せいただければと思います。
お待ちしております。
東北の皆さん、女川町のお友達のみんな久しぶりです。
私たち、今会えるアイドル
(一同)週末ヒロインももいろクローバーZ!よろしくお願いします。
東北の皆さんにも私たち会いに行きたいなって思うし何か新しい…すごい笑顔が見れたらいいなって。
皆さんの笑顔見に行きたいなって。
私たちもまだ知らないことがたくさんあるじゃん。
それをこれからも、もっともっと知っていきたいなと思うし。
東北にライブに行ったときは機会があったらぜひ会いに来てください。
こんにちは、荒川静香です。
まもなく東日本大震災から4年半が、たとうとしています。
私は東北で育ちましたが東北に行く機会は今でもたくさんありまして復興がかなり進んでいるなと活気づいている町を見ることもあればもう少し時間がかかるのかなと大変な状況をみることもあります。
4年半という時間の中で復興してきているところそしてこれから頑張っていくまだその途上にあるところさまざまな地域がありますけれど完全な復興に向けて私も日々できることを自分で探して少しでも力になれるよう応援していきたいと思いますので皆さんも一緒に心を寄り添っていきましょう。
どうもサンドウイッチマンです。
東日本大震災からまもなく4年半ということですけども僕らも宮城県を中心にですけれど沿岸地域、今もよくお伺いしたりするんですけども目に見える復旧というんですかね復興というんですかね非常に、またここにきて急ピッチで整ってきているなと感じていますね。
毎日トラックなんか走ってて。
そうそうそう。
クラクション鳴らしてくれるんですけどびっくりするんでやめてもらって。
これからも僕ら、やることは全国のお客さんをどんどん東北に呼ぼうと観光地東北を、もっともっと盛り上げていかないといけないと思っていますんで。
いろんなとこ行って東北のすばらしさを僕らは伝えていきますんでぜひ、そういった方を迎えていただきたいなと思います。
共にこれからも頑張りましょう!サンドウイッチマンでした。
そして女川町のお友達のみんな、お久しぶりです。
私たち、今会えるアイドル、週末ヒロイン、ももいろクローバーZ
東日本大震災から4年半。
続いては、復興を確かなものにしていくためには、何が必要なのかを考えていきます。
それにはやはり、産業って欠かせないですよね。
ここ女川では水産業です。
復興を確かなものにしていくために、その象徴ともいえる場所に、NHK仙台放送局の吉田リポーターがいます。
吉田さん。
女川港のすぐそばに来ています。
この海のすぐ近くに、ことし6月、新たな施設がオープンしました。
それがこちらです。
この施設、名前が特徴的でして、名前が、あがいんステーションといいます。
あがいんとは、女川の方言なんですが、スタジオの女川出身、中村雅俊さん、ご存じですか?
上がってくださいと、食べていきなさいみたいなときに、あがいんとかって言いますけどね。
まさにそのとおりなんですね。
どうぞおあがりなさい、召し上がれという意味なんですね。
さあ、中はどんな施設なのか、入ってみましょう。
こんにちは、お邪魔します。
こちら、入りますと、一見すると、お土産屋さんのよう。
特産品が、海産物がたくさん並んでいるんですが、一味違うんです。
というのはこちら、あがいんおながわとあります。
これは数ある特産品の中から、味ですとか、見た目、そして価格など、食の専門家が厳しく審査しました。
それに合格したものだけを、こうして、あがいんおながわとして、ブランド化しているんです。
例えばこちらにご用意いただきました。
どういったものがあるかといいますと、例えばこちらです。
さんまの昆布巻きです。
女川特産の。
大きいですね。
そうなんですよ、脂の乗ったさんま。
お勧めですね。
三陸の昆布で一つ一つ丁寧に巻きました。
そしてお隣はこちら、ほたてのオリーブオイル漬けです。
そのままでもおいしいほたてを、ひと手間加えました。
そしてパッケージにご注目です。
これも、女川のデザイナーが特別にデザインしました。
これは、あがいんおながわのために新しく作られたものなんですね。
こうしてブランド化することによって、これまでばらばらに売られていたものを、オール女川として、女川のブランドとして売り出すことで、女川の水産業をもり立てていこうという取り組みなんです。
さあそして、この施設には、こういったスペースもあるんですよ、ご案内しましょう。
こんにちは。
皆さん、何かされていますけれども、皆さん今、ほたての殻をむいているところなんですね。
ここは、特産物を、揚がったものをすぐさばいて、そして食べる、そういう体験ができる施設なんです。
お話を聞いてみましょう。
こんにちは。
こんにちは。
きょうはどちらからいらっしゃいましたか?
宮崎から来ました。
宮崎からいらっしゃったんですね。
どうもありがとうございます。
きょうは特別です、私も体験させていただきたいと思います。
講師は女川の海産物のプロ中のプロ、青木さんです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
さあまずは青木さんの技を見せていただきましょう。
ほたてあります。
この丸い部分と平らな部分、お分かりですか?分かりますか?このつながってる部分に隙間があります。
この辺からこう、今、閉じてるんで、結構強力に閉じてるんで、こう、こういうふうにくいくいと今、かんでますけど、真ん中ぐらいまでもってきたら、下の貝に沿うように貝柱をえぐるような感じで、えい!ぐっと、入れてあげると、ぱかっととれると。
簡単にやってらっしゃいましたが。
こんな感じになります。
ぜひやってみてください。
私も体験させていただきたいと思います。
できますでしょうか。
平らな面を下に入れて、えーと、いきますね。
ぐっぐと。
あっ、なかなか固いですね。
よいしょ、よいしょ、よいしょ。
おっ、かき取って、あっ。
意外とうまくいったかも。
そして、できました!これでできた瞬間、うれしいですね。
ありがとうございます。
さあそして、むいたものをこうして切り分けるところにも、プロの技が光るということなんですね。
ふだん、居酒屋さんとかでは繊維が縦に入ってるんですけども、それを横に切るような形で、提供されてると思うんですね。
でも、きょうはまたちょっと違った形で、縦に切ってみます。
こうすることで、何が違うんですか?
繊維が残るというところで、食感がたぶん、すごい違うと思うんですね。
これはもう、女川の特産物、女川の海産物を知っている方ならではの知恵ですね。
では、せっかくですので、むきたてのほたて、いただきます。
身が光ってますね。
いただきます。
本当は食べ慣れてるんじゃないの?どう?
もちもちですね、もちもちで、甘いです。
やっぱり縦に切ってあるからか、食感がしっかりしているんですよね。
そうですね、繊維をかみ砕くような感じで。
お店で食べるのとはまた違う食感ですよね。
体験もしてもらいたいなと思います。
こういう海のプロならではの知恵もこうして、教えていただけるということです。
どうもありがとうございました。
ありがとうございます。
さあではこの施設の代表の方にお話を伺います。
阿部喜英さんです。
よろしくお願いします。
よろしくどうぞお願いいたします。
この施設はどういう目的で作ったんですか?
あがいんステーションといいまして、あがいんというのは、この辺りの方言で召し上がれというもので、女川のおいしいものを全国の人に食べてほしい、それから、全国の方がここ女川にぜひ楽しみに来てほしいという、そういう拠点としての駅という意味も込めて、そういうような意味づけの施設になっております。
今後はどういったことを?
この水産業体験であるとか、女川の産品を販売するというのは、2012年からスタートはしていたんですが、当時は本当に何もない中からだったものですから、何しろないものねだりじゃなくて、あるもの探しということで、今、この体験プログラム施設が出来たのが6月なんですけれども、スタートさせていただいておりますので、これまで震災の記憶をたどるということで、これまで、たくさんの方に女川にお越しいただいたんですが、これからはぜひ、女川の水産を楽しむということで来ていただければなというふうに思っております。
きょうはどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
ここまであがいんステーションからお伝えしました。
さあ、あがいんステーション、すぐそこなんで、お持ちしましたよ。
ほたてです、女川産の。
おいしそうに食べていましたね。
どうぞ召し上がってください。
いただきます。
小野田さんも、小松さんもどうぞ。
あがいん、あがいん。
こういうときに使うんですね。
魚のプロというのは、魚の味を100%引き出す方法を知ってるんですよ。
だから、ほたてを縦に切れっていうふうにおっしゃってましたね。
これ多めに食べたほうがいいかもしれません。
うーん。
おいしい!
違いますよね。
miwaさん、どう?
確かに甘いです。
甘みがすごい。
本当だ。
縦に切ると繊維が生きてるっていう。
一回、1個じゃなくて、3個ぐらい一緒に食べると、また。
中村さん、子どものころから食べていた味でしょうけれども。
改めておいしいです。
そうですか。
こういった味がつなぐ被災地と、ほかの地域というのも、miwaさんもあるでしょう。
自分が今暮らしてる所と、こちらのほうの産物が…。
そうですね。
私、目黒川の近くに住んでるんですけど、目黒では、さんま祭りというのがありますね。
もう小学校のときからいつも行ってるんですけど、やはり震災があってから、さんま祭りがなくなる年があったので、そういうときに、あっ、やっぱりさんまの水揚げがなかったんだなっていうので、土地を離れてますけど、地域は離れてますけど、つながりを感じて、またことしは、もうさんまの水揚げがあったって、お聞きしたので。
女川ありますよ、9月20日に。
すごい楽しみ。
うれしそう。
より一段と笑顔になって。
やっぱりさんま食べると思い出しますもんね。
やっぱり、女川の人も、まず女川を知ってほしい。
知ったら来てほしい、来て、こうして楽しんで、味わって、体感してほしいという思いが、まさに中継から伝わってきましたが、そのためにしていること、それだけじゃないんです。
ちょっとお気付きでしょうか。
後ろご覧ください。
これ、なんと、ことし完成したばかりの、女川町内のいろんなお店のオリジナルポスターなんです。
世界でこれだけ。
全国のクリエーターの皆さんがボランティアで協力して。
ツイッター?やってないけどつぶ焼くよ。
200枚あるんですよね。
私このツイッター?やってないけど、つぶ焼くよの前で、写真撮りました。
えっ?ご存じです?
この商店街、女川高校のグラウンドにある。
今、復興商店街、食堂の、商店街の中の居酒屋さん。
その中の焼き肉はんって、中華料理屋さんで、焼肉飯っていうのをいただきました。
すごいおいしかったんですけど、量がめちゃくちゃ多くて。
一応ハーフにしたんですよ、半分のサイズに。
もうそれが1人前のサイズで、びっくりしました。
危ないと思って、私すごい大食いなんですけど。
女川ドンもめちゃくちゃおいしいんですよ。
へぇー。
本当においしいから、もう本当に。
だって、おいしいって知ってるとみんなに食べてほしいと思うんですよね。
しかもこのキャッチコピーでしょ。
壁ドンより女川ドン。
すごいですよね。
ツイッター?やってないけど、つぶ焼くよっていう、このアイデアですからね。
で、もっと作品、持ってきていただけますか?ポスター、さらにあるんです、どうぞ、こちらにご用意しました。
ありがとうございます。
こういうポスターでも地元の産品をPRしています。
中央の怪しいポスター、先ほど、中継で紹介した、さんまの昆布巻きを作ってるお店のポスターなんですが、生まれた時から巻いてます。
昔おくるみ、今、昆布。
その隣にも、老舗のかまぼこやさんのかっこいいポスターもあります。
ちょっと待ってください。
これ、持ってるのは、ちょっと見せて、顔。
あら?もうばれちゃいました?じゃあどうぞ。
君たちじゃないか。
ポスターのお店の方にきょうは来ていただきました。
昆布巻きなどを作るお店の阿部淳さんと、老舗かまぼこ屋の4代目になりますね、社長の高橋正樹さんです。
ありがとうございます。
お待たせしてしまってすみません、ありがとうございます。
このポスター、ちょっと、顔と、これがポスターですね。
で、これがこの顔、そういうこと、そうそう。
これ、よく昆布巻いて撮ろうと思いましたね。
そうですね。
これ誰が考えたんですか?
自分でちょっと考えたんです。
自分で?だから全部で自分でやった、考えてあとパフォーマンスも自分でやって。
クリエーターの方がプロの視点で、もっとこうしたら受けるっていうのでこの作品が完成したわけですもんね。
楽しんでますよね。
あれですね、かまぼこでしょ。
ファンタジー系。
すごいですね。
これは誰がアイデア考えたんですか?
これはクリエーターさんが。
クリエーターさんが?そうですか。
先ほど頂きました。
ありがとうございます。
めちゃくちゃおいしかったです。
おいしいんですよ。
そうですか。
彼、正樹っていうんですけど、彼のお父さん、同級生なんです。
ここでもつながって。
困っちゃいますね、本当に。
そうだったんですか。
このポスターもあるせいか、なんか本当に、みんなが知ってる人というか。
そうですね、でも女川ってそういう所ですよね、狭い町な分だけ、みんなすべての行動、顔も知ってるっていうね。
なんとかさんとか、どこどこの息子さんとか、大体分かるんですよね。
阿部さんはやっぱり正直なところ、なんでこのポスター作ろうっていう思いがあって?
そうですね。
いろんなチャンス頂いてですね、女川町に少しでも人が来てほしいというのもあって、そういう思いもあって、こういうのをもしやりませんか?ってお話を頂いたときに、ぜひやりましょうということで。
これ見てください。
これさっき出てましたよね。
そうですね、さんまを昆布巻きして。
あがいんで売ってるやつ。
ぜひおいしいんで食べてみてください。
そのインパクトで、じゃあもう、さらにまた来ようっていうファンを増やしたいという思いがあるということですね。
高橋さんはもちろんこのお店のかっこいいポスターももちろんお好きでしょうけど、ちょっとやっぱり心引かれるポスターが1枚あると聞いて、それが。
女川、今の女川をずばり表してるのが、このお母ちゃんっていうか、お姉さまが写ってるんですね。
真ん中の。
明るいんでねくて、あがるくしてんのさっていう。
なるほどね。
今の女川の復興を表しているのかなと。
やっぱり、悲しいことがあった場所というのは、間違いないんですけども、もう、僕ら、泣いて泣いて、涙枯れました、正直いうと。
でもこれからは、いい町をつくって、女川取り戻して、腹から笑って、もう涙流すような、そういう涙だけを流したいなと思って、もう本当、このポスターが、一番如実に表してますね。
いや、この女川の町に来てびっくりしたのは、こういうポスターに写ってらっしゃる方が普通に町の中にいらっしゃるわけで、あっ、どこかで見たことあるなって方がいらっしゃる。
なんせ200枚ありますから。
そうなんです、町じゅうにこうやって貼ってあるんですよね。
どうですか、若い人たち。
いや、だから今、人口が流出してるって話をしたんですけど、女川もまさにそうなんですよ。
だからこの世代が実はいないんです、女川に。
だから、そういう世代が、やっぱりこうやって頑張ってやってるっていうこと自体が、すごく遠くにいる者にとっては、すごいより頑張ってほしいという、また力強さを感じるし、すごい2人ともリーダーシップがあるんで、やっぱりどんどん女川のすべてを引っ張っていってほしいなというふうに思ってるんですよね。
…さんもうなずいてますよ。
ありがとうございます。
高橋さんご自身はやはりおじいちゃまをね、亡くされたり、阿部さんもね、会社が流されてしまったりということがあってのこの原動力というか、このエネルギーですもんね。
今や、女川町、悲壮感も不謹慎もないといわれてますので。
それぐらい。
なんでもありと?
それぐらいとにかく明るく前向きにいきましょうという田舎になってます。
本当に頑張ってる姿はひしひし伝わってきますよね。
ちょっと小松さんも今度作ってもらわなきゃ。
これだけ頑張ってるから、絶対作ってもらいましょう。
いやいやいや。
でも本当に、ありがとうございます。
阿部さんも高橋さんもずっと持たせてしまって、ありがとうございました。
ありがとうございます。
しっかり見て帰ります。
ありがとうございました。
かまぼこおいしいですから。
地域によって全部味が違いますからね。
さあ、ここまでは、町の復興や産業の活性化につながるファンを、いかに増やしていこうかということを見ていったんですが、さらにその先を目指していこうという動きも始まっているんですね。
震災によってどんどんとこう人口の流出が厳しくなってしまった東北に、なんとか外から若者を呼び込んでいこうという取り組みです。
太平洋の大海原を望む宮城県気仙沼市唐桑。
仙台から車で3時間かかるこの町に1台のバスが到着しました。
関西や広島からやってきた大学生たち。
男5人女9人の総勢14人。
移住体験ワークキャンプの参加者です。
この日から9日間唐桑に滞在します。
宿泊場所は震災後、空き家になった家。
一つ屋根の下、みんなで共同生活をします。
到着して最初のメニューは家の掃除です。
あー、やばい。
食事は自炊。
まるでサークルの合宿気分です。
ネットの募集広告や口コミで集まりました。
お疲れ様です。
こんにちは。
ツアーを企画したのは加藤拓馬さん、26歳。
加藤さん自身も移住者です。
出身は神戸。
3年前に唐桑へ移り住みました。
大学卒業の年に起きた震災。
決まっていた就職を辞退してボランティアに入ります。
逆境でも前に進もうとする唐桑の人たちの姿に心を打たれそのまま移住を決意。
町を元気にすべく体験ツアーなどを企画する会社を立ち上げました。
そんな加藤さんが目を付けたのが大学生。
この中から一人でも深く長く町とつながる人が出てほしいという思いからです。
唐桑で生活しながら震災後の町づくりにも参加してもらおうという今回のキャンプ。
加藤さんは、あるプログラムを用意していました。
地元の人たちが集まる小屋の前にウッドデッキを作ります。
もちろん学生たち大工仕事は初体験。
慣れない作業に悪戦苦闘を強いられます。
しかし、連日の重労働に学生たちは疲労困ぱいの様子。
そんな中、強力な助っ人が。
福祉施設で働く地元の若者が手伝いに来ました。
結構重いんですか?
重いよ。
こちらは大工さん。
思わぬ形で地元の人たちとの交流が生まれます。
いいね!
あいよ、いいね!
日がたつにつれ差し入れを持ってぶらりと訪れる人も増えてきました。
地元漁師のちょっと手荒い歓迎。
キャンプ8日目。
完成したウッドデッキお披露目の日です。
手伝ってくれた地元の人たちも駆けつけました。
唐桑の町に学生たちが残したここで過ごした証。
若者たちと被災地の新たなつながりが生まれようとしています。
若い人たちの新たな可能性を秘めてるっていう感じが、ひしひしと伝わってくるんですが、皆さんはこういった若い人たちの活動を見て、どういうふうに映りました?
住みたいなと言ってたことばがすごい印象的で、やっぱり、その町に愛着が湧くと、そうやってまた来たいなとか、住んでみたいなっていう気持ちになるっていうのが、やっぱり、その町とのつながりの一つなんじゃないかなというふうに感じました。
ただ、そこに暮らすってなると、仕事はどうだろうかとか、そういったことっていうのは考えますよね。
でもそれをも超えるような魅力があったら行くんだろうか、若い人たちって。
そうじゃないですか。
それでだんだん行く回数が増えていくと、そこの町の人ともまたつながりが生まれたりすると、行く意味とか、出てきますもんね。
小野田さん、この移住といいましょうか、移り住んでいくというところの意味は、どういうふうに見ればいいですか?
そうですね。
被災地全般に高齢化が進んでますので、こういう若い人、中年の方を含めてというのは非常に価値があると思います。
その一方で、復興交付金でつくられている事業ですね。
防災集団移転促進事業と、公営住宅で若干空きがあってもですね、こういう人たちを受け入れるには、ちょっと主旨が違うので、お金の、なかなか受け入れられないと。
そうするとこういう人たちを受け入れられるようにまた別なお金が必要になってきたりすると。
そこらへんの、復興とこういうものを活動をどうやってつなげていくかというあたりが、また課題になってきてるように思います。
小松さんも震災をきっかけにこちらのほうに、住み始められたお1人でもありますけれども、これからどんなことを目指そうとしてらっしゃいますか?
そうですね、やはり僕も外から入って、先ほどのほたてじゃないですけど、おいしいものとか、地域の魅力に気付くことが外の目線、たくさんあるんですよね。
なのでこれから、やっぱりそういった新しく外からチャレンジするような人、来ていただけるように、特に今、ITだと場所も時間も選ばずに、パソコンがあれば、仕事ができる人たちもたくさん、若い人たちにはいますから。
町に仕事がなかったとしてもですか。
そうですね、そこから新しいものが生まれていって、新しい仕事が出来ていくとまたいいなというふうに思ってますので、そういう移住というのも、今後、生み出していけたらいいなと思っています。
なるほどね。
若者たちにとって、移住というと、すごく、ちょっともしかするとオーバーだけど、感覚的に二重生活ぐらいの、ちょっと行く場所、第3ぐらいのふるさとという気持ちで被災地に来てる若い子たちも、実はいるかもしれない。
そういう心がけでも全然いいっていうこともあるかもしれないですよね。
仙台に住まいながら、週末はここで合宿するみたいな。
いいですよね。
…アビテーションといいますけれども、そういう形のライフスタイルがこれから広まっていくといいなと思いますね。
確かにいろいろなものに引かれていったりすることも、もちろんしたいけどなかなかという方ももちろん当然いらっしゃると思いますが、そんな方でも、気軽にできるのがやっぱり観光だと思うんですよね。
特に今、注目されてるのが、外国人観光客。
今、日本にたくさん来てるんです。
例えば、去年、全国で外国人観光客の方が過去最高、数字で言うと1341万人も来ました。
その中で、東北地方に来た方がどれくらいかといいますと、これね、35万4000人、全体でいうと3%なんです。
これ印象としては?
かなり少ないですね。
かなり少ないですよね。
どうにかして、観光客の方に、特に外国人の観光客の方に東北に来てもらうか、その鍵、とっても意外なところにありました。
全世界でひと月に3億人以上が利用する世界最大の旅行者向け口コミサイト。
数々の観光スポットが口コミで紹介されています。
例えば、日本で人気ランキング常連の金閣寺。
被災地で人気ナンバーワンを争う日本三景・松島は…その中で、最近人気急上昇中のスポットがあるんです。
ん…?タシロアイランド?宮城県石巻から船で40分の田代島。
日本人もほとんど知らないこの小島に、今外国人が殺到しています。
いたいたいた!
彼ら心のを癒やすのは…猫!島には人口のおよそ3倍の猫がいて島の人たちと仲よく暮らしています。
餌をあげたり…じゃれ合っているだけで癒されるというのが人気の秘密なんです。
ほかにもこのサイトには外国人が目をつけたスポットがニャンともたくさん!
そしてこちら公道では禁止されているドリフト走行を思いっきり体験できるスポット。
こうした、マイナーでもマニアックなスポットが外国人の心をつかんでいるんです。
そんな外国人観光客を呼び込もうと、今東北の観光業界をあげて一大作戦が始まっています。
この秋、満を持して売り出そうとしているのが…
みちのく潮風トレイル。
三陸の海岸沿いに700キロにわたって整備中。
世界でも指折りのトレッキングコースになります。
という訳で外国人に本当にうけるのか?地元の人の案内でみちのく潮風トレイルの現地調査開始。
今回調査するのは700キロのトレイルの北の区間。
あの「あまちゃん」の舞台となった北三陸です。
すぐ近くには多くの観光客を集める海女センターがあります。
しかし、調査する区間には有名な観光スポットはありません。
ワァオ、豪快な景色!すでにこの絶景に目をつけた外国人がちらほら姿を見せているとか。
意を強くした乗田さん。
外国人の心をくすぐるに違いないという場所へ…。
ん、侍?海に突き出した巨大な一枚岩通称・侍石。
北に落ちのびたと伝わる義経一行も踏みしめたという岩です。
その証拠が、こちら…。
侍の足跡っていうのはどうですか?
みちのく潮風トレイルには外国人にアピールするポイントがほかにもあります。
観光とは一見無縁なローカルなお店。
ここで行っているのはスタンプラリー。
これをきっかけに外国人が求める地元でのふれあいを促すのが狙いです。
今月10日にはみちのく潮風トレイルの新たなサイトがオープン。
トレイル上のスポットに口コミを入れると翻訳機能によって全世界で読めるようになります。
外国人獲得作戦その成否は、いかに?
日本人の観光客という観光という感覚と、外国の方の捉え方がちょっと違うようですよね。
そうですね、目のつけどころ、ちょっと違います。
田代島に関してはすごい行ったんですけど、外国の方、すごい多かったです。
インターネットとか、ああいうサイトがあって、それを見て、行ったときはイギリスの人とか、フランスの人とか、いっぱいいましたね。
だから特殊な方法でちゃんと、リサーチして来るんですよね。
それも石巻のその先の島ですよ。
そうですね。
行ってみたくなるような場所が。
そうですね、私、猫飼ってて、猫大好きなので、そそられました。
外国人の観光客の方に受けるポイントが3つあって、1つは外国の方って、何かをしにいくんですって、見るんじゃなくて。
だからトレッキングをしたりだとか、猫を楽しんだりっていう。
もう1つはオリジナリティー、そこにしかないもの。
そうやって見るとそうですね。
そうです、だから田代島もそうだと思います。
700キロのトレッキングコースって。
なかなかない、なかなかない。
あともう1つ大事なのは、そこに物語、ストーリーがあるということが大事だそうなんですね。
実は、今回、世界最大の口コミサイトのプロの方から、ここももしかしたら、有望なポイントだという場所が、東北地方、見つかりましたので、ちょっとご紹介しますね。
さあ、ちょっと皆さん、これをご覧ください。
この岩にご注目。
ここがすごく、これから、いいポイントになる場所だそうですが。
何というか、どこにどんな魅力が隠されてると思います?実際にこれ、岩手県の広野町にあるものです。
なんだろう?らくだの背中でもないし。
あっ、でもいいかも、ここ。
2つ。
miwaさん、何かに見えてきません?
えー?
いきますよ、答え。
せーの。
じゃん。
これで分かるかな、ここ見てください。
えっ?
結構、時間かかっちゃう。
ほら、横を向いたゴリラ?
えっ?
左のほうをー向いているゴリラ。
あー。
ここを見て。
あっ、やっと分かった。
左側を見てるね、口だ。
あー、はいはい。
実際、これ地元でゴリラ岩といわれているそうなんですが、こうやって想像をかきたてるものっていうのが、外国人の方にとっても受けるんだそう。
ここいいんですって。
一応、情報として受け止めておきますけど。
ちょっとね、もっとさらに衝撃の風景があるんですが。
あるんですか?
なんで外国人の方に受けるか分かります?じゃじゃん。
これも実際に岩手県にある踏切。
それは何かに見えるんですか?これ。
これどういう?
海に?
ドア・トゥ・ヘブン?
近いかも。
想像をかきたててくれる場所。
天国への扉みたいな。
そうなんです。
これ、実際に海に近づくためだけの踏切なんですって。
道路を行くでもなく、どこか町に行くためでもなく、つまり、何か竜宮城のような、すごくいい場所につながっている道のように、ロマンチックにも。
ストーリー、考えられますよね。
そういうことで、ここはぜひ、今後、写真にも撮ったりすれば受けるんじゃないかというプロの方のアドバイスがあったそうです。
ありがとうございます。
違う視点からまた、ふるさとというか、東北の魅力を探す。
住んでると気付かないけど、ほかの人が見てみると。
ある程度、知識が入っていない、子どもたちがよく黒板にチョークの点があると、何に見えるっていうの、大人はチョークだろうって言うけど、子どもはみんな、それは違うとかって、子どもたち、発想するじゃないですか。
データブックと似たところがあって、見方を変えてみたり、しっかり見ていくと、よさがまた新たに見つかってくるというヒントかもしれません。
さあ、ここまでは外国人から見た、東北の知られざる魅力についてお伝えしました。
本当に知られざるだった。
東日本大震災アーカイブスでは震災のニュース映像や被災者の証言をウェブサイトで公開しています。
あの日、列島各地では何が起きていたのか。
当時のニュース映像で振り返ることができます。
緊急地震速報が出ました。
東京の渋谷のスタジオが大きく揺れています。
住宅や畑を飲み込んでいきます。
仙台市の河口付近の…名取川の河口付近の様子です。
あの日、何が起こったのか。
500人を超える貴重な証言を津波、原発事故などテーマごとにご覧いただけます。
東日本大震災アーカイブスは復興支援と、あすの防災のために何ができるのか皆さんと一緒に考えていくウェブサイトです。
生中継でお伝えしています、特集・明日へ。
東日本大震災から4年半、あの日、突然変わってしまった風景に、いまだ心の整理がつかないという方も、多くいらっしゃるというふうに思います。
次は、震災前のふるさとの記憶と向き合うことから、一歩ずつ前に進んでいこうとする人々の姿をご覧ください。
市街地全体のかさ上げ工事が進む岩手県大槌町。
震災で最も被害の大きかった自治体の一つです。
あの日、町の半分の住宅が失われ住民のおよそ1割、1200人以上が犠牲になりました。
教室まで津波が押し寄せた大槌中学校。
生徒の多くは、家を失いました。
かつての学校生活を記録した映像が盛岡で見つかりました。
こんにちは。
中村幸輔さん。
25年前、大槌中の校長を務めていました。
中村さんが大切に保管していた当時の卒業ビデオです。
今は失われた大槌町のかつての姿がビデオには映っていました。
♪〜
身近に海がある大槌町の暮らし。
生徒の家の多くも漁業関係の仕事の家庭でした。
僕たち大槌中学校267名は協力しあい、助け合いながら約13キロの道のりを歩き続けました。
大槌漁港で毎年行われた写生大会。
ここに映っている漁船も埠頭の倉庫も津波で全て流されました。
震災から4年が過ぎみんな、今どうしているのか。
中村さんは生徒たちに呼びかけビデオの上映会を開くことにしました。
ビデオの中でいきいきとした表情を見せる生徒たち。
その中でいちばん目立っていた尾形真也君です。
中学生活を満喫していた尾形君。
この楽しい時間がずっと続けばいいと、将来は先生になる夢を語っていました。
現在40歳になった尾形真也さんです。
夢をかなえ県内の別の町の高校で社会科教師をしています。
大槌の海沿いにあった実家は津波で流されました。
しかし、自分の生徒にはそのことを伝えられずにいます。
1、ここ何入る?司法権な。
自分の人生を決めたふるさとの学校が津波に飲まれたことを尾形さんはまだ受け止めきれず子どもたちにも伝えられないのです。
ビデオ上映会の知らせを受けて震災後、初めて訪ねた母校。
しかし校舎は壊され新しい建物が建築中でした。
災害公営住宅です。
かつての学校の痕跡はどこにもありません。
工事現場からすぐに目を背けた尾形さん。
何か見つけました。
休みの日も仲間と飛び込んだ25メートルプール。
ようやく見つけた学校生活のなごりも当時の記憶とは結びつきません。
学校行事の看板を持って映っていた生徒佐々木ひと美さん。
美術部と生徒会で活躍していました。
結婚して名字が変わり今は3人の子の母親です。
震災前から盛岡で暮らしています。
毎日、公民館で働くひと美さん。
仕事と家事に追われる中でもふるさとのことを思わない日はありません。
両親が住む大槌の実家は津波で半壊。
近くで犠牲になった同級生もいました。
ひと美さんはふるさとを失った現実を今も受け入れられず懐かしい海辺にずっと近付けずにいます。
ビデオ上映会の当日。
卒業後、初めて生徒たちが集まります。
ひと美さんです。
旧姓・佐々木ひと美です。
分かります。
すっかり分かります。
こんにちは。
すごい久しぶり。
教師になる夢をかなえた尾形さんもやってきました。
お久しぶりです。
集まったメンバーの多くが実家を津波で流されていました。
25年ぶりに見る中学時代。
震災前の大槌町です。
当時の記憶が一気によみがえってきました。
ふるさとを失ったことを認めたくなくて子どもたちに伝えられずにきた尾形さん。
思い出の風景に近づくことすらできないままの、ひと美さん。
封印し続けてきた震災前の記憶と映像を通して初めて向き合いました。
♪〜
失ったふるさとから目をそらさず、大槌の魅力を今の子どもたちにも伝えていこう。
上映会を終えた皆の気持ちでした。
♪〜
予想だにしない大きな津波、大きな揺れでね、風景ががらっと変わってしまった。
そこになかなか自分の心を持っていけなかった人たちも、今もう一度、ふるさとに向けて心を向かい合おうとしてるんですが、中村さんは、こういった姿勢はどういうふうにご覧になりますか?
そうですね。
自分もここが田舎じゃないですか、だからやっぱり一枚の絵として、女川の震災前の映像ってあるんですよ。
だけどそれはただ一つの映像じゃなくて、自分が生きてきた歴史だとか思い出とか、そういうのが、その映像の中に全部入ってるんですよね。
だから、それがある日、4年半前にその映像が全くなくなってしまったっていうのは、もう、その町全体が壊れてしまった以上に、以上にっていうか、それも含めて、自分の中の思い出とか、歴史みたいなものも、根こそぎ持っていかれたって感じがしますよね。
miwaさんは今のVTR、どういうふうにご覧になりました?
そうですね。
やっぱり、変わってしまった町っていうのが、失ってしまったっていう、自分の愛する地元を失ってしまったっていう気持ちって、やっぱり去年、東北の子たちと出会ったときも皆さん感じてらっしゃって、私は、女川の町の本を読んで、それが、まげねっちゃっていう本だったんですけど、そこに震災直後の女川の町、本当にがれきでいっぱいになってしまった町とかが写っていて、私はそれを見て、女川の変わってしまった様子を感じていたんですけど、逆に、地元に住んでる子たちは、もうその写真を見ることすらできなくて、この前、先日、女川に来たときに、ちょうどその病院の所から本と同じ風景を見て、ずいぶん変わってよくなってきたんだなっていうのを感じたんですけど、そのときに、あかりちゃんっていうんですけど、あかりちゃんはその写真をすごく久々に見たし、ずっと見れなかったっていうふうにやっぱり言ってました。
それを聞くと、自分で震災というものの揺れとか津波を体験していなくても、思いをはせることはできますか?
そうですね。
でももう、想像以上にもっともっとつらいし、もっともっと深い傷なんだなっていうことも、分かりました。
小野田さんね、今の見てるとふるさとの再生っていうのは、建物が出来た、基盤整備ができたってことだけではない、大きな課題も残ってるような気がするんですけど。
そうですね。
やっぱり、復興したその先が人々の心をつなぎとめる、本当に愛する場所になるかどうか、それが非常に重要だと思いますね。
一方で、復興の仕組みって、ハードの復興の仕組みって、ある意味で非常に合理的でざんこくですのでそこに寄り添いすぎてしまうと本当に味気ないものになってしまう。
そこに心を込めるためにはやっぱりちょっと踏みとどまって、長期的に何が本当に必要なのかというのを議論すること、またそれを、リスクをお互い取り合いながら、実現していくこと、それが本当に大事なことだと思います。
その土地に対する価値観っていろいろあるなって思うんですが、小松さんも実際、ふるさとは仙台だと伺いました。
今こちらのほうで一生懸命働いてらっしゃる。
仙台とこちらの町、一番違うのはなんですか?
そうですね、仙台だと人口100万人以上おりますので、そしたら僕も町に住んで働くということができたんですけど、関わるということはなくてですね、女川だとこちらに来て、住んで働きながら、町の未来に関わっていくということができる。
大きなことかなと思います。
皆さんから復興についてメッセージ頂きましたよね、いろいろね。
千葉、50歳の女性から、女川のお生まれの女性から頂きました。
またこのあともお寄せください。
さあ、生放送でお送りしてきましたが、小野田さんと小松さんには、この時間までということになります。
最後に小野田さん、復興を進めていくために、重要な点、一点。
復興は長期戦ですので、今、正しいと思っていたことが、もしかすると5年後、10年後に間違ってるかもしれない。
なので、やはり常に、5年後、10年後、もしかすると20年後、30年後の目線を持って、復興に当たらなきゃいけないなということを、常々感じております。
3時になりました。
ニュースをお伝えします。
けさ沖縄県の尖閣諸島沖の日本の排他的経済水域で中国海警局の船が、日本側の事前の同意なく調査とみられる活動を行っているのが確認されました。
第11管区海上保安本部によりますときょう午前8時過ぎ尖閣諸島の大正島の北、およそ120キロの日本の排他的経済水域で、中国海警局に所属する海警2146が船の後部から、箱のようなものを海に投げ入れたのを海上保安本部の巡視船が確認しました。
海上保安本部は、この船が日本側の事前の同意なく、何らかの調査を行っているものとみて日本の排他的経済水域内で、同意のない調査活動は認められないと中止を求めました。
船からの応答はなかったということですが7分後に投げ入れていた箱のようなものを海から引き上げたことを巡視船が確認したということです。
尖閣諸島沖で、中国海警局の船による調査とみられる活動が確認されたのは、およそ1年前の去年9月7日以来です。
尖閣諸島沖の日本の排他的経済水域では、先月14日から15日にかけて中国の海洋調査船が、事前に通報していた海域とは異なる海域で調査とみられる活動を行っています。
自衛隊とアメリカ軍のおよそ4000人が参加して、アメリカ西海岸のカリフォルニア州で行われている大規模な上陸訓練は6日目となり、日米の部隊が海岸に上陸する訓練が行われました。
アメリカカリフォルニア州にある海兵隊基地です。
今海岸に自衛隊が上陸してきました。
海兵隊も一緒です。
先月31日に始まった訓練には、自衛隊のおよそ1100人と、アメリカ軍のおよそ3000人が参加していて、5日、日米の部隊が海岸に上陸する訓練が行われました。
海岸には、夜明けとともに沖合に停泊する日米の艦艇を発進したLCACと呼ばれるエアクッション揚陸艇が次々と到着しそのまま砂浜に乗り上げました。
このうち海上自衛隊のLCACからは陸上自衛隊員や、作戦に必要な装備を積み込んだ自衛隊のトラックなどが上陸を開始し一緒に乗っていたアメリカ海兵隊員も自衛隊員とともに上陸しました。
また海岸には、自衛隊が導入を計画しているアメリカ海兵隊の水陸両用車AAV7も海からそのまま砂浜に上陸しました。
自民党の元衆議院議員で、科学技術庁長官を務めた竹内黎一氏が、きのう、青森県弘前市の病院で亡くなりました。
89歳でした。
竹内氏は青森県出身で東京大学を卒業後、毎日新聞の記者や運輸大臣秘書官などを経て昭和38年の衆議院選挙で旧青森2区から立候補して初当選し合わせて10回当選しました。
この間第2次中曽根第1次改造内閣で科学技術庁長官を務めました。
竹内氏は平成8年の衆議院選挙で落選しその後、政界を引退しましたがことし夏に体調を崩し青森県弘前市内の病院に入院していたということで、きのう夕方、多臓器不全のために亡くなりました。
続いて気象情報です。
午後6時から9時までの天気です。
全国的に雨の所が多く近畿から東海は、局地的に雷を伴い非常に激しく降る所があるでしょう。
低い土地の浸水や、土砂災害に警戒が必要です。
生字幕放送でお伝えしています
宮城県女川町、小雨が降り始めました。
その女川町から生中継でお伝えしています。
特集・明日へー支えあおうー震災から4年半未来に向けて。
さあ、ここまでは被災地から将来を見据えた町づくり、そして東北をいかに盛り上げていくかということについて考えていきました。
ここからはそうした被災地に向けて、今、私たちができることはなんなのか、考えていきたいと思います。
ゲストは引き続き、中村雅俊さんとmiwaさんです。
よろしくどうぞお願いします。
よろしくお願いします。
さあ、miwaさん、お待たせいたしました。
早速、こちらをどうぞ、ご覧ください。
ことし7月、岩手県で地元のボランティア団体が主催する野外ロックフェスティバルが開かれました。
乗ってますね。
かわいい。
このイベントに出演したmiwaさん。
東北スクールの方、どうぞ。
ステージに被災地の若者たちを呼び、ある曲を披露しました。
この今、VTRに登場した曲なんですけれども、miwaさんにはこれ、非常に思い入れのある曲でしたよね。
そうですね。
去年、東北の子たち100人と一緒に作った復興への願いと、そして地元への愛にあふれた、希望の環
(WA)という曲です。
この被災した若者たちは、どんな思いで、このmiwaさんたちに思いを託して曲を作っていったのか。
歌に込められた物語、ご覧ください。
去年11月に発表されたmiwaさんの「希望の環
(WA)」。
東北で被災した若者たちの未来に向けた思いが込められた曲です。
miwaさんに曲作りを依頼したのは岩手、宮城、福島の中高生たち。
フランスのパリで開かれるイベントで、東北の復興を世界にアピールしようと100人が集まりました。
みんなで考えたチーム名は、環。
そのチームのテーマ曲をmiwaさんにお願いしたのです。
生徒たちは、それぞれの思いをメッセージにつづりmiwaさんに届けました。
希望を胸に前を向いて生きていく姿を歌にしてほしいと願っていました。
よろしくお願いします。
miwaさんとの面会の日。
生徒の代表がその思いを直接伝えます。
miwaさんに読んで欲しいと本を持ってきた生徒がいました。
読んでみたいなと思っていてありがとうございます。
宮城県女川町で被災した木村朱里さんです。
朱里さんが渡したのは、被災後女川の子どもたちが作った俳句の本。
子どもたちの被災体験や変わってしまったふるさとの風景が刻まれています。
朱里さんの俳句です。
「ただいまと聞きたい声が聞こえない」朱里さんの友達は津波でお姉さんを亡くしました。
「行ってきます」と聞いたのが最後になってしまった悲しみを詠みました。
震災を経験した自分たちが今、伝えられることは何か。
朱里さんは、チームの仲間と話し合いを続けてきました。
震災を経験したからこそ気づいたふるさとへの思い。
朱里さんは、互いに助け合い悲しみを乗り越えようとする人々の勇気を歌で伝えたいと考えました。
生徒たちのあふれんばかりの思いに応えたい。
miwaさんは曲作りを進めました。
miwaさんの創作ノートです。
そこには生徒たちのメッセージに触発された、数多くのフレーズが書き込まれていました。
miwaさんが書き上げた歌。
亡くなった人を思う気持ち誰かを思う優しさが最後には希望へとつながっていく。
そんな世界観が広がっていました。
パリに向かう生徒たちに出来上がったばかりの曲が届けられました。
♪〜
東北が復興する姿を伝えたいとはるばるパリにやってきたmiwaさん生徒たち。
みんなの思いが込められた「希望の環
(WA)」の合唱です。
♪「遠くにいたって」♪「笑って環になろう」♪「希望をいま伝えたい」
さあ、今回はmiwaさんに曲作りを依頼した若い皆さんにも、来ていただきました。
皆さん、こんにちは。
よろしくお願いします。
ようこそお越しくださいました。
みんなもパリで歌ってましたけれども、中村さんはこの歌詞で、どんなところがmiwaさんとつながったな、好きだなって思いますか?大丈夫よ、持つからね。
私は遠くにいたって、笑って環になろうっていう歌詞が一番で好きで、っていうのは、この4月にみんな上京したりして、進学で上京したりするメンバーもいたんですけれども、私は今も地元に残っていて、アメリカに留学したメンバーなんかもいるんですけれども、やっぱこの歌詞を見ると、あっ、miwaさんともメンバーとも、今もつながっているなっていうつながりを感じます。
そうですね。
一番どこの歌詞が一番心にきます?
私は、このチーム名、私たちのチーム名でもある、環っていう。
このTシャツ。
っていうのがすごく好きで、環になろうっていうところが好きなんですけど、なんか、パリで歌ったときに、これで最後かなって思ってたんですけど、今、1年、イベントからたって、今もこうやって、この女川で、東北で歌えているっていうことがすごいうれしいなって思います。
その隣がきむらさんだね。
VTRの中でも涙流されてるシーンがありましたけど、今、あなたにとってこの歌っていうのはどういう存在の歌になってます?
私はこの地元を離れて、東京で大学生で今、学んでるんですけど、なんかすごく、さみしくなったりするときもあって、そういうときとかに聴いて、なんか泣いて、また頑張ろうって思ったり、何か頑張らなくちゃいけないことがあったときに聞いて、なんか背中を押してもらえるような、そんな曲になってます。
miwaさん、そういう感想をお持ちですけども、miwaさんにとってもすごく大切な曲?
そうですね。
もう本当に人と人とのつながりっていうのを、本当に大事にしようって思ったし、みんなのその気持ちをすごく感じて作ることができたので、この曲は私の曲というよりも、みんなの曲、みんなにとっての自分たちの曲なんだっていうそんな曲になったので、すごく特別です。
そうですか。
今回の曲作りを通して、改めてその被災地に対する見方が変わるとか、思いとか、そういう変化はありましたか?
そうですね。
最後のサビの歌詞に、誰かの優しさでこの町は生きてるって歌詞があるんですけど、やはり地元を思うこういう気持ちで、町っていうのは生きてるものなんだっていう、そこに生活があって、変わっていくけど、思う気持ちがあれば、いつもそうやって受け継がれていくものなんだなというのを強く感じて、きょうも歌いたいと思います。
なるほどね。
それだけ大切な歌なんですね、実はこの被災地の若者たちの思いが込もりましたきぼうのわかっ1だぶえーかっ2なんですがきょう、この場で皆さんに歌っていただけるっていうことになってるんです。
歌のほう、準備お願いしますね。
だけどどんな思いをね、もう一回ここで発揮していただきたいです。
楽しみですよね。
準備は大丈夫でしょうか。
それではまいりましょう。
miwaさんと東北の若い皆さんによる希望の環
(WA)です。
♪〜♪〜
皆さん、ありがとうございました。
さあ、特集・明日へー支えあおうー。
続いては、震災から4年半を経て生まれた新たな交流についてお伝えいたします。
新たな交流というと、まさに今の歌もね、そうかもしれませんが。
もちろんそうですね。
実は震災の直後から、被災地にはさまざまな支援が全国から届きました。
今、あのときのお礼をなんとか伝えたいという方が多いそうなんですね。
そうなんですね。
その感謝の気持ちを、支援してくれた人たちに直接届けることにしたんです。
リポーターは宮城で活躍するお笑いコンビ、ストロングスタイルのお2人です。
どうもストロングスタイルです。
よろしくお願いします。
私たちは、今亘理町にやってきております。
宮城県亘理町。
震災で町のおよそ半分が浸水するなど大きな被害を受けました。
向かったのは町の公民館。
ここに感謝を伝えたいという人たちがいるというのですが…。
獅子舞で町おこしを行う団体獅子舞プロジェクトの皆さんです。
去年の夏から活動を始めました。
メンバーは4歳の子どもから70代のお年寄りまで55人です。
目を奪ったのは、立派な獅子頭。
子どもに全然うけなかった。
実はこの獅子頭、ある所から贈られたものなんだそうです。
大分県にある日出町は震災後さまざまな物資を送るなど亘理町に支援をしてくれました。
その中に入っていたのが日出町の職人が作った獅子頭。
それをきっかけにプロジェクトが立ち上がったのです。
プロジェクトの中心メンバー高城勝晃さんです。
沿岸部に住んでいた高城さん。
津波で地区全体が大きな被害を受けました。
かつて、亘理町ではさまざまな祭りが開かれて町を盛り上げていました。
しかし、震災で祭りは途絶えてしまいました。
そんなとき獅子舞プロジェクトのことを知った高城さん。
もう一度、地域を一つにしたいと参加を決めました。
ことし3月には町民に獅子舞が初披露されました。
舞台と観客が一体となる様子に高城さんは手応えを感じました。
作ってくれた人にありがとうを伝えたい。
高城さんは獅子舞のビデオをストロングスタイルに託しました。
亘理町から日出町までおよそ1000キロ。
大分県中部に位置する日出町。
別府湾に面した自然豊かな町です。
獅子頭を贈ってくれた職人の家を訪ねました。
こんにちは、山村さんですか。
山村恭彦さん、78歳です。
長年、宮大工として腕をふるってきた山村さん。
現役を引退した今もお祭りの道具を作っています。
早速獅子舞を見てもらいます。
遠く離れた地で、いきいきと舞う山村さんの獅子頭。
なかなか表現がうまい。
山村さんありがとうございました。
こういうの見ると涙が出る。
山村さんの気持ち、皆さんに伝わってきましたね、ほんとに。
よくできた。
8月亘理町で開かれた夏祭り。
プロジェクトが始まっておよそ1年。
獅子舞はたくさんの人に笑顔を届けています。
今、VTRでご紹介した獅子頭をこちらに持ってきたんですが、この様子を見て、中村雅俊さんがうわー、懐かしいなというふうにおっしゃってました。
いやあ、子どものときにね、正月になると獅子舞が家の中に入ってきて、女川で。
それでこうやって頭をかじって、怖かったんですけど、それでなんかそれで幸せになるみたいなね、そんなことを思ってましたね、子どものときは。
懐かしかったです。
ずっと離れた所の方がね、被災地のことを思って作ってらっしゃった。
すばらしい。
どうですか?こういう獅子舞の。
そうですね、だから本当に届かない思いはないんだなっていうふうに感じますね。
本当そうですね。
こういう支援っていうのは、例えば家が建つとかね、そういった力にはならないかもしれませんけども、そこに暮らす人たちの昔あった文化だったり、そういったものですよね。
それを届ける。
そうですね。
そういうものからたどってって、復興って始まるんですよね、本当はね。
ただ家を建てるとか、道路をつくるってことじゃないですよね。
先ほどのmiwaさんね、子どもたちと一緒に歌を作りましたよね。
あれも実は家を建てるっていう力にならないかもしれないけど、そこの子どもたちの元気さっていう部分では、ものすごい支援になっていますでしょう。
そうですね、こうやって1年たった今でも、また歌う機会があって、またつながれるっていうのは、本当にうれしいことですね。
たぶんこういった獅子舞っていう、地域の文化を繰り返すのはすごくいいことだと思うんですが、実は雅俊さんも、ごめんなさい、雅俊さんって、下の名前を呼んでしまいました。
中村雅俊さんも、新しく出来る、津波のあとの統合される学校を作られた。
そういう面では、地域の文化っていうふうに、思いを。
そうですね。
作らせてもらって、本当に作ってよかったって、しみじみと思うくらい、生徒たち、小学生じゃないですか。
もう、俺の目の前で歌ってくれたんですけど、あれくらい感動したことはなくて。
津波でやられてしまった学校、2つが統合されて。
そのときの曲に込めた思いっていうのは、どういう思いですか。
2つの小学校が統合したんで、ハーモニーができる曲にしようと思ったんです。
2つの声が重なり合ってハーモニーができるっていうか、そういう曲を一応、クオリティーは低いんですけれども、作らせてもらいました。
でもそういった、その支援というのは、今まさに4年半たったときには、必要だなというふうに思いますね。
でもあれですよ、聴いてて、歌の力っていうのは、本当につくづく感じるし、歌ってるほうも、実は聴いてるほうも、実は力をもらえるんですよね。
そうですね。
聴いてるほうだけじゃないんですよ。
さあ、東北だけではなくて、この東日本大震災っていうのは、広い範囲で被害を及ぼしたんですが、各地で大きな被害をもたらしたこの東日本大震災。
続いては、茨城と千葉からのリポートです。
未来に向けて、また新たなつながりが生まれてきます。
ご覧ください。
茨城県大洗町にある人気の食堂です。
40人ほどの女性が店を切り盛りしています。
漁師町のかあちゃんが作る家庭料理と元気な姿を目当てにたくさんのお客がやってきます。
あの日、4メートルを超える津波に襲われた大洗町。
この店も大きな被害を受けました。
しかし、かあちゃんたちは力を合わせ、2か月半で店を再開。
復興のシンボルになりました。
去年11月からアルバイトをしている中国人の杜瑩さん。
大学院で社会心理学を学ぶ留学生です。
店で働くことでかあちゃんたちが短期間で再開できた理由を論文にまとめたいと考えています。
忙しくても笑っているかあちゃんたち。
おしとやかな日本女性の印象が変わりました。
杜さんはノートに記しました。
週末には、1日1000人近いお客がやってきます。
かあちゃんたちは誰に指図されるわけでもなく手を貸し合います。
教えてくれたのは漁師町に伝わる言葉です。
船底のすぐ下は海漁師の仕事は命がけ。
何かあれば、女性たちは総出で助け合ってきたのです。
震災直後には、炊き出しをして港の復旧を応援しました。
自分もかあちゃんたちのように助け合いの精神を持ちたい。
杜さんは、近頃店に差し入れをするようになりました。
かあちゃんたちは、日頃食べ物を持ち寄りおしゃべりをしながら絆を深めます。
かあちゃんたちと働いて10か月。
将来、日本の魚を中国に輸出する仕事がしたいと考えるようになりました。
千葉県旭市です。
震災で14人が亡くなり2人が行方不明になりました。
最も津波の被害が大きかった飯岡地区では堤防を6メートルにかさ上げする工事が進んでいます。
この堤防で新たな取り組みが始まっています。
海側の面に木を植えて造る減災林。
津波の力を弱める役割が期待されています。
苗木が植えられたのは今年3月。
マツや広葉樹など9種類3000本の植樹には地元の子どもたちも参加しました。
減災林づくりには千葉大学園芸学部が協力しています。
塩分を含んだ潮風に耐えて苗木が育つよう土や植え方をアドバイスしました。
今、何より大切なのは定期的な手入れだといいます。
おはようございます。
この夏休み、学生たちは地元の子どもに向けた勉強会を開きました。
植えた木の特徴などを教え減災林づくりに興味を持ってもらおうと考えたのです。
続いて子どもたちが向かったのは、堤防です。
力を合わせて苗木の周りの雑草をとります。
林を育てるためには管理が欠かせないことや10年単位の長い年月がかかることを子どもたちに伝えました。
未来を守る緑の堤防づくり。
若い世代の息の長い活動が始まっています。
ここまで震災から4年半を迎えまして、今、私ができることについて考えてきました。
皆さんからもたくさんのメッセージを頂いていますよね。
そうなんです。
東京の20代の男性からです。
宮城の60代の男性から。
そして千葉の30代の男性。
そして続いては、アメリカから、メールで送っていただきました、10代の男性です。
きょうは私たちは、女川の駅の広場のすぐそばの施設から生放送していますが、列車が通じたということもあって、多くの観光客がいらして、この放送をご覧になっている方もいらっしゃいますけれども、皆さんこれを改めて、この女川にいらっしゃって、復興の様子、自分たちができる若者たちの行動を、私たちも見ました。
どういう感想を今、お持ちですか?
本当にこの番組を通して感じたのが、自分の悩みって本当、何なんだろうと思って、誰かのためだったり、何かのために行動をして、それが自分の幸せだったり、やりがいってなると、本当にそれが幸せなことだなっていうふうに、改めてすごい大事なことに気付くことができました。
中村さんはいかがですか、自分のふるさとが姿を変えて。
4年半たって、なんか風化っていうことばってあるじゃないですか。
それは否めないんですが、やっぱりこの女川に来てみて、やっぱり復興っていうのは、今も続いている話なんで、昔の話じゃなくて、復興っていうのは、かつてあったものが元どおりになるってこともあるけど、やっぱりそこにその人の歴史っていうんですかね、人の息吹きみたいなもの、人間関係の復興とか、心の復興っていうのは、さらにそこにあるっていうのは、すごい長い道のりですごい大変でしょうけど、根気強くやっていくしかないのかなっていうふうに、なんか感じましたね。
私、皆さんと打ち合わせのときにちょっと話をして感じたのは、何回か足を運んでらっしゃって、それで変化をご覧になってるでしょう。
たぶん、そういうのを見ることがこの町の思いがね、強さにつながったりしていくんじゃないかなって僕は感じました。
そういうのもやっぱりあるでしょう。
ああ、こんなに変わったんだとか。
2015/09/06(日) 13:05〜15:44
NHK総合1・神戸
特集 明日へ−支えあおう− 震災から4年半[字]
宮城県のJR女川駅に隣接する交流施設をキーステーションに、震災から4年半が過ぎた被災地の今を生放送でお伝えする。避難指示解除から一夜明けた楢葉町からも中継する。
詳細情報
番組内容
被災地の声や復興への取り組みを紹介している「明日へ−支え合おう−」。今回は時間を拡大し、この春再開したばかりのJR女川駅(宮城県女川町)に隣接する交流施設をキーステーションに、震災から4年半が過ぎた被災地の今を生放送でお伝えする。復興の進む被災地。その先進的な事例から希望につながる知恵を探る。また、避難指示解除から一夜明けた楢葉町からも住民の思いなどを中継する。
出演者
【出演】中村雅俊,miwa,【キャスター】畠山智之,伊東敏恵
ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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