第104回 砂田 実 氏

4. 日本レコード大賞創設

−−日本レコード大賞を創設されたときのお話もお伺いしたいのですが。

砂田:あのときは、日本作曲家協会の会長が古賀政男さんで、副会長が服部良一さんだったんですよ。お二人は既にレコード大賞を前年からスタートさせていたんですが、ある日揃って社長の所にみえて、「絶対にいい番組になると思うからTBSでレコード大賞を育ててくれないか」と頼みにいらしたんです。そこで私が社長に呼ばれて、面白そうだなと思って野中(杉二)さんというプロデューサーと一度レコード大賞を見に行くことにしたんです。行ってみたら文京公会堂というあまり大きな会場ではなかったんですが、お客さんが三分の一くらいしか入ってない。ところが作曲家協会が主催しているので当時のスターたちがたくさん出演しているんですよ。それをずっと見ていて「これは絶対にいけるな」と思ったんですね。野中さんはとても紳士的で私みたいに荒っぽくない人だったので、レコード大賞の組織の構築とか裏方をやってもらって、私は表に出て現場をやったわけですね。

 私は基本的に「大衆音楽に評論家はいらない」という考えなんですよ。良き紹介者であってほしいと。評論したって始まらないし、どんなに悪いこと言われても流行れば勝ちだとずっと思っていたので。でも、当時は平井賢さんを頂点として、評論家がグループを組んで、新譜を出すときにレコード会社が歌手を連れて行って彼らを接待したりするんですよ。そういう流れがあったので、レコード大賞をやることになったとき、平井さんたちが自動的に居座ってしまったわけです。そのときにTBSは一切選考には関わらない、運営だけやると決めました。最近はTBSの社員が審査の方に入っているようですが、あれは間違いだと思います。社員が審査に入ったら必ず裏から手を回してくる人が来ますから。社員、特に音楽担当者は芸能政治家になるべきではありません。

−−平井賢さんという方はその前は何をやってらした方なんですか?

砂田:日経新聞の音楽記者です。これが滅法、色とカネに弱い方でね(笑)。日経の音楽記者でいつの間にかドンになっちゃったんです。だからみんなとにかく平井詣になるんですよ。新人とかレコード会社全部が。

−−(笑)。

砂田:そのことを三田完さんという作家が『乾杯屋』という小説で書いていたんですよ。よく調べていますよ。その通りですよ。それで「あのお父さんたちにとっても人生の華なんだろう。そっとしておこうかな」と思ってほっておいたんですけど、色々とよくない影響が出てきてそうもいかなくなってしまったんです。それで「この人を何とか引きずり下ろそう」と思って、色々と画策したんですよ。そうすると必ず御注進というのが行くんですよ。「どうも砂田というのがけしからんことをやっている」という話になってヤクザの親分が来るんです。TBSの下のレストランに呼ばれて、「砂田さん、人を斬るときは骨まで斬らないとあんたやられますよ」と言って帰っていったんです。

−−それは怖い!(笑)。

砂田:「上等だ」と思いましたね(笑)。銀座に山口洋子さんがやられている「姫」という名店があって、五木ひろしを7〜8年やっていたものですから打合せに行くんですよ。あるとき「たまには客になってみよう」と思って1人で行ったんです。そうしたら平井さんが両脇に子分をたずさえて女の子をはべらしているわけです。「おい砂田、ちょっと来い」と言うので「何か御用ですか?」と返すと、相手は立ち上がって「お前この頃生意気なんだよ。ただじゃおかねえ」と言い出した。私はケンカが嫌いじゃない方ですから「生意気なのはそっちの方なんじゃないんですか?」と言ったら掴みかかってきたんです。それで黒服がパッと近寄ってきて「砂田さん、ここじゃ勘弁してください」と言うんでね(笑)、私が店を出て行きました。そんなことがしょっちゅう。

 それで運営委員会の議決で一計を案じ、彼らを運営委員に棚上げしてしまったんですよ。思い出すのはその年のレコード大賞のときに、ディレクターが壇上に登って賞状を歌手に渡す位置決めをやっているんですが、それを見ていた平井さんは、自分の出番がないのが分かって「砂田ーっ! どういうことなんだこれはー!」って大きな声で怒鳴ってきたんですよ。それで「まあ、ちょっと出ましょう」と促して、一通り説明して「運営委員は賞状をお渡しにならなくて結構です」と伝えたら帰って行きました。つまり、壇上でテレビに映って賞状を手渡すことが、その人の華だったんでしょうね。

−−それ以上の恐い思いはなさらなかったんですか?

砂田:それ以上はなかったですね。それで、新聞社と、週刊誌の音楽担当記者と、しっかりとした成果を残している音楽評論家たちだけにしたんですよ。それからは目立つようなものはなくなりました。

−−そこまで影響力があったということですね。

砂田:私も某社長に賄賂を渡されたことがあります。昔、銀座東京ホテルというのがあったんですが、そこへ「今年の歌い手のレコ大の動向をお聞きしたい」と呼ばれて、「そういうことだったらいいかな」と思って行ったんですよ。すると、スイートを取ってあって、そこに社長と宣伝部長と役員がいるわけです。さんざん話をして、最後に画に描いたようなカステラを渡されるわけですよ。まさかと思って家へ帰って開けてみたら300万円入っている。これを返すのが大変でした。

−−(笑)。

砂田:返しに行ったら宣伝部長がうっすら涙を浮かべて「砂田さんが返しにこられて受け取りましたと言ったら私の立場がないです」と。ですが、ああいうのは必ず出した側から情報が出るんです。何も清潔ぶるつもりはなかったんですが、それやっちゃったらもう最後なので、「あなたたちの立場もないかも分からないけれど、受け取っちゃったら私の立場もないんですよ」と丁重にお断りしました。本当は欲しかったけどね(笑)。

−−(笑)。そういった人間関係以外にレコード大賞を始めるにあたって苦労されたことはありますか?

砂田:私はどうしてもこだわりたいことがあったんですよ。まず、もっと広い、ちゃんとした会場でやりたいと思っていました。当時一番良い劇場が帝国劇場だったんですが、菊田一夫さんがお作りになって、我が子のように大事にしていましたので外へ貸し出すなんてとんでもないことだったんです。それでお願いに行ったんですが、可愛いところのあるお父さんで、最後に「どうしても借りたいのー?」なんて聞くんですよ(笑)。結局は貸していただいたんですが、前の日からガードマンが張りついていて凄いんですよ。前日にテレビの機材を置くところから見張り付きだったんです。

 それと、この番組をどうしても12月31日、NHKの紅白の直前にやるべきだと考えたんです。ところがNHKに行ったらとにかく上から目線で、「何だか変なのが来やがった」という感じで、慇懃無礼なんですよ(笑)。「この野郎!」と思ったけれど、こっちが後発ですからね。何回か接待したり色々と頼み込んで、やっと了承を得て、ぴったりくっつけたんです。その代わり、レコード大賞に出ている人の大体は紅白に行きますから、出演者の送りを全部TBS持ちでやったんです、ハイヤーを待たせておいて。途中からだんだん変わっていきましたけどね。

 ところが、数年前にレコード大賞を紅白の前日にしたんですよ。それから視聴率がどんどん落ちちゃったんです。もちろん原因はそれだけじゃないですよ。音楽は多様化していますからしょうがないですけれども、要するに夜7時から紅白終わるまでがお祭りだという現場感覚が放送局の幹部にないんですよ。それが残念でしたね。