第104回 砂田 実 氏
テレビディレクター/演出家
今回の「Musicman's RELAY」は音楽プロデューサー 木崎賢治さんからのご紹介で、テレビディレクター / 演出家 砂田実さんのご登場です。慶應義塾大学を卒業後、TBSへ入社。テレビ黎明期より音楽番組を中心に数々の番組を手がけ、「日本レコード大賞」、「歌謡曲ベストテン」の総合プロデューサーも務められました。また、番組制作の傍ら、植木等、桜井センリらが出演したCMを手がけ、ACC金賞も受賞。さらに、ザ・ピーナッツ、森山良子、五木ひろし等のコンサート制作と幅広く活躍。その後、渡辺プロダクション 常務取締役を経て、現在はフリーで番組制作やイベントの演出制作を手がけられています。日本の高度成長期から現在まで、エンタテイメント業界の真っ直中を駆け抜けてきた正に生き証人、砂田さんの波瀾万丈な半生を伺いました。
[2012年3月23日 / 中央区銀座にて]
プロフィール
砂田 実(すなだ・みのる)
テレビディレクター/演出家
1931年10月17日生まれ。1955年に慶應義塾大学を卒業し、1956年にラジオ東京(現 TBS)へ入社。音楽番組を専門にプロデューサー業務を担当する。在籍中に、日本レコード大賞、TBS歌謡曲ベストテン、歌のグランプリ、東京音楽祭の総合プロデューサーを務めた他、CMディレクターとしてACC金賞を受賞。1976年にTBSを退社し、渡辺プロダクションへ入社。常務取締役を務める。1985年の渡辺プロダクション退社後は、フリーで番組制作やイベントのプロデュースを手がける。
著書:『気楽な稼業ときたもんだ』
砂田 実(すなだ・みのる)
テレビディレクター/演出家
1931年10月17日生まれ。1955年に慶應義塾大学を卒業し、1956年にラジオ東京(現 TBS)へ入社。音楽番組を専門にプロデューサー業務を担当する。在籍中に、日本レコード大賞、TBS歌謡曲ベストテン、歌のグランプリ、東京音楽祭の総合プロデューサーを務めた他、CMディレクターとしてACC金賞を受賞。1976年にTBSを退社し、渡辺プロダクションへ入社。常務取締役を務める。1985年の渡辺プロダクション退社後は、フリーで番組制作やイベントのプロデュースを手がける。
著書:『気楽な稼業ときたもんだ』
1. すぎやまこういち、青島幸男、浅利慶太…才能溢れる同級生と過ごした学生時代
−−前回ご出演いただきました木崎さんとのご関係は?
砂田: TBSを辞めた当時、ずっと現場に近いところで仕事をするためには制作会社を作るしかないと思ったんですよ。それで50歳手前になって独立をしようと思っていたときに、渡辺プロダクションの渡辺(晋)さんとソニーの大賀(典雄)さん、それから堤清二さんの3人からそれぞれヘッドハントされたんです。でも、サラリーマン的な感覚がないのでソニーなんて務まるはずはないし、ましてや堤清二はしょっちゅう一緒に遊んでいて、「あまりにもレベルが違いすぎてとても無理だ」と思っていました(笑)。渡辺さんの会社は、サイズも独立するための勉強をするにも丁度いいかなと思って、3年の約束で入ったんです。
超ワンマンの会社は初めての経験だったので、渡辺プロダクションに入って驚きました。全て社長なんですよ。若いアーティストが曲を出すときに、普通だったらしかるべき責任者に任せるじゃないですか? でも、渡辺さんはディレクターが持ってくる詞に注文を付ける。次に曲を聴かせるんですが、渡辺さんって元々ベーシストでしょ。だから、その時間は渡辺さんにとって至福の至福だったんですね。まわりのみんなは渡辺さんが怖いもんだから、ろくに反論しないんですよ。ただ、木崎だけはあの調子で「社長、それは違いますよ」と自分の意見を通すんですね。そういう姿を見ながら「こいつといつか一緒に仕事したいな」とずっと思っていたんです。それでMASAKIというヴァイオリニストのプロデュースを木崎に任せました。やはりこれも人の縁と出会いと言いますか、渡辺プロには他にも魅力的な人が何人かいましたが、木崎が一番魅力的でしたね。今一緒に仕事をしていても気持ちよく仕事ができます。
−−木崎さんは人への思いやりが伝わってくるような方でした。
砂田:子供がそのまま大きくなったような人なんですよね(笑)。才能もありますしね。渡辺プロ時代には、沢田研二、アグネス・チャン、辞めてからもKAN、槇原敬之、BUMP OF CHICKENでしょ? 彼は今64歳ですが、ああいう風に時代を超えて活躍している人は少ないですよね。
−−ここからは砂田さんご自身についてお伺いしたいのですが、東京の青山で生まれ育ったと伺っております。その頃の青山はどんな様子だったんでしょうか?
砂田:その頃はまだ色んな意味で平和というか、良い雰囲気でしたね。青山の青南小学校というところに通っていたんですが、今の青山の面影は全くなくて、大きな家ばかりが立ち並ぶ住宅街でした。その後、戦争で全部焼けたんですが、青山に帰ってきて家を建てた人があまりいないんですよ。家柄はいいんだけど、あまりお金を持っている人がいなかった土地柄ですね。あとは将軍クラスの軍人さんが馬に乗って、馬兵を従えて出勤するんですよ。今でも良く覚えていますけどかっこよくてね。そんな時代です。
−−お父様は何をされていた方なんですか?
砂田:父は東芝の役員をやっていたんですよ。とにかくあの頃の父は、心根はすごく優しいんだけど怖かったですね。そして、東京でも有数のレコードコレクターだったんですよ。壁一面にレコードがあって。
−−学生時代はどのように過ごされたんですか?
砂田:日本が戦争に負けて、疎開先から東京に帰ってきたんですが、家が焼けてしまったので鷺宮に住んでいて、中学1年のときに都立第二十一中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)という学校に入ったんですね。そのときの同級生が青島幸男とすぎやまこういちなんですよ。すぎやまは圧倒的に頭が良くて常にトップで、毎日のように私の家に遊びに来ましてね。レコードを聴いたり、ガールフレンドはいないけど女の子への興味がものすごくある時期だから、「アラビアン・ナイト」という本があったんですけど、当時は肝心な所が伏せ字になっていて、二人で「ここはなんて書いてあるんだろうな」って想像したりね(笑)。何も知らないのに興味だけはあるもんだから。バカなことをやっていましたね(笑)。
−−その年代はみんな同じようなことをやりますよね(笑)。
砂田:ただ、すぎやまはとにかく頭が良かったですね。それで、1年経った頃に、彼は成蹊中学に行くんですよ。私は慶応の中等部がちょうど臨時で募集していたので入って、青島は早稲田の高等学院に進んだんですね。
−−慶応の中等部は当時からそう簡単に入れる学校じゃないですよね?
砂田:今ほどではなかったですね。せいぜい5〜6倍じゃないでしょうか。やはり当時はみんな貧しくて、慶応に入れるのは割と限られた人だったので逆に楽だったのかもしれないですね。早い話、父のおかげだと思います。
−−お父様の力は大きかったと。
砂田:半端じゃなかったですね。とかく私はファザコンでした。父は背も高いし、二枚目だし、頭も良い。それでいて趣味人でしたからね。
−−ご兄弟は?
砂田:弟が一人います。
−−弟さんは砂田さんとは関係ない道に進まれたんですか?
砂田:弟は東芝に入るんですよ。いわゆる長男タイプ、次男タイプってあるじゃないですか? うちはそれが逆で、私はやんちゃで弟はしっかり父のことを考えるようなタイプでしたね。まず父は長男だから東芝に入れと言ったんですが、東芝に全然興味がないので、しょうがなく試験を受けに行くんですよ。当時本社が川崎にありまして、大きな会社で中に貨物列車が引き込み線で入ってくるし、周りは頭良さそうな奴ばかりだし、「こんな所に入りたくないな」と思って、答案用紙を白紙で出したんですよ。
父に怒られたことはほとんどないんですけど、そのときだけはコテンパンに怒られましてね(笑)。それで当時の東芝の社長の所に連れて行かれて謝ったりしました。そんなこともあって、どこに就職するか悩んでいたんですよ。当時もかなりの就職難で、行くところがなくて。丁度そのときにテレビが始まって、日本テレビを受けて入ったんです。
砂田: TBSを辞めた当時、ずっと現場に近いところで仕事をするためには制作会社を作るしかないと思ったんですよ。それで50歳手前になって独立をしようと思っていたときに、渡辺プロダクションの渡辺(晋)さんとソニーの大賀(典雄)さん、それから堤清二さんの3人からそれぞれヘッドハントされたんです。でも、サラリーマン的な感覚がないのでソニーなんて務まるはずはないし、ましてや堤清二はしょっちゅう一緒に遊んでいて、「あまりにもレベルが違いすぎてとても無理だ」と思っていました(笑)。渡辺さんの会社は、サイズも独立するための勉強をするにも丁度いいかなと思って、3年の約束で入ったんです。
超ワンマンの会社は初めての経験だったので、渡辺プロダクションに入って驚きました。全て社長なんですよ。若いアーティストが曲を出すときに、普通だったらしかるべき責任者に任せるじゃないですか? でも、渡辺さんはディレクターが持ってくる詞に注文を付ける。次に曲を聴かせるんですが、渡辺さんって元々ベーシストでしょ。だから、その時間は渡辺さんにとって至福の至福だったんですね。まわりのみんなは渡辺さんが怖いもんだから、ろくに反論しないんですよ。ただ、木崎だけはあの調子で「社長、それは違いますよ」と自分の意見を通すんですね。そういう姿を見ながら「こいつといつか一緒に仕事したいな」とずっと思っていたんです。それでMASAKIというヴァイオリニストのプロデュースを木崎に任せました。やはりこれも人の縁と出会いと言いますか、渡辺プロには他にも魅力的な人が何人かいましたが、木崎が一番魅力的でしたね。今一緒に仕事をしていても気持ちよく仕事ができます。
−−木崎さんは人への思いやりが伝わってくるような方でした。
砂田:子供がそのまま大きくなったような人なんですよね(笑)。才能もありますしね。渡辺プロ時代には、沢田研二、アグネス・チャン、辞めてからもKAN、槇原敬之、BUMP OF CHICKENでしょ? 彼は今64歳ですが、ああいう風に時代を超えて活躍している人は少ないですよね。
−−ここからは砂田さんご自身についてお伺いしたいのですが、東京の青山で生まれ育ったと伺っております。その頃の青山はどんな様子だったんでしょうか?
砂田:その頃はまだ色んな意味で平和というか、良い雰囲気でしたね。青山の青南小学校というところに通っていたんですが、今の青山の面影は全くなくて、大きな家ばかりが立ち並ぶ住宅街でした。その後、戦争で全部焼けたんですが、青山に帰ってきて家を建てた人があまりいないんですよ。家柄はいいんだけど、あまりお金を持っている人がいなかった土地柄ですね。あとは将軍クラスの軍人さんが馬に乗って、馬兵を従えて出勤するんですよ。今でも良く覚えていますけどかっこよくてね。そんな時代です。
−−お父様は何をされていた方なんですか?
砂田:父は東芝の役員をやっていたんですよ。とにかくあの頃の父は、心根はすごく優しいんだけど怖かったですね。そして、東京でも有数のレコードコレクターだったんですよ。壁一面にレコードがあって。
−−学生時代はどのように過ごされたんですか?
砂田:日本が戦争に負けて、疎開先から東京に帰ってきたんですが、家が焼けてしまったので鷺宮に住んでいて、中学1年のときに都立第二十一中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)という学校に入ったんですね。そのときの同級生が青島幸男とすぎやまこういちなんですよ。すぎやまは圧倒的に頭が良くて常にトップで、毎日のように私の家に遊びに来ましてね。レコードを聴いたり、ガールフレンドはいないけど女の子への興味がものすごくある時期だから、「アラビアン・ナイト」という本があったんですけど、当時は肝心な所が伏せ字になっていて、二人で「ここはなんて書いてあるんだろうな」って想像したりね(笑)。何も知らないのに興味だけはあるもんだから。バカなことをやっていましたね(笑)。
−−その年代はみんな同じようなことをやりますよね(笑)。
砂田:ただ、すぎやまはとにかく頭が良かったですね。それで、1年経った頃に、彼は成蹊中学に行くんですよ。私は慶応の中等部がちょうど臨時で募集していたので入って、青島は早稲田の高等学院に進んだんですね。
−−慶応の中等部は当時からそう簡単に入れる学校じゃないですよね?
砂田:今ほどではなかったですね。せいぜい5〜6倍じゃないでしょうか。やはり当時はみんな貧しくて、慶応に入れるのは割と限られた人だったので逆に楽だったのかもしれないですね。早い話、父のおかげだと思います。
−−お父様の力は大きかったと。
砂田:半端じゃなかったですね。とかく私はファザコンでした。父は背も高いし、二枚目だし、頭も良い。それでいて趣味人でしたからね。
−−ご兄弟は?
砂田:弟が一人います。
−−弟さんは砂田さんとは関係ない道に進まれたんですか?
砂田:弟は東芝に入るんですよ。いわゆる長男タイプ、次男タイプってあるじゃないですか? うちはそれが逆で、私はやんちゃで弟はしっかり父のことを考えるようなタイプでしたね。まず父は長男だから東芝に入れと言ったんですが、東芝に全然興味がないので、しょうがなく試験を受けに行くんですよ。当時本社が川崎にありまして、大きな会社で中に貨物列車が引き込み線で入ってくるし、周りは頭良さそうな奴ばかりだし、「こんな所に入りたくないな」と思って、答案用紙を白紙で出したんですよ。
父に怒られたことはほとんどないんですけど、そのときだけはコテンパンに怒られましてね(笑)。それで当時の東芝の社長の所に連れて行かれて謝ったりしました。そんなこともあって、どこに就職するか悩んでいたんですよ。当時もかなりの就職難で、行くところがなくて。丁度そのときにテレビが始まって、日本テレビを受けて入ったんです。
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