第104回 砂田 実 氏

6. 68歳で倒産「この世のものとは思えないほどしんどかった」

−−ナベプロから独立されて、制作会社を作られますね。

砂田:ええ。かつてのTBSの後輩に仕事を頼みに行くのは何としても嫌だ、どうしたらいいかなと考えていたときに、当時電通がTBSから枠を買い取って制作を丸投げしていたんです。そのキーマンを捜し出して、その人と仲良くなったので、独立してすぐにレギュラー番組が2本あったんです。だから何にも地を這うような苦労をしないで、売上が伸びたんですよ。

−−目の付け所が良かったですね。

砂田:ところが、苦労をして積み上げてきていないのと、経営感覚の全くないディレクター上がりが、しかるべきスタッフも付けずに始めるわけですから、あっと言う間に倒産するんですよ。倒産する前の1年半っていうのは、この世のものとは思えないほどしんどかったですね。KSD事件というのがありまして、KSDというのは中小企業からお金を集めた保険なんですが、その理事長がまた強欲な人でね。2年に1回、東京ドームで大会をやるんですが、これの第一部が、自民党の幹部がずらっといて、第二部がエンターテインメント。これを全部引き受けて3億ですよ。どう使ったって1億残ります。

−−それは使い切れない額ですね(笑)。

砂田:半年前から2000万円ずつ振り込んでくるのでこれはありがたいと思いつつ、こんな仕事をやってちゃいけないなとも思っていました。

−−要するにKSD事件の余波で資金が振り込まれなくなって潰れてしまったわけですね。

砂田:そうですが、それは潰れたきっかけであって、元々は経営能力のないテレビ局上がりが渡辺プロへ行って勉強しようと思ったのが間違いだったんです。渡辺プロみたいな強力なオーナー会社は、普通の経営感覚とは違いました。

−−そうなんですか…。

砂田:だから渡辺プロに行って培ったのは忍耐力だけです(笑)。それでも良い所はありましたけどね。仲間はみんな良かったですし。

 それで結局、一番のきっかけになったのが先ほどお話ししたKSD事件のことで、身の丈に合わないことをやったためにどんどん資金繰りが悪化していきました。それでも、あと半年経てばKSDがあるからこれで繋げると思っていたある日、新聞を読んだら(自民党がらみの金銭問題で)ものの見事に理事長逮捕ですよ。

−− (笑)。

砂田:それで不渡りになったときに弁護士に「砂田さん、一応家を出てください」と言われたので、女房と一緒に慌てて身の回りのものだけまとめて家を出るわけです。それでホテルマンションみたいなところを転々としました。少し落ち着いたあたりで、元田辺エージェンシーの川村(龍夫)さんが私の面倒を見てくれたんです。私が「何でここまでやってくれるの?」って聞いたら、「ブルーコメッツのときにお世話になったのと、砂田さんだけ私に対して普通に接してくれた」と言うんです。

−−その普通というのは?

砂田:あのときの生意気なテレビマンは「おう、川村。タバコ買ってこい」なんて平気で言っていたんです。ところが私だけ「川村さん」と呼んでいたと言うんです。そんなこと当たり前のことじゃないですか。それでも向こうが覚えている。それですごくいい弁護士を紹介してくれて、私のデータを調べて「これは倒産しなくても良かったね」と言われました。でも、私はあの倒産経験がなかったら調子に乗ってもっととんでもない男になっていたと思いますよ。

−−実質何年間ですか? 85年に創業して14年間くらいですか。

砂田:そうですね。制作会社は若い人に譲って別の会社を作ったんです。その会社が倒産しました。

−−それはいつ頃からスタートしたんですか?

砂田:63歳からです。アメリカに会社を作ったり、当時は海外ロケの全盛ですから、そのロケのコーディネートや、アメリカの原盤を東芝EMIへ売り買いする仲介をやったりと、そういう仕事をやっていました。ですから、制作会社は私がヘッドハントした2代目にやらせていたんです。ただその男は非常に真面目で良い奴なんですけど、セールス能力が無かった。だから今は全く霞んじゃいましたけど。

−−倒産してしまった後、その時はすでに68歳、どうやってそこから復活なさったんですか?

砂田:とにかく前に進むしかないと思いました。私のかつての部下が制作会社の社長をやっていて、そいつは社長兼舞台の演出家だったんですよ。私のショクナイの舞台演出にくっついて勉強した奴なんです。自分が演出家で会社にあまり居られないから「砂田さん、社長室使ってください」と言ってくれて、そこの社長室を使って、少しずつ色んな仕事を始めたんです。

 倒産したときは、少なくともそのとき付き合っていた電通とか色んなところには、一切音信不通にしようと思ったんです。そんなときに行くと、愚痴を言いに来たか、下手すると金を借りに来たかとしか向こうに思われないじゃないですか。だから、もう1回這い上がれる可能性があるところまで行けばいいと思って3年は我慢したんです。それで少しずつ、毒にも薬にもならない仕事をやりだして、それで4年目に入ったときに電通に行きましたね。後はハッタリですよ。「まだまだ現役でやってますよ」というと仕事をくれるわけです。それで這い上がって行ったわけですね。

 独立してからはありがたいことに、倒産あがりにもかかわらず、かつての部下がトヨタのイベントをくれたんです。これは国技館でやる1日1億円のイベントでした。トヨタのディーラーを集めて、1年に1回、そのイベントで慰労会をやって、一流ホテルに泊めるという接待をトヨタはずっとやっているんです。それを任してくれました。これでやっぱり利益があがりました。それから色々な発注が来るようになって。

−−持つべきものは友人と後輩ですね。

砂田:そう思います。私はTBS時代、勝手気ままやっていましたから。ただついてくる奴はついてくればいいというのが逆に良かったですね。だから『ザ・ベストテン』をやった山田修爾くんは、本当によくくっついてきてくれて、未だに顔を出してくれます。よくドラマのTBSと言われたけど、音楽のTBSとは言われませんでしたから、ちょっと悔しかったんですけど・・・・その基礎は私が彼と一緒に作ったとは思います。彼は『ザ・ベストテン』を作ったことによって、株を上げましたよね。