第104回 砂田 実 氏
5. 1年間の謹慎後、「ザ・ベストテン」でTBS復帰
砂田:「ザ・ベストテン」は私が管理職になってからなんですよ。だから正式には山田修爾という私の直属の部下がやったんです。実は「ザ・ベストテン」に行く前に、私が飛ばされた時期があるんですよ。鈴木道明さんという方がいまして、彼は超ワンマンなんですね。早稲田大学のボクシング部出身で、すごい体格をしていたんです。これが当時の今道(潤三)さんという名物会長に可愛がられていて、すごい権力者だったんです。
私はショクナイしていたので一番目をつけられていたんですが、知らん顔して延々とやっていたんです。真夏のあるとき、ショクナイでTBSの隣りの国際芸術会館でダンス稽古をやっていたんです。ところがあまりにも暑かったので、オープンリールがオーバーヒートして止まっちゃったんですよ。これじゃあダンスの振り付けもできないので、TBSの中の稽古場だったら冷房がつけられると思って、ADに空いている所を探させて全員そこへ引っ越したんですよ。
−−それはちょっとまずいですよね(笑)。
砂田:まずいですよ(笑)。そこでやっていたら、振り付け師の顔色がふっと変わったんです。そうしたらドアの所に鈴木道明さんが立っているんですよ。
−−ついに現場をおさえられてしまった、と(笑)。
砂田:これはいよいよクビだなと思いましたね(笑)。私はいずれにしても辞めて独立するつもりでしたから、例えば庶務へ飛ばされたら辞めようと思っていました。ですが、私の使い勝手があるうちは飛ばされないだろうとも思っていたんですよね。ところがその日の夕方に会社に行ったら局長を始め管理職が誰もいない。会議室で私をどうするかと会議をしているんです。
−−(笑)。
砂田:呼ばれて会議室に行ったら「明日から出てこなくていい」と言われました。「制作局に籍はあるんですか?」と聞いたら「籍は置いておく」と。しょうがないですよね。確信犯ですから最初からこちらが悪いのは分かっていますしね。それで「会社には来なくていい」と言うわけです。それからというものショクナイ大会ですよ。もう、こっち専門です。
−−むしろ集中できますね(笑)。
砂田:それから1年後に、鈴木道明さんから呼び出しが来ました。これはいよいよどこかに飛ばされるんだと思ったら、ニコニコしているんです。それで「TBSもいよいよベストテン番組を始めることになったから、明日から出てきてお前がやれ」と言われました(笑)。
−−1年間の謹慎を解かれたといっても、堂々とショクナイをされていたので全然謹慎って感じじゃないですね(笑)。
砂田:謹慎するようなら最初からショクナイやらないですよ。あの時代、テレビと同時にCMや勤労者音楽協議会、民主音楽協会の組織団体も花開き、その全てに魅了されました。とにかく好奇心が旺盛で何でもやりましたね。それに、テレビ・サラリーマンの枠に自分を置きたくありませんでした。
面白いのは、丁度そのときに音楽マニアだった父が東芝EMIの設立に関わるんです。そうするとレコード大賞の時期に東芝EMIの宣伝部長が私の所に色々と頼みにくるんですが、そのときが一番嫌でした。
−−(笑)。
砂田:そのうちに、父は滅多に喋らない人なんですけど、新聞読みながら「お前最近TBSの天皇って言われているそうだな。天皇と言われるのは良いけど政治家にはなるな」と言われて、これは良い言葉だなと思いました。そういう粋な親父だったんですね。本格的にTBSに復帰して、部会に出席したときに「僕はもう昔からずっと変わってないけれど、世の中の方は変わりますね」と言ったら、みんな爆笑ですよ。
−−名文句ですね(笑)。
砂田:しかも厚遇で、その「ザ・ベストテン」の前身の番組をやるために1つ部屋をあてがわれるわけです。そこで割と優秀なスタッフを率いて番組を作りました。私が諏訪さんという人に可愛がられていたと言いましたが、諏訪さんは私に「制作なんかにいたら偉くなれないよ。とにかく営業なり編成なりに代われ」と言うんですよ。私は「嫌です。番組を作りたくて入ってきたんですから、事務やるんだったら辞めますよ」と生意気に言いました。それが2回あったんです。3回は有無を言わさず、ですよ。
−−行かされたんですか?
砂田:いきなりネットワーク営業部へ辞令が出たんです。今はもうない部署なんですが、当時は出世コースなんです。それが嫌味な部で、行ってみたら東大と慶応しかいない。幸いなことにそのネットワーク営業局に慶応高校時代の同級生がいて、彼が「昨日諏訪さんが来て、『砂田こっちに連れてくるから頼むぞ』って言って帰っちゃった」と言うんですよ。私は「しょうがない、これは辞めどきだ」と思ったんです。ショクナイばかりしていたので多少遅れをとるだろうと思っていましたが、ろくに仕事ができない人間が部長になって指図されるのは嫌だったので、何とかして部長だけにはなりたいなと思ったんです。実際辞令が出たら部長になれたので、それから半年後に辞めたんですよ。丁度その頃、渡辺晋さんにヘッドハントされて。
−−砂田さんにはそれだけ光るものがあったということですよね。
砂田:私は人より優れていて頭が良いとは思わないですし、たまたま何となく面白いと思ってくださった方がいただけなんじゃないですかね。
−−でも、色んな番組やイベントで実績を残されていますから。
砂田:そうですね。私の直属の部下にギョロなべくん(渡辺正文氏)というのがいて、これがまた極めつけの不良なんですよ(笑)。
−−業界でも有名ですよね。
砂田:すごいんですよ。「サウンド・イン"S"」という洋物の良い番組を作ったんですが、1年遅れで制作に入ってきてメキメキと才能を発揮する。ただこれがまたとにかくカネと女に弱い。
−−(笑)。
砂田:それでも魅力がある奴だったんですよ。私とは仲が良かった。一見あまり仲良くないように装って、1ヶ月に1回ミーティングやるんですよ。私は「人事の奴が今お前のことを洗っているから気をつけろよ」と言って、ギョロなべの方も「編成が色々とお前を…」なんて情報交換をしていました。それからプロダクションの情報交換。どこにどういうタレントが行くとか、社長はどうだとか、そういうのを月に1回やっていたんです。凄かったのは、ギョロなべが海外を、私が国内大会を受け持ち、「東京音楽祭」という大規模な音楽イベントを立ち上げるんですよ。これは普通のサラリーマンじゃできないです。だってフランク・シナトラや、サミー・デイビス・ジュニアを呼ぶんですよ。ヨーロッパからもシャーリー・バッシーとか、スターになりかけた人を集めるわけです。
−−凄いですね。
砂田:私と違って諏訪さんへのヨイショも実に上手い。彼は海外事業を担当していたので、1年に1回、カンヌで開催されるMIDEMという音楽見本市に行くんですよ。私も一緒に行くんですが、私はずっと遊んでいるわけです(笑)。それから、グラミー賞のときも私が行ったってしょうがないのに、会社のお金で一緒に行くんですよ。それで帰りに色々と回ってくるわけです。本当に、今のTBSでは考えられないですよ。最高でしたね(笑)。
−−(笑)。でも、その不良コンビが業績を残したわけですよね。
砂田:そうです。ただ、ギョロなべが可愛そうだったのは、ああいうやり方をしていたので敵が多すぎて、50代で亡くなってしまいました。もう大分前ですね。あのタイブの人はこう言っちゃなんですけど、やっぱり長生きしたら辛いですね。私だって同じなんですけども(笑)。