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齊藤拓 201202 『現代と哲学』(名古屋哲学研究会)、27号、pp. 60-79. 本稿は立岩・齊藤著『ベーシックインカム:分配する最小国家の可能性』の
「第三部 日本のベーシックインカムをめぐる言説」を補完するとともに「ベーシックインカム(BI)に関する日本での議論」を部
分的に要約するものです。併せてお読みください。
財源論/「労働」側からの異論/労働の権利?/コミュニタリアン/マイノリティ視点――ジェンダー、障害者/グローバルBI/BIの人間観/BI批判/注/参照文献 last update:20120303 日本のベーシックインカムをめぐる言説ver. 2 齊藤拓
筆者が立岩真也との共著『ベーシックインカム』を出した2010年3月以降もベーシックインカ
ム(以下BI)に関する論稿は多数発表されている。それなりに著名な学者や文化人もコメントしている。本稿はそれ以降あるいはそこで漏れていた邦語のBI
に関する論稿を、いくつかのキー・ワードにそって紹介する。なお、本稿は筆者所属、生存学センター(立命館大学先端総合学術研究科)内のウェブページ
「ベーシックインカム(BI)に関する日本での議論」(http://www.arsvi.com/d/bi-jpn.htm)
と相補的なつくりになっている。 財源の詳細な議論よりもまずBIの理念を広めることが重要だと言われることもあるが、BI論議
において財源論はやはり多くの人の関心対象であり、かつ規範的に不可避である。規範的に不可避であるとは、そもそも「BIの理念」なるものがその財源を明
らかにしなければ定まらないからだ。「神は細部に宿る」の言葉どおり、制度設計の詳細によってむしろ理念とはレトロスペクティブに明らかにされるものだと
考えるべきかもしれない。善き意図をもって実行された政策も制度設計次第でその意図を達成できないどころか正反対の結果を伴うことがしばしばあり、スピー
ナムランドを引き合いに出してBI言説もその覆轍をなぞってはいまいかと深慮ぶる向きは少なくない。むしろBIの理念は制度設計によって語るべきなのだ。 BIに対する一連の批判が、若年労働問題を扱うNPO法人の機関紙『POSSE』に寄せられている。そこでの各BI批判者の論旨は概ね一致しており、 BIは貨幣の物神性にとらわれた政策構想であり、貨幣をばら撒くだけのBIは生存を保障しないので、個人の生活・生存を市場の偶然から保護するためにも、 BIではなく基礎的な社会サービス(医療、住居、教育など)を普遍主義原則にしたがって無償で保障する「福祉国家」を目指すべきである、という筋の主張(注2)としてまとめられる(河添誠201004; 錦織史朗20100220; 後藤道夫20100915; 萱野稔人20100915; 錦織史朗20100915)。彼らの主張の主眼は、西欧のBI論議で前提となっ ている硬直的で制度疲労に陥っている「福祉国家」、BIがその欠陥の克服を謳っている「福祉国家」なるものが、そもそも日本ではいまだに実現していないの だ、という点にある。彼らには「福祉国家」の実現こそが左翼の目指すべき途だという固定観念があるため、山森亮(20091030)のような「ベーシックインカムが生活保護よりも現実 的」という立論に、安易な妥協や腰砕け的態度を感じるようである。 ここで左翼的BI論者(私見では小沢修司や山森亮)は、BIは貨幣をばら撒くだけで生存を保障しないという異論に対して、「ベーシックインカムは雇用・ 保険・世帯ありきの社会保障再設計の材料だ」(山森亮20101125) とか、「BIと社会サービス充実の戦略を」(小沢20100915) と弁明し、「BIが社会サービスを解体して現金給付に一本化する「所得一元化」の構想であると誤解・曲解することだけはくれぐれも避けていただきたい」(小沢20080220)としてきた従来の説明を繰り返すことに忙殺された。それ によって彼らは、「新自由主義的BI論」を牽制し、自分たちが「生存の保障」という目的については左翼と共有していることを示すのだが、では結局のとこ ろ、現物給付と現金給付のどちらを強調するかの違いでしかないのか?と問いたくなるだろう。後藤道夫(20100915: 32)の「BIによって現在の所得保障制度の大半を置き換えるというのならば、その置き換えによって新たな困窮者が生じないよう、BIを補足する諸制度と セット にした検討が必要なはずであり、むしろ、そうした検討とその結果の提示こそが、BI論の本論――注記ではなく――をなさなければおかしいのではないか」と の批判は尤もであり、筆者も同意する。「現金給付と現物給付のバランスを見据えた政策」と言われるときのバランス点とはどこであり、どのような手続きに よってきまるのか?ツッコミどころは多い。筆者はこのようなBIと現物給付プログラムの「適切な組み合わせ」論が成功しないことを指摘し、BIは「生存の 保障」という目的のための手段ではない――少なくともそのような政策立論は成功しない――と論じている(齊藤拓近刊)。 ちなみに、日本ではBIを憲法25条の生存権規定と直接結びつけて考える人が多い。一貫して「生存権所得」という呼称を推してきた村岡到氏のような左翼 社会活動家のみならず、経営コンサルタントの波頭亮氏なども「ベイシックインカムの基本理念は、国家による国民の生存権の絶対的保障である」(波頭亮20100610: 111)と理解している。生存権規定をどう解釈するかは戦後憲法学のトピックの一つであり続けたわけで、長年政府(最高裁)見解とされてきたプログラム規 定説にせよ、学会での有力説となっている抽象的権利説にせよ、多くの人々が生存権規定に具体的な制度的・政策的実体を与えることが必要だと考えてきた。そ して生活保護はその制度・政策的な実体化としては大いに不満足なものであり続けていた。そんななかでベーシックインカム論議が盛り上がりを見せたのだか ら、少なからぬ人がBIにあるべき生存権規定の具体化を託したのは無理からぬことだったろう。それがまったく的外れだとは思わないが、漠然とではあるがあ る程度の具体像を伴って日本で口にされている「生存の保証」や「生存権」をBIに託すのは間違いだと思う。この点は齊藤(20110201)で述べたので繰り返さないが、「BIは生存を保証しな い」という判断については、筆者は多くのBI批判者たちと同意見なのである。 労働の権利? 「労働は特別である」とするこのうえなくフランス左翼じみたBI批判が日本でも表明され(萱野稔人20101218)、それを支持する見解もある(松原隆一郎20110110)。この種の主張はBI論壇ではもはや言うことさえ 気恥ずかしいアナクロニズムと見なされているため、BI論者にとっては逆に新鮮であり、BI論壇側の常識を批判的に検討するよい機会にはなるだろう。とは いえ、萱野氏は「働きたくても働けない」個人にとって仕事が持つ主観的価値を強調しているだけであり、それで「ベーシック・インカムをするぐらいなら、そ の財源で政府は公共事業をするべきなのだ」(284)という結論が受容されるわけがない。いまBI論が支持されている所以の、働きたくないのに(あるいは 働く必要などないのに)働かなくてはならない現状がそのままなのだから(注3)。 フランス左翼の間では、BIとは「働く権利」を諦めて「所得への権利」で安直に妥協した、左翼的連帯への裏切り(sell out)でしかないというメンタリティがある。そこから「ベーシック・インカムは人々を労働から解放しようとするが、同時に政府をも労働政策の責任から解 放するのである」(ibid. 272)という論難も生じるのだろう。竹信三恵子 (20100915)も「なぜ「働けない仕組み」を問わないのか」を問い、「働けないことを認めて現金を支給する仕組み」としてのBIでは 「現状肯定、変革の免除の道具」(55)でしかないと難じる。だがこの際、政府の「労働政策の責任」とはどのような内容と水準が要求されるのかが端的に問 題である。持続可能な生活保障の戦略はアクティベーションしかないと主張する宮本太 郎(20100220)にしても、「雇用創出をになうアクターが政府にならざるをえない」という萱野(ibid.: 273)の判断には賛成しないだろう(注4)。資本制下での租税国家を前提とする以上、アクティベーション政策も一人 当たりGDPを増大させる内容と水準のものに限られ、「働きたくても働けない人」の全員が望むような労働を得られるわけではない。萱野が「カネを稼ぐとい うことによってもたらされるアイデンティティ上の効果の点で、仕事には特別の意味があるのだ」(277)と述べる際の仕事で「労働」をする権利というの は、健全なキャッシュ・フローを実現する経済主体(これは営利企業に限らない)に所得源泉を持つ権利であり、それは数が限られるのだ。ヴァン・パリースが 「ジョブ資産」といったのはそういう意味である(詳細は齊藤拓2010)。 GPDに寄与しないにもかかわらず強行される公共事業など「ママゴト労働」そのものである。 ママゴト労働でしかない公共事業を政府に強要するよりも、たとえば、利潤を一義的目標としない民間主体の叢生を促すといった方向性のほうがよほどまとも だろう。この文脈で、井上義朗(20110330)は「J. E. ミードにおけるベーシック・インカム論と協働企業論の相補性」を指摘し、BIには「「職場」を直接創造する機能はない」ので協働企業促進政策によって補完 される必要を説く。そこでは、J.E.ミードが彼の社会的配当論(BI論)を「協働企業論」と一対の問題として捉えていたことを指摘したうえで、本邦で 「ベーシック・インカム論と社会的企業論がいかなる関係になるにせよ、両者が同時期に注目されるようになったことは偶然ではなく、むしろ一種の理論的な相 補的関係がその根底にある」(395)のではないかと推察している。 コミュニタリアン 「ハーバード白熱教室」(NHK)のマイケル・サンデルの影響により、日本でもその政治哲学上の主張がようやくまともに検討されつつある共同体論である が、BIに対してはどのような立場を採るのか? その回答は一様ではありえず、論者によって違うとしかいえない。一口に共同体論と言っても、それぞれの論 者が異なる知的フレームに依拠しており、理論的にも実践的にも多用なアプローチがある。BI論壇でコミュニタリアンとして有名なのはBill Jordanであり、彼の主張はこれまでの邦語BI文献でも手短に紹介されてきた。最近になって、サンデルの翻訳などを手がけてきた菊池理夫(20110415)がジョーダンのBI論を紹介するとともに、サンデ ルやジョーダンの所論から類推されるコミュニタリアンのBIの基本的な考えを要約的に述べている。彼によれば、「……、まずその支給者は「コミュニティ」 であり、その対象者は原則としてそこで暮らす「住民」すべてである」とし、「ベーシック・インカムは「コミュニティ」の「共通資産」として分配され、「コ ミュニティ」のためにその資産を使うべきであり、コミュニティ活動やボランティアが増えることを期待している」(199)とのことだ。菊池は、サンデルの ロールズ「格差原理」批判も、福祉政策一般の否定ではなく、その原理の前提となる「個人主義的」人間観と「情感的」コミュニティ観を否定し、個人の資産は コミュニティの「共通資産」、つまり「共通善」として、「コミュニティ」のために使うべきであるという福祉政策を主張するからなのだと解説している。じっ さい、本邦サンデル研究の第一人者小林正弥(20110720)は、 サンデルへのインタヴューで「“全ての人にまっとうな生活を保障する試みとしてのベーシック・インカムに反対しているわけではなく、福祉の1つの政策だと 考えている”」、「コミュニティや分かち合いやお互いへの責任感に基づく福祉の正当化が重要であり、ベーシック・インカムにはそれらが必要である」、と いった回答を引き出している。 福祉の正当化は個人や権利に基づくのではなくコミュニティに基づくべきだというコミュニタリアン的心性は、あくまでも「全ての人にまっとうな生活を保障 する試み」に主眼を置くのであって、「コミュニタリアンのBI」論なるものは、私から見れば、BIとは呼べないものになることが多い。社会学に依拠する共 同体論者アミタイ・エツィオーニ(20050325)はすべての人へ のベーシックミニマムの提供をうたいつつも「……、現金の支給は、国家が提供する(もしくは民間慈善事業が提供する)包括的施策の中に必ずしも入れる必要 がない」(101)と結論していた。サンデルにしても、コミュニティ機能の向上に資する現物給付を重視するとか、金銭BIについてもそのようなかたちで支 給するとかを求めるはずであり、「コミュニタリアンのBI」はいわゆる「参加所得」的な色彩が強くなると予想される。これは、コミュニタリアン的価値に依 拠して完全雇用社会から「完全従事社会」へと唱える福士正博(20090430)の 所論によく現れている。そこでは、BI論壇で妥協策としてしぶしぶ容認される参加所得が、コミュニティへの貢献は義務ではなくむしろ権利なのだと読み直さ れ、個人のコミュニティ活動への「参加」を担保するとの名目で、非常に肯定的に評価されている。ちなみに、最近になって新川敏光(20110725)がこれら参加所得や完全従事社会論を取り上げ、そ れらが「BIの自由主義的ラディカリズムをコミュニタリアン的世界のなかに回収するもの」であり、以って「BIは既存の福祉国家論のなかに回収されてしま う」(45-6)だろう、と述べている。いずれにせよ、コミュニタリアンが「個人や権利に基づかない」ことを基本姿勢とする以上、このうえなく自由度の高 い財である貨幣を無条件で分配するというBIの基本理念から乖離することは、論理的必然といえる。 マイノリティ視点―― ジェンダー、障害者 英語圏のBI論議においても、フェミニズムやジェンダー平等は一定のスペースが割かれるそれなりに重要な論点とされている。Carole PatemanやCatrina Mckinnon、Alisa Mackayなど、それなりに著名なフェミニスト理論家もBI関連論考を発表しているし、Ingrid Robeynsなど新鋭研究者も輩出されつつある。そのわりに日本の関連文献はこのあたりの紹介が手薄な印象なのだが、田村哲樹(20110706)が「BIは性別分業の解消に資するか否か」という BI論壇長年の論争にひきつけて各論者の所論を紹介している。この論点に関して論者たちは、一言で言えば、「BIだけではダメ」という当り前でおもしろく もない結論で一致している。問題は何を組み合わせるかであるが、フェミニストたちも論者によってそれぞれ異なる目標、異なる理想的家族像を設定するので、 推奨される政策パッケージも異なってくる(フィッツパトリック著『自由と保障』においてもフェミニストが推奨するBIを含んだ政策パッケージは複数示され ている)。 さて、日本に「フェミニストのBI論者」――フェミニズム理論に依拠してBIを語る論者――が存在するかといえば、私見では、堅田香緒里(20091130)はそう言っていいだろう。彼女は、理論的分析と しては、BIがこれからの社会に求められる新たなシティズンシップ概念に基づいた「新たなフェミニスト社会政策の一候補たり得るといえるのではなかろう か」(14)とBIに肯定的な評価をしているが、「むしろそれがジェンダー平等をもたらすかどうかは、その他の育児サービスや諸手当、性差別禁止に関する さまざまな政策との組み合わせによって決まるであろう」(14)と、英語圏の論者たちと同じ判断を述べることは忘れない。この「組み合わせが大事」という 主張は、堅田によれば、BIからジェンダー・ブラインドを取り除いてゆくうえでフェミニストのBI論者たちがとくに強調すべきものとされている(堅田20100210)。 フェミニスト理論に基づくBI論とは別に、女性視点のBI論がある。まとまった論稿というかたちで出てくることは少ないが(中野冬美20100601; 白崎朝子20100601)、BIとジェンダーを冠した講演会や討論会はちょく ちょく催されているらしく、日本ではむしろこちらの方が盛んなのだろう。最近になって『ベーシックインカムとジェンダー』(現代書簡館・1800円)とい う書籍が発売されたが、執筆者の顔ぶれ(白崎朝子;屋嘉比ふみ子;野村史子;堅田香緒里;桐田史恵;佐々木彩;吉岡多佳子;楽ゆう;ミナ汰;瀬山紀子)を 見る限り、「女性視点のBI論」そのものといった印象だ。ここでも、BIが「家父長制が問い直されないまま施行されれば、家族単位=家父長制の強化につな がり、女を家庭に縛りつけDVや児童虐待の被害がより深刻化」するとか、「女たちを分断している婚姻制度の問題がそのまま温存され」るといった危険性が語 られている(注5)。 障害者たちもBIに対してアンビヴァレントだ。水野博達(20100331)の ように、「なんらかの社会的に意味をもった結果をもたらすことを意図した人間の自覚的な行為、あるいは自覚的な意志の発現」としての「労働」を人間の存在 より上位に価値づける「労働第一価値説」から脱却するためにBIを評価することもできるが、野崎泰伸(200706)が指摘するように、スティグマ回避を名目に各人のニー ズを無視するのは明らかに間違いであり、BIではなく生活保護を生のニーズに応えうるものにするほうがよいとする見解もある。2007年に開かれた障害学 会第4回大会での報告をもとにした『障害学研究』のBI特集では、BIを求める運動と障害者団体のかかわりが紹介されたほか(山森亮20090710)、障害者たちが「自分の財布」を持つ所得保障の重要性 が指摘されたり、社会保険方式を原則とし身体機能障害の軽重が主要な支給要件となる現行の障害基礎年金制度が今後も障害者たちに安定した経済生活をもたら すのか、という不安が示されたりした。とはいえ、結論としては、無年金障害者をなくすためにも、より包括的な所得保障としてのBIは検討に値する、という 程度の合意がなされるにとどまっている。 グローバルBI グローバル正義論の文脈で、BIは同胞優先主義(compatriot priority)でしかなく、貧困国の多大な犠牲という現状のうえに裕福な国々の内部だけでより公正な社会が実現するに過ぎない、との批判はよくある。 日本でもベーシックインカムが「血のナショナリズム」に繋がるとの批判があった(濱 口20100101)。少なくとも、先進国の側には国境管理強化の誘因や移民を歓迎しない風潮が生まれ、グローバルな移動の自由に逆行する のではないかと危惧が、BI支持者からも出されている。そこで、理論的には、再分配機構はより規模の大きいことが望ましいということになり、EUレベルや 国連レベルでの無条件所得の提案がなされたりしている。日本ではあまり関心をもたれていないが、このグローバルなBIというテーマにこだわりを見せている のが法政大学の岡野内正教授である。岡野内正(201009)では、 「今日ほどグローバル化が進んでしまった状況のもとでは、一国規模のベーシック・インカムの導入は、地球規模の連携なしでは、決してうまく機能しない し」、「一国規模のベーシック・インカム(もどきというべきか)が、たとえばイスラエルの場合のように、グロテスクなナショ ナリズムに流用される危険性を考えるとき、あくまでも地球人手当の導入を展望するという立場をつかんで離さないことが重要だと考える」(22-3)という 判断のもと、「地球人手当」の呼称でグローバルBIが提唱されている。この呼称は、「地球上の全経済活動を課税対象として、全人類が生活するのに必要な基 本的生活物資(あるいはそれを代表する価値)を徴収し、全人類がそれぞれの居住地で基本的な生活を送ることができるように、実質的に平等な分配を行う」こ とにより、底土権に基づいて徴税権を行使した封建時代の領主階級とのアナロジーで、「地球人手当とともに、全人類が新しい単一の領主階級になる」(24) ことを示唆しているらしい。 世界的貧困(World Poverty)の削減はグローバル正義論の焦眉の課題であるが、岡野内氏もこれに少なからぬ関心を抱いているらしく、岡野内正(20101130)ではこれまでの貧困撲滅策の失敗原因を明らかにし つつ、グローバルBIによって貧困撲滅を図るほうがよいのではないかと訴える。その際、フランクマンの世界的所得再分配構想や「グローバル・ベーシック・ インカム財団」の提案が紹介されるとともに、氏自身の簡単な試算が示されている。 最後に、日本の左翼にも影響力のあるネグリ=ハートが「マルチチュードの要求」としてBIを論じていることはよく知られているが、岡野内(201104)では彼らの主要著書――『帝国』、『マルチチュード』、 『社会主義よ、さようなら』、『コモンウェルス』――でのBIへの論及に着目し、彼らの理論や実践的戦略の中でのBIの位置付けを明らかにしている。実践 戦略として、『マルチチュード』などの記述から、ネグリらが常に現実の労働運動との関連で、移民の権利問題とベーシック・インカムの要求を考えており、 「世界の労働運動が、グローバルなベーシック・インカムを要求すべき」(58)という論理構成になっているとする。とはいえ、最新作の『コモンウェルス』 では、BIは「資本のための改良主義的プログラム」のなかのひとつとして、「生政治的生産に必要な物理的インフラ、社会的-知的インフラの供給」、「あら ゆる統治レベルでの参加デモクラシーの実現」とともに、ほんの少し述べられているにすぎない。このため、斎藤幸平(20091030)のように、「ここには、単にベーシックインカムに よって貨幣という「普遍的媒介」を個人に渡すことでまやかしの「自由」を確保するのではなく、むしろ住居や教育、情報を貨幣から切り離すことで、資本の論 理を制約し、人々がより自由にそして平等に「出会い」や意思決定を行う社会的な場を作り出していくという方向が見出される」とし、「生政治的な生産を保障 するインフラが整備されて初めてベーシックインカムがマルチチュードの生産性の向上へと寄与するのである」(86-7)とする、BIの意義を低く評価する 見解が当然のように出てくる。だが岡野内は、『コモンウェルス』でのネグリらのBI論は、「ベーシック・インカムが資本の利益になるという点を指摘して左 派的な発想の直感の鋭さを救いあげると 同時に、むしろそのようなネオリベラルの一部の資本の利益推進を、現物給付的な社会サービスの充実という要求とセットで、自信をもって後押しすることが、 資本主義システムの転換につながる」という見解を示したものと捉え、「今日の資本主義システムの権力関係のもとでという限定によって、ベーシック・インカ ムの要求の革命的な性格を論証する一貫した分析」(65)と評価する。そのうえで、ネグリらのBI論の難点――とくに価値論の不在とヨーロッパ中心主義 ――を指摘しつつ、自らの「地球人手当」の理論と構想がネグリらの陥っているアポリアを打破する方向性を示唆すると締めくくっている。 BIの人間観 ベーシックインカムはその前提とする人間観が楽観的過ぎはしないかと懸念されることが多い。社会保障法学の著名な理論家で、個人の自律を社会保障関連立 法・政策の統制的理念とすることを持論とする菊池馨実にしても、「こ うした制度[生存に十分なBI]の下でもなお経済社会の持続可能性が図られるものと想定されているとすれば、筆者には、ベーシック・インカム構想で想定さ れている人間像は、……私見が念頭に置く人間像よりよほど「自律」的個人であり、理想主義的人間像であるように思われる」(71-2)とし、経済社会への 「貢献」を強調する。そこから、「所得保障給付を求職活動・職業訓練・公共就労など一定の就労プログラムと関連づけることを否定的に評価すべきではな」 く、「稼働能力があるにもかかわらず確信犯的にフリーライダーをする「サーファーの自由」を認めるべきではない」と結論する(菊池馨実20100324)。 菊池の主張は「経済社会の持続可能性」に焦点化するものであり、そこで想定される経済社会の内容と水準によっては、BIがそれを持続不可能にするという 立法・政策的判断は十分ありうる。これに対して、より素朴な、個人に焦点化した「BIの人間観」批判がある。たとえば、『POSSE』誌上での匿名若手研 究者による鼎談(というより放談)で、BIとは「金を与えて、あとはパチンコやって首くくって死のうがそれは個人の自由、というのが正しい世界だというこ とにもなっちゃう」制度だと批判され、文化左翼にありがちな、「最低限暮らせる金が与えられれば、あとの残った時間でクリエイティブなことをできる奴がた くさん出てきて、面白い社会になるからいいというロジック」に乗っかっているだけだという(匿名A、B、C20100220: 92)。そこから、「ベーシック・インカムが想定するような高い能力を持つ人たちはそもそもベーシック・インカムを必要としないだろう。……ベーシック・ インカムは、 それを必要としない人をモデルにしてみずからの意義を正当化しているのである」(萱野稔人20101218: 275)という批判もでてくる。たしかに、BI支持者の間でそういった文化左翼的主張がされることは多い。90年代にイギリスでSamuel BrittanとSteven WebbはBIが「アーティスト向き」だと仄めかしていたし、堅田香緒里も、BIは各人がアーティストらしい「貧しさ」を保持しつつ生存を確保できるのが よいと書いていたことがあった。じっさい、生存水準のBIというのはこのうえなくアーティスト向けだ。つまり、自分の所得水準がどうであろうと、知であれ 美であれ何かを追求する(ここにボランティアなど社会的有用活動を加えてもよい)生き方を変えない、そういう個人にこのうえなく向いている。ただし、BI はそのような生き方の可能性を示唆しているだけで、各人にそうなることをことさら促すわけではない。 BIの立論において、自律的個人が社会成員のすべてではないにせよ少なくとも社会で優勢であることが想定されているのはたしかだろう。その想定が大幅に 現実と外れているとは思わないし、なにより、上述の匿名研究者たちや、萱野(20101218: 268)のように「ベーシッ ク・インカムによって支給される現金は、いとも簡単に消費者金融や闇金の担保、そしてギャンブルなどの原資につかわれることにな」り「人びとは一律に現金 を支給されることで、より「カネのなる木」として搾取されやすくなる」といったロジックでBIに反対するのは、制度構想に際して各人を潜在的保護監察処分 者として扱っているとしか思えない。たしかに自律できない個人は社会に一定数存在するが、コラムニストの勝谷誠勝氏が「バカ基準」と言っているように、そ ういった個人に合わせて全ての人の自由を制限すべきではない。彼らには別途何らかの支援をすればよいだけのことだ。萱野氏は、BIのラディカルさは「認識 レベルでの短絡さと表裏一体」であり、「社会や、そこで人が生きるということに対する認識が短絡的だからこそ、一見するとラディカルな主張ができるのであ る」(286)というが、彼が当然有しているはずの「短絡的でない」認識なるものは、たんにBIだけでは救えない諸個人が存在する、ということでしかな い。その程度の認識が社会や制度・政策を構想する際の決定的で体系的な指針をもたらすわけではない。もしそんな指針があるというのなら、その「短絡的でな い」社会観・人間観によって得られる社会・制度構想のための指針がどのようなもので、どのようにして獲得できるのか是非提示していただきたい。結局、萱野 氏のBI批判は、BIを「カネだけやって後は放置」という政策構想だと定義していることによる。そしてそういうBI論者――そんなBI論者がいるのかわか らないが――にしか通用しない批判である。 BI批判 BIはまだまだ人口に膾炙していない。その概念の普及にあたって、BIの利点やBIによって可能になるバラ色の社会像を語ることは楽しいだろうが、研究 者としてはむしろ批判のほうに注目したい。とくに、こちらが想定しなかったような批判ならむしろ歓迎すべきものである。邦語でのBI批判は上述の各論点で すでにあらかた取り上げたが、そこで漏れていたものを紹介しておく。橘木俊詔 (20100921)は無条件に支給することへの違和感を述べ、労働意欲の阻害と巨額の税負担を考えれば、現行社会保障制度の充実がより有 効とする。四方理人(20110201)は、BIでは「世帯の共通消 費を考慮せず多人数世帯に過剰に給付を行う一方で、単身高齢女性や家族から一人で自立する障がい者などの貧困に十分対応できるか疑問である」とし、「最低 所得保障における給付のあり方は、共通消費を考慮した最低保障年金など、世帯の 構成や対象者の属性に配慮した水準を考えた制度設計を目指すべきである」(38)と結論する。この二者はともに、「最低所得保障」を政策目的とするのであればBIは有効な政策手段ではないと述 べるものであり、それ自体は正しい指摘である。次に、浦上立志(201105)は、 「少なくとも現時点では、所得・資産課税の再分配機能の低下と社会保険料負担面での分配機能低下と、必要な社会保障政策分野での現物給付局面での自己負担 強化による抑制と施設不足の状態となによりワーキングプアーを生む労働経済政策のゆがみ」に対応することが先決であり、「BIは問題の核心を治療しない、 正すべき問題を棚上げにして、世界の終わりに絶望的状況に追い込まれ兵糧攻めにあった負け戦の対象の兵糧の兵糧食い政策、最期の宴会と評価できるのではな いでしょうか」(23)と辛辣な評価である。西口正文(20110301)は 日本のBI論者の所論には原理的に不可解なところがあるとし、(1) 制度の成り立ちにとって労働義務が不可欠であるはずなのに、労働への社会的圧力の存在が望ましくないという見地から、意識の上で労働義務を潜在化させる方 途を選んでいる、(2)格差を認める論拠は貢献原理であるとしか読めず、であれば産業的事業的に貢献をなすことのない存在者にとっては、その生存権を行使 するための手段の獲得度合いにおいて最低(つまりBIのみ)に置かれることになる、という二点をあげ、BI論者はこのあたりを語る段では「二枚舌という か、 構えがふらついている」(199)としている。 最後に、東大の伊藤誠名誉教授には筆者自身へのコメントも含めて有益な指摘をいただいた。伊藤誠(20110107)は、「日本におけるベーシックインカムの構想をめぐ る議論では、……この構想の先史が点検されるときにも、社会主義の思想と理論の系譜が軽視あるいは無視されやすい(注4)。……、それによって欧米でのこ の構想をめぐる思想と理論の検討にくらべ、学問的にも奥行きを欠き、視野が狭くなっているおそれが危惧されるところである」(119)としたうえで、小沢 修司や田村哲樹がBIは資本主義を前提しているとする点を批判し、筆者(齊藤拓)に対しても「パリースの指摘しているランゲの市場社会主義論におけるベー シックインカム構想への貢献は無視することになっている」(129、注4)と指摘する。正直なところ、筆者はたしかに伊藤が紹介しているランゲやジョン・ ローマーの市場社会主義をあまり評価していない。ハイエクの動態的効率性論やイノベーション促進的市場観の意義を強調した点に表れているように、筆者に は、市場社会主義論は思考実験的にしか使えないあまりに「設計主義的」な構想であると思えるからだ。そもそも、資本主義か社会主義かという生産手段の所有 形態を巡る議論自体がもう意味を失ったと多くの人が思っているだろう。現代では何が生産手段であるかさえ定かではない。あらゆる個人所得に対して最適課税 をし、その税収をBIとして分配する、これが筆者のBI論である。それを資本主義と呼ぶか社会主義と呼ぶか、ノミナルなことでしかない。 注 (2) この筋の主張を近刊予定の論文で検討し反論している。 (3) ちなみに、思想家の東浩紀は、「萱野が懸念するのは要は、BIを口実に、国家が国民の精神的なケアから手を引くこと」であり、「人々が、家族や地域など、 共同体の精神的な機能に絶望し始めているという現実」がBI思想の広がりをもたらしているなか、BIを制度化することが「人々がもはや社会に「包摂」を期 待しなくなり、ドライな富の再配分しか望まなくなってしまうこと」への理念的なお墨付きになると懸念しているのではないかと推察し、萱野のBI批判を評価 しているが(東浩紀20100930)、そこまで深読みしてやる必要はないと思う。 (4) 筆者はアクティベーションとBIの関係について独自の見解を提示する(齊藤拓近刊)。 (5) http://ameblo.jp/fukushiradio/entry-11054008368.html 原田泰(20100921)
「小さな政府直接給付に切り替えれば、非効率な補助金がやめられる(ベーシック・インカムについて考えよう)」、『エコノミスト』、88(53):
84-85. *作成:齊藤拓 UP:20100311 REV:20120303 ◇全文掲載 |