第104回 砂田 実 氏
2. TBSへ入社もフジテレビで“ショクナイ”
−−放送局への就職は全然考えていなかったんですか?
砂田:考えてなかったですね。コンプレックスの固まりでしたから。高校時代の同級生に浅利慶太、先日亡くなった林光、日下武史、小林亜星、冨田勲、まだまだいますけど、本当にすごい人たちが集まっていたんですよ。
−−みなさん同級生なんですか?
砂田:そう、同学年です。しょっちゅうみんなで集まっては放課後に喫茶店に行ったりして、当時の若者は理屈っぽいですから、議論ばかりしているんですよ。それでしばらくしたら、浅利に「東大の演劇部と劇団四季というのを作るけど砂田君はどうする?」と聞かれたんですよ。私にはそんな才能ないし、卒業してすぐに結婚することも決まっていたので断ったんです。
半年くらい前に、浅利がそのことについてテレビで話したんですよ。「そういういきさつで劇団四季を立ち上げましたが、ついてこられなかったヤツはテレビディレクターになりました」と言ってね(笑)。そのくせ劇団四季を作ったときに、私の所にしょっちゅう来て、「まだ食えないから、役者をエキストラで使ってくれ」と言うんですよ。冗談半分でしたけどね(笑)。
−−TBSの前に日本テレビに就職されていたんですね。
砂田:ただ、正式な社員ではなくて、アルバイトのような形でした。研修生のときは事務職をやって、その後に制作という流れだったんですが、私は営業に行ったんです。そこではCMを「○月○日○時に無事に放送しました」というスポンサーへの送り状を書く仕事だったんです。2週間くらい経ったら局長に呼ばれて、「アルバイトの女の子よりはるかに悪い。ダメだ、使えない」と言われて(笑)。「まいったな」と思っていたときに制作を見たら、当時、井原高忠さんという有名なディレクターがやっていた『光子の窓』という番組が天下を獲っていてね。井原さんは、寿司を”シースー”とか何でも言葉を逆に言う人で、こんな人の下につきたくないと思っていました(笑)。それで、しばらくしたらTBS(当時 東京ラジオ)が募集しているということで、日本テレビに仁義を切らずにTBSを受けたんですよ。
−−ほう、仁義も切らずに。
砂田:私は高校時代、学生運動をしていたんですね。“血のメーデー事件”ってご存じですか? 全学連(全日本学生自治会総連合)が警官隊とやりあって死者が出るんですよ。その真実を書いたビラを徹夜でガリ版を刷って作って、それぞれの持ち場を決めてビラをまくんですが、私は有楽町の方を任されました。
それで有楽町の駅から街を見たら、各階にバルコニーのある建物があるんですよ。「あのバルコニーの上からお昼休みにばーっとビラを撒いたら、いっぺんになくなるな」と思ってばらまいたんです。その何年後かに同じビルでTBSの入社試験のガイダンスを受けたんですよ。旧 毎日新聞のビル。そういう偶然は面白いですね。
−−それは凄い偶然ですね…TBSに入社されてすぐに制作を担当されたんですか?
砂田: いえ、1年間ラジオの「モニター室」というところに行くんですよ。モニター室に行ってから制作に行くというのが1つのコースでした。このモニター室というのが実にくだらない。当時の毎日新聞は古いビルで、しょっちゅうゴキブリが這っているようなところにモニターがいっぱいあって、一日中放送を聴いているんですよ。そこで音のクリックとか、アナウンサーのミスなんかを記録する仕事なんです。それがシフト制になっているんですが、当時から横着ですから、そんなことを真面目にやるはずがない(笑)。片方でリールを回しておいてFEN(極東放送)ばっかり聴いていたんですが、これが楽しくてね(笑)。そのうちジャズが好きになって。
−−(笑)。
砂田:ときどきアナウンサーがミスをして、そっとドアを開けて「記録しないで!」ってお菓子を持って頼みにくるんですよ。私は「わかりました」なんて調子の良いことを言っていましたね(笑)。
−−その後、制作に移られた当初はどのような番組を担当されたんですか?
砂田:ドラマの方は、NHKからきた岡本愛彦さんなどそうそうたるディレクターが並んでいたので、「音楽だったら色んなことができそうだな」と思って音楽に行ったんです。少なくともテレビを選んだ以上ここで番を張らないと男じゃないなと思っていましたね。
−−ちなみに放送局への就職は今と比べて難しかったんですか?
砂田:そうでもないです。何十倍くらいですね。放送局への就職がすごく人気が出てきた時代があるんですよ。それこそTBSが人気企業ランキングのベストテンに入っている時代は大変でしたね。
とにかくTBSの黎明期は色んな人がいました。経験者がいませんから経営者も色んなところからピックアップしてくるんですよ。あのときは良かったですよ。種種雑多なだけに一人一人が魅力的でしたね。それに、管理体制がちゃんとしてないですから最高でしたね(笑)。
−−砂田さんはショクナイもされていたそうですが、当時は全然問題ない雰囲気だったんですか?
砂田:許されているわけじゃないんですよ(笑)。チクられたら大変です。だけど、チクるヤツでいい番組作るヤツはいないですよ。私は諏訪(博)さんという当時の社長に可愛がってもらっていたんですが、デスクの脇を諏訪さんの秘書が「社長がお呼びですよ」と言いながら通り過ぎていくんですよ。どうしてかというと、正式に呼び出すと局長を通して、ということになるので大ごとになるじゃないですか。それで目立たないように社長室に行くと、「もうちょっと行儀良くやってくれる?」と笑いながら言うんですよ。部屋の真ん中には封筒があって、「これ、なんですか?」と聞いたら私のことが全部書いてあると言うんです。「見ていいですか?」と聞いたら「いいわけないだろ」と答えるんですが、真ん中に置いてあるんだから見ますよね(笑)。それには私がいつどこでどんなショクナイをしたのか、報酬まで書いてあったんですよ。
−−(笑)。社内の密告者たちの詳細なレポートだったんですね。
砂田:そうです(笑)。だけど、そんなに行儀良くやれるわけないですよ。とにかく好奇心で、何でもやったんです。
−−好奇心が一番なんですね。お金というよりも面白いかどうか。
砂田:面白いことですね。とにかく興味津々で、未だにそれは持続しています。
砂田:考えてなかったですね。コンプレックスの固まりでしたから。高校時代の同級生に浅利慶太、先日亡くなった林光、日下武史、小林亜星、冨田勲、まだまだいますけど、本当にすごい人たちが集まっていたんですよ。
−−みなさん同級生なんですか?
砂田:そう、同学年です。しょっちゅうみんなで集まっては放課後に喫茶店に行ったりして、当時の若者は理屈っぽいですから、議論ばかりしているんですよ。それでしばらくしたら、浅利に「東大の演劇部と劇団四季というのを作るけど砂田君はどうする?」と聞かれたんですよ。私にはそんな才能ないし、卒業してすぐに結婚することも決まっていたので断ったんです。
半年くらい前に、浅利がそのことについてテレビで話したんですよ。「そういういきさつで劇団四季を立ち上げましたが、ついてこられなかったヤツはテレビディレクターになりました」と言ってね(笑)。そのくせ劇団四季を作ったときに、私の所にしょっちゅう来て、「まだ食えないから、役者をエキストラで使ってくれ」と言うんですよ。冗談半分でしたけどね(笑)。
−−TBSの前に日本テレビに就職されていたんですね。
砂田:ただ、正式な社員ではなくて、アルバイトのような形でした。研修生のときは事務職をやって、その後に制作という流れだったんですが、私は営業に行ったんです。そこではCMを「○月○日○時に無事に放送しました」というスポンサーへの送り状を書く仕事だったんです。2週間くらい経ったら局長に呼ばれて、「アルバイトの女の子よりはるかに悪い。ダメだ、使えない」と言われて(笑)。「まいったな」と思っていたときに制作を見たら、当時、井原高忠さんという有名なディレクターがやっていた『光子の窓』という番組が天下を獲っていてね。井原さんは、寿司を”シースー”とか何でも言葉を逆に言う人で、こんな人の下につきたくないと思っていました(笑)。それで、しばらくしたらTBS(当時 東京ラジオ)が募集しているということで、日本テレビに仁義を切らずにTBSを受けたんですよ。
−−ほう、仁義も切らずに。
砂田:私は高校時代、学生運動をしていたんですね。“血のメーデー事件”ってご存じですか? 全学連(全日本学生自治会総連合)が警官隊とやりあって死者が出るんですよ。その真実を書いたビラを徹夜でガリ版を刷って作って、それぞれの持ち場を決めてビラをまくんですが、私は有楽町の方を任されました。
それで有楽町の駅から街を見たら、各階にバルコニーのある建物があるんですよ。「あのバルコニーの上からお昼休みにばーっとビラを撒いたら、いっぺんになくなるな」と思ってばらまいたんです。その何年後かに同じビルでTBSの入社試験のガイダンスを受けたんですよ。旧 毎日新聞のビル。そういう偶然は面白いですね。
−−それは凄い偶然ですね…TBSに入社されてすぐに制作を担当されたんですか?
砂田: いえ、1年間ラジオの「モニター室」というところに行くんですよ。モニター室に行ってから制作に行くというのが1つのコースでした。このモニター室というのが実にくだらない。当時の毎日新聞は古いビルで、しょっちゅうゴキブリが這っているようなところにモニターがいっぱいあって、一日中放送を聴いているんですよ。そこで音のクリックとか、アナウンサーのミスなんかを記録する仕事なんです。それがシフト制になっているんですが、当時から横着ですから、そんなことを真面目にやるはずがない(笑)。片方でリールを回しておいてFEN(極東放送)ばっかり聴いていたんですが、これが楽しくてね(笑)。そのうちジャズが好きになって。
−−(笑)。
砂田:ときどきアナウンサーがミスをして、そっとドアを開けて「記録しないで!」ってお菓子を持って頼みにくるんですよ。私は「わかりました」なんて調子の良いことを言っていましたね(笑)。
−−その後、制作に移られた当初はどのような番組を担当されたんですか?
砂田:ドラマの方は、NHKからきた岡本愛彦さんなどそうそうたるディレクターが並んでいたので、「音楽だったら色んなことができそうだな」と思って音楽に行ったんです。少なくともテレビを選んだ以上ここで番を張らないと男じゃないなと思っていましたね。
−−ちなみに放送局への就職は今と比べて難しかったんですか?
砂田:そうでもないです。何十倍くらいですね。放送局への就職がすごく人気が出てきた時代があるんですよ。それこそTBSが人気企業ランキングのベストテンに入っている時代は大変でしたね。
とにかくTBSの黎明期は色んな人がいました。経験者がいませんから経営者も色んなところからピックアップしてくるんですよ。あのときは良かったですよ。種種雑多なだけに一人一人が魅力的でしたね。それに、管理体制がちゃんとしてないですから最高でしたね(笑)。
−−砂田さんはショクナイもされていたそうですが、当時は全然問題ない雰囲気だったんですか?
砂田:許されているわけじゃないんですよ(笑)。チクられたら大変です。だけど、チクるヤツでいい番組作るヤツはいないですよ。私は諏訪(博)さんという当時の社長に可愛がってもらっていたんですが、デスクの脇を諏訪さんの秘書が「社長がお呼びですよ」と言いながら通り過ぎていくんですよ。どうしてかというと、正式に呼び出すと局長を通して、ということになるので大ごとになるじゃないですか。それで目立たないように社長室に行くと、「もうちょっと行儀良くやってくれる?」と笑いながら言うんですよ。部屋の真ん中には封筒があって、「これ、なんですか?」と聞いたら私のことが全部書いてあると言うんです。「見ていいですか?」と聞いたら「いいわけないだろ」と答えるんですが、真ん中に置いてあるんだから見ますよね(笑)。それには私がいつどこでどんなショクナイをしたのか、報酬まで書いてあったんですよ。
−−(笑)。社内の密告者たちの詳細なレポートだったんですね。
砂田:そうです(笑)。だけど、そんなに行儀良くやれるわけないですよ。とにかく好奇心で、何でもやったんです。
−−好奇心が一番なんですね。お金というよりも面白いかどうか。
砂田:面白いことですね。とにかく興味津々で、未だにそれは持続しています。