美和は時世に無関心?
今回は第二次幕長戦争が「休戦」した慶応2年(1866)9月ころから、同3年後半までが描かれる。
前回、番組最後の「花燃ゆ紀行」で、第二次幕長戦争後、情勢が一気に討幕に向かって行った旨のナレーションがあり、なんとなく悪い予感がしていたのだが、的中したようである。そんなに簡単に、幕府は倒れなかったのだ。
慶応3年(1867)は新将軍の徳川慶喜が奮闘し、オランダ式で幕府軍をリニューアルしたり、長年の懸案だった兵庫開港の勅許を得るなど、幕府権力の強化をどんどん進める。このため薩摩藩などでは、武力による政権交代を考える者が、長州藩の有志と急接近してゆく。こうした動きを察した慶喜は、大政奉還を行う。このままでは、慶喜主導のもとで公議政体へ移行してしまうと、武力討幕派は焦る。
この間、長州藩からは依然「朝敵」の烙印が消えていない。
ダイナミックな歴史の大波が次々と押し寄せている頃なのに、ドラマではナレーションですら説明されなかった。好意的に見るならば、主人公の美和がそのような時世の動きに全く関心がないので、わざと描かないということなのか。
美和にとっては、自ら傳役(もりやく)を務める毛利興丸の野菜嫌いの方が重要であり(このエピソードも創作だが)、目先のことが興味のすべてなのだ。一般人とはそういうものという、作り手の社会観が表れているのかも知れない。
高杉晋作の死
結核にかかっていた高杉晋作は、慶応3年4月13日、下関で亡くなった(命日は家督相続が済んでなかったから14日になった)。ドラマでは前々回から咳き込んだり、血を吐いたりしていた。派手に結核菌をばら蒔いている模様だが、美和や妻の雅、一人息子の梅之進などは平然とそばにいる。それどころか高杉は、まだ幼児の息子を膝に抱いたりしている(ちなみに僕はこの息子の孫に、就職の世話をしてもらった。そう思うといささか感慨深い)。作り手たちが、当時は不治とされた結核の恐ろしさを、全く理解していないことだけはよくわかる。
ドラマの高杉は美和に、久坂玄瑞の「忘れ形見」が京都にいることを知らせ、引き取って育てるよう勧める。それから高杉は、
「新しい日本をつくれ。新しい日本人を……お前なら出来る。お前は立派に生きておる……美和、それが天命じゃ」
と、美しくも中身スカスカの台詞を放って死んでゆく。これが、サブタイトルにまでなっている「遺言」らしい。
1月から僕はこのドラマを、欠かさず拝見させていただいている。それなのに、なぜ、新しい日本をつくるのが美和の天命なのか、高杉という政治運動に奔走した者がなぜ、死に際にそんなことを言い出すのか、さっぱり理解出来なかった。このドラマの主人公・美和は、何を求めて生きているかも、いまひとつ謎なのだが……。
さらに、現代を映すドラマであると痛感させられる、興味深いシーンがあった。訪ねて来た小田村伊之助(楫取素彦)が、これから戦争をする幕府が大軍である旨を告げるや高杉は、
「勝っております。気合いでは」
と返答する。論理的なお話しが苦手な登場人物が多いのが、このドラマの特徴のひとつだ。そういう政治家が増えている現代の様相を、肯定しているようにも見受けられる。「絆」や「家族」という言葉が大好きそうな、いかにも「マイルドヤンキー」チックな高杉像で、これは最初から最後までぶれなかった。
なお、高杉が死んださい、ドラマでは庭の桜の花が散っていた。数年前に観たあるドラマもやはり、桜が散るころに高杉が死ぬという描かれ方をされていたと記憶する。高杉が亡くなったのは前述のとおり4月13日なのだが、それは旧暦であり、新暦ならば5月後半、新緑の季節であることを付記しておく。
>洋泉社歴史総合サイト
歴史REALWEBはこちらから!