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第36回 高杉晋作の遺言(9月6日放送)

美和は時世に無関心?


 
今回は第二次幕長戦争が「休戦」した慶応2年(1866)9月ころから、同3年後半までが描かれる。
 前回、番組最後の「花燃ゆ紀行」で、第二次幕長戦争後、情勢が一気に討幕に向かって行った旨のナレーションがあり、なんとなく悪い予感がしていたのだが、的中したようである。そんなに簡単に、幕府は倒れなかったのだ。
 慶応3年(1867)は新将軍の徳川慶喜が奮闘し、オランダ式で幕府軍をリニューアルしたり、長年の懸案だった兵庫開港の勅許を得るなど、幕府権力の強化をどんどん進める。このため薩摩藩などでは、武力による政権交代を考える者が、長州藩の有志と急接近してゆく。こうした動きを察した慶喜は、大政奉還を行う。このままでは、慶喜主導のもとで公議政体へ移行してしまうと、武力討幕派は焦る。
 この間、長州藩からは依然「朝敵」の烙印が消えていない。
 ダイナミックな歴史の大波が次々と押し寄せている頃なのに、ドラマではナレーションですら説明されなかった。好意的に見るならば、主人公の美和がそのような時世の動きに全く関心がないので、わざと描かないということなのか。
 美和にとっては、自ら傳役(もりやく)を務める毛利興丸の野菜嫌いの方が重要であり(このエピソードも創作だが)、目先のことが興味のすべてなのだ。一般人とはそういうものという、作り手の社会観が表れているのかも知れない。



高杉晋作の死


 
結核にかかっていた高杉晋作は、慶応3年4月13日、下関で亡くなった(命日は家督相続が済んでなかったから14日になった)。ドラマでは前々回から咳き込んだり、血を吐いたりしていた。派手に結核菌をばら蒔いている模様だが、美和や妻の雅、一人息子の梅之進などは平然とそばにいる。それどころか高杉は、まだ幼児の息子を膝に抱いたりしている(ちなみに僕はこの息子の孫に、就職の世話をしてもらった。そう思うといささか感慨深い)。作り手たちが、当時は不治とされた結核の恐ろしさを、全く理解していないことだけはよくわかる。
 ドラマの高杉は美和に、久坂玄瑞の「忘れ形見」が京都にいることを知らせ、引き取って育てるよう勧める。それから高杉は、
「新しい日本をつくれ。新しい日本人を……お前なら出来る。お前は立派に生きておる……美和、それが天命じゃ」
 
と、美しくも中身スカスカの台詞を放って死んでゆく。これが、サブタイトルにまでなっている「遺言」らしい。
 1月から僕はこのドラマを、欠かさず拝見させていただいている。それなのに、なぜ、新しい日本をつくるのが美和の天命なのか、高杉という政治運動に奔走した者がなぜ、死に際にそんなことを言い出すのか、さっぱり理解出来なかった。このドラマの主人公・美和は、何を求めて生きているかも、いまひとつ謎なのだが……。
 さらに、現代を映すドラマであると痛感させられる、興味深いシーンがあった。訪ねて来た小田村伊之助(楫取素彦)が、これから戦争をする幕府が大軍である旨を告げるや高杉は、
「勝っております。気合いでは」
 と返答する。論理的なお話しが苦手な登場人物が多いのが、このドラマの特徴のひとつだ。そういう政治家が増えている現代の様相を、肯定しているようにも見受けられる。「絆」や「家族」という言葉が大好きそうな、いかにも「マイルドヤンキー」チックな高杉像で、これは最初から最後までぶれなかった。
 なお、高杉が死んださい、ドラマでは庭の桜の花が散っていた。数年前に観たあるドラマもやはり、桜が散るころに高杉が死ぬという描かれ方をされていたと記憶する。高杉が亡くなったのは前述のとおり4月13日なのだが、それは旧暦であり、新暦ならば5月後半、新緑の季節であることを付記しておく。


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第13回 なりあがり大名

『醇堂叢稿』という史料

 

 旧幕府の旗本大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)が明治半ばに著した『醇堂叢稿』は、江戸の昔を懐かしむと同時に、江戸の社会、とりわけ幕臣の世界の様々な慣習や逸事を記録した貴重な記録である。そこには「自分が記録して後世に伝えなければ、遠からず忘れ去られてしまう」という旧幕臣の危機感と意地が横溢している。

 といっても、醇堂は明治の社会や新政府を痛烈に批判しているわけでも、わが身の不遇をあからさまに嘆いているわけでもない。彼はまるで戯作を綴るように、艶笑咄や駄洒落そして些細な逸話をちりばめながら、幕臣や江戸社会の知られざる裏話を紹介する。

その語り口は論理的でも系統的でもないが、話題の抽出し(ひきだし)は驚くほど多い。大上段に振りかぶった野暮な物言いもなく、粋と言えるかどうかはわからないが、テンポの良い文章は、いかにも江戸っ子らしい。

 問題は、豊富な知識や話題の出所(典拠)である。交友は盛んだったが、オギャアと生まれてから明治30年(1897)に60歳で没するまで、ほとんど江戸を出たことがなかった醇堂の情報源は限られていた。なにしろ京大坂を知らず、55歳にして初めて江ノ島を遊覧したというのだから。

彼の情報源は何だったのか。それは古老から聴いた話(オーラル・ヒストリー)と、子どもの頃から旺盛だったという読書、すなわち書物だった。

なかでも昌平坂学問所に勤務していた数年間に同所の蔵書を貪り読んだ経験は大きい。学問所といっても、昌平坂学問所は幕府の歴史や幕臣の家譜、各種の地誌を編纂する一大編纂所でもあったから、蔵書は豊富で多種多彩。醇堂はここで様々な知識(雑学の知識もふくめて)を得た。

『醇堂叢稿』の内容は多彩で興味深いものばかり。しかし、その典拠がさだかでないものもすくなくない。醇堂が自身の見聞のように書いている話が、実は他人の随筆や幕府の記録に載っている場合もある。どこまでがオリジナルでどこが引用なのか、その境界がいまひとつ判然としないのである。

とはいえ、維新後は蔵書を売り払い、読書録や備忘録を座右に置いていた様子もない醇堂が、にもかかわらず読書や聞書きで得た知識を駆使して『醇堂叢稿』を著したことには感嘆せざるをえない(すごい記憶力だ)。

今回ご紹介するのも、オリジナル(自身の見聞)と引用が混ざり合った絶妙な話である。

 

セレブの「小咄」

 

 前置きが長くなってしまった。小咄のように(あるいは小咄そのものなのかもしれない)面白い話を、意訳でご覧いただこう。

 

  大坂の大富豪、鴻池善右衛門の妻が、ある日、婢僕(下女下男)数人をお供につれて市中を遊覧していたときのことである。道頓堀の橋の上に花児(乞食)が群がっているのを見て、彼女は、侍婢(お付きの女中)に「彼らはいったい何者?」と尋ねた。そして乞食であると教えられると、こう語ったとか。「まあ可哀想な人たち。でもどんなに貧しくても、懐に百両や二百両のお金はあるでしょうね」。

 

 大富豪の奥さまは、乞食も知らなければ、お金の価値もわからないというわけ。農民が困窮してパンも食べられないと聞いて、フランスのさる高貴なご婦人(マリー・アントワネットとも言われるが、事実は不詳)が「パンがなければケーキを食べれば」と語ったという話を思い出した読者も多いのでは。

醇堂がこの話をしたのは、しかし〝超セレブな鴻池の奥方は超世間知らず〟と言いたいためではなかった。彼は続いて、柄にもなく超セレブ妻を気取った女性の失敗談を紹介する。

 

  ある大家(富貴な家)の主人が田舎出の女を妾に抱えた。この妾、江戸で生まれ江戸で育った風を装い、言葉遣いや容姿、身のこなしもそれらしく見えるよう気をつけていた。生粋の江戸の女のふりをしてお高くとまっていたのだ。ある日、婢僕を連れて春の野遊びに出かけた彼女、青々とした麦の穂をながめながら、侍婢に「あの草はなに?」と尋ねた。侍婢が詳しく説明するのを聞いて、思わず「ちょうど青ざしの時期だね」(原文は「丁度青ざし頃だねへ」)。

 

 これはすこし難しい。「青ざし」はまだ黄金色に熟していない青麦から作られるお菓子(青い麦の穂を煎ったのち臼で挽いて糸状にひねったもの)。地方によっては青麦そのものを指すことも。いずれにしろ「今はちょうど青ざしの時期だ」と語った妾は、その一言で、田舎の出身である事実をポロリと明かしてしまったのである。

醇堂は最後に「蔽はむと欲して顕はるゝやかくの如し」とコメントしている。「生まれや育ちは、どんなに隠そうとしても隠しきれない」というのだ。

 頭隠して尻隠さず? それにしてもこの話のどこが「幕臣伝説」と結びつくのだろうか。疑問は、醇堂がこの話を語り聞かせた相手の名を知れば氷解する。

 相手の名は、姫路15万石の藩主酒井雅楽頭忠績(ただしげ)。正真正銘の大名で幕臣ではないが、実は酒井忠績、もとは旗本で酒井仁之助(名は同じく忠績)と称していた。ところが万延元年(186010月に姫路藩主の酒井忠顕(ただてる)が20代で没し、忠顕に跡継ぎがなかったことから、同年12月、分家で旗本の酒井家から急遽新藩主に迎えられたのである。

忠績は醇堂より11歳年長で、姫路藩主になったのは34歳のとき。屋敷も同じ小石川で近かったから(『諸向地面取調書』によれば、酒井仁之助の屋敷は小石川西富坂上で、大谷木家の屋敷は小石川東富坂町)、醇堂が部屋住みの身で、一方の忠績(仁之助)が5000石の火消役と格の違いはあるが、2人が親しく会話をしたとしても不思議はない(『醇堂叢稿』の記述はウソではないという意味)。

 

酒井忠績のため息

 

 それにしても、なぜ醇堂は姫路藩主に田舎出身の妾の話などしたのだろう。それは忠績が醇堂に次のような愚痴をこぼしたからである。意訳ばかりでは信憑性を疑われるので、これは原文(括弧内は氏家による補足)と意訳をとり混ぜて。

 

  ある時(酒井仁之助が)予(醇堂)に語りしは 本家相続は此上もなき冥加の幸福ながら 扨々可笑しくも又堪へがたき難渋の事あり

  【本家を相続して大名になったのは幸運だけど、困ったこともあるんだ。笑っちゃうようなことだけど、とてもつらい】

 

  まづ其一二の小事をいはむに 咽喉乾涸するにより左右に嘱して湯にても茶にても持来れよと命ずるに 左右こたへて 御意甚た差支へ候 御湯御好みに候はゝ御湯と被仰かし 御茶ならは御茶と御取極め有之度 両様ともに御台子にいつもたぎりて何時たりとも御差支は聊無之候と一言の下に 赧顔する事なり

   【たとえば喉が渇いたので側の者に「湯でも茶でも持って参れ」と命じると、こんな答えが返ってきた。「そのようなおっしゃり方は困ります。湯なら湯、茶なら茶とはっきり命じてください。湯も茶も常時茶釜で煮えておりますので、いつでもご用意できます」。ぴしゃりと言われて、赤面してしまったよ】

 

 なぜ赤面したのか。5000石の旗本のときのように湯茶を要求したところ、15万石の大名に相応しくない(貧乏くさい!)と聞き咎められたからである。

もっと大名らしく。そう心がけても旗本時代の習慣は容易に抜けきらなかったようで。

 

 また折にふれ林泉(庭園)を彷徨すへきとおもひて 庭中なる茶室に烟草盆を先達て廻はし置けよかしと命すれは 左右の詞に御煙草盆は御茶屋には予て御備へ付有之候間 廻し候には不申候と答へ 何事も五千石の身上に引宛て事を為すゆへ万事狭小に失して詞を反へされ 存し寄ておくれを取る事のみ也

  【藩邸の庭を散策しようと思って、庭の茶室に煙草盆を用意しておくよう命じたときも、「お命じにならなくても、煙草盆は備え付けられています。わざわざ茶室に運び入れる必要はありません」と言われてしまった。5000石の旗本気分が抜けないため、何事につけても大名らしくなく、言葉を返されてしまう。失敗ばかりさ】

 

 醇堂は「非格の昇進は掩はんと欲する いよいよあらはるゝ所あり」という感想を添えている。

5000石の旗本から15万石の大名へ。しかもただの大大名ではない。姫路藩主酒井家は、幕府の老中や大老を出す名家だった(忠績もその後、老中・大老を務めた)。そんな破格の昇進は、どうしても現在と過去のギャップを露呈させる。それを埋めようとすればするほど、ますます顕著になるというのである。

 思いがけず大名になってしまった旗本のとまどい。今回の話題はいつもにもましてささやかだが、ささやかだからこそ、当時の様子を活き活きと伝えている。大名と旗本の違いをこれほど切実に語る史料を、私は知らない。行間から酒井忠績のため息が聞こえてくる。

<了>



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第35回 孤高の戦い(8月30日放送)

「民」のエネルギー

 

 今回は、いわゆる「第二次幕長戦争」開戦直前の慶応2年(1866)5月ころから、征長軍の本拠小倉城が落ちる同年8月ころまでが描かれる。あまり戦闘シーンの無い戦争ドラマの中に、妻たちの浮気相談のようなコーナーが設けられているという、いささか散漫な印象であった。

 冒頭、開戦を前に、小田村伊之助(楫取素彦)は隣国広島に迫った征長軍本営に、藩主代理として出頭すると名乗り出る。そして藩主の前で「民」が云々と言う。

 ドラマはこれまでも、唐突に「民のために」などという台詞が何度か出て来た。吉田松陰が幕府老中暗殺を企んだのも、小田村が「航海遠略策」に反対したのも、久坂玄瑞が外国船に無差別砲撃を加えたのも、高杉晋作が藩政府打倒の挙兵をしたのも、みな「民」のためだと言っていた。

 長州藩の場合、武士とその家族が占める人口の割合は約1割である(ただし、半分以上は藩政に口出し出来ない下級武士)。

 ところが、かれら「武士」の言動が、どのように残り9割の「民」の生活と連動しているのかは、いまひとつ描かれて来なかった。だからドラマだけでは、ピンと来ないのかも知れないが、幕末長州藩の大きな特徴のひとつに、積極的に「民」を政策に巻き込み、利用したことが挙げられる。

 この時から30年ほど前、長州藩では十数万の百姓が立ち上がるという、「天保の大一揆」が起こり、藩を窮地に立たせた。それだけに、為政者たちかは「民」の持つパワーの強さ、恐ろしさを熟知していた。だから、「民」の力が「外敵」に向くよう、さまざまな工夫をこらした。その象徴とも言うべきが「奇兵隊」であり、士5、農4、その他1割という身分で構成されていた。

 これはドラマにも少し出て来たが、開戦前、長州藩ではこの戦争の大義名分を忠臣蔵などを例にして分かりやすく説明した『長防臣民合議書』と題したパンフレットを36万部(公称)も刷り、全戸に配布したという。庶民にまで戦争の理由を印刷物を使って説明した藩というのも、珍しい。

 そのためか、戦争が始まると少年が年齢を偽って従軍したとか、商家の伜が商売道具を投げ出し、石つぶてを持って参戦したといった「伝説」が残る。もっとも、志願兵だけでは足らず、半ば強制的な兵士集めも行われたようだ(拙著『長州奇兵隊』)。

 「民」のエネルギーが、征長軍撃退の大きな要因だったことは確かである。そして、そのエネルギーは、「明治維新」という大掛かりな政権交代が完了するや、明治2年(1869)終わりに起こる諸隊の「脱隊騒動」などで、呆気なく切り捨てられてしまう。奇兵隊などは百人を越える刑死者を出し、歴史の彼方に消えてゆく。そのような暗く、悲しい現実的な歴史を、今後ドラマはどのように描くのだろうか。

 

高杉晋作の愛人

 

 今回、高杉の妻マサ(雅・政)は萩から戦場となっている下関に夫を訪ねるが、「お妾さん」がいたことを知らされ、大変なショックを受ける。それを、美和が慰める。美和もかつて、久坂が京都で愛人を囲っていたことを知り、ショックを受けたと言う。それから美和の中身スカスカの説得が始まり、高杉は「英雄」になる人だからとの理由で、マサを納得させてしまう。毎度のことだが、わかったようで、よくわからない理屈が通ってしまう。

 もっとも、ずいぶん現代的な「浮気」として描かれていたが、このあたりはドラマだから仕方ないのか。ただ、マサの下関行きについては、モデルとなった次のような史実がある。

 慶応元年(1865)12月、高杉はかねてからの念願叶い、「赤間関(下関)都合役」として正式に下関で勤務することになった。このため翌2年2月、高杉の妻が数えで2つとなる長男梅之進と姑のミチを連れて、下関に出て来る。

 そのころ高杉は、下関で愛人「うの」という芸妓と、よろしくやっていた。それでも、妻子に会えることを、当初は楽しみにしていたらしい。講談小説などでは、妻が夫の浮気現場に乗り込んで来たような描かれ方をされるが、それは違う。おそらく単身赴任が認められておらず、そのためマサは夫の身辺の世話をするため下関に出て来たのだ。

 ところが、マサの出現により何らかのトラブルが起こったようで、高杉は下関に居づらくなった。そこで、藩政府の木戸孝允に頼み込み、長崎出張の藩命を出してもらい、さっさと下関から「脱出」した。長崎からマサにあてた手紙には、

「関(下関)にては甚だ不人情の事ばかり致し、いまさら後悔、危苦千万」

 などと、情けない言葉を並べる。同じ時期に「うの」にあてた手紙には、「あ(わ)れら事もしんぼういたし候間、そなたもしんぼうかんにょう(肝要)にござ候」とか「風(風邪)を引かやうに、やうじん(用心)かんにょう」とか述べている。

 やがてマサらは萩に帰ってしまい、6月になると戦争も始まったから、いろいろとうやむやになってしまったようだ。

 先年逝去された高杉の曾孫はよく、「わが家には晋作に関するとっておきの話のようなものが、何も残っていない」と言っていた。ただ、「うの」の存在につき、

「あれは、敵の目をくらますために連れている」

 と、家族に説明していたという話を聞かせて下さったことがある。そのように、言っていたのであろう。

 なお、ドラマでは美和がマサの相談に乗っている場面から一転。京都で久坂の落とし胤である秀次郎に、その母辰路が話しかけている。どうやら久坂の故郷である萩に乗り込んで来る様子だが、悪意があるのか、善意なのか、なにやらよく分からない奇妙な後味を残す。このあたりの泥々した感情を丁寧に描けば、ドラマとしては面白いのかも知れない。

 


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