中華人民共和国時期(1949年に成立)

 

1949年10月1日、中華人民共和国が成立した。

 

1951年の平和解放 中華人民共和国の成立後、チベット仏教ゲルクパ(黄教)の2大活仏家系の一つである第10世パンチェン・オルドニ・チュキ・ギェルツェンは毛沢東主席、朱徳総司令官に打電し、中央人民政府を擁護し、チベットの早期解放を希望するという強い願いを示した。1949年11月23日、毛沢東主席、朱徳総司令官は第10世パンチェン・オルドニ・チュキ・ギェルツェンの10月1日の電報に返電を出した。その後、中央人民政府は何度もチベット地方当局に対しチベットを平和的に解放するよう呼びかけると同時に、さまざまなルートを通じて彼らに働きかけた。

 

しかし、チベット地方政府のダザ摂政をかしらとする帝国主義寄りの分離主義勢力は、チャムドと金沙江の西岸に8000人のチベット軍主力と民兵を配置し、武力でチベット平和解放の道をふさごうとした。人民解放軍は10月24日にチャムドを解放した。中国共産党中央と中央人民政府はチベット平和解放の方針を堅持し、チベット地方当局が交渉の代表を北京に派遣するのを待つため、前進を停止するよう解放軍に命令した。同時に、西南軍政委員会と西南軍区は共同でチベット語と漢語で「チベット解放公約十章」を発表した。中央の度重なる働きかけと政策の感化を受け、1951年1月、第14世ダライ・ラマとチベット地方政府は平和交渉をしたいという願いを示した。

 

1951年4月29日、中央人民政府とチベット地方政府の全権代表は北京で交渉を始め、すべての重要な問題について合意に達した後、1951年5月23日、北京中南海の勤政殿で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(17カ条取り決めとも称される)の調印式が厳かに行われた。調印式の後、ダライ・ラマは毛沢東主席に打電し、チベット平和解放の方法に関する取り決めに対し、「チベット地方政府とチベット族の僧侶と俗人は一致して擁護するとともに、毛主席と中央人民政府の指導の下で、人民解放軍のチベット進駐部隊に積極的に協力して国防を強固にし、帝国主義勢力をチベットから追い出し、祖国の領土と主権の統一を保護する」と述べた。パンチェン・オルドニも中央人民政府の毛沢東主席に打電し、「17カ条取り決め」を擁護し、祖国の主権の統一を守る決意を表明した。

 

取り決めに基づき、1951年10月26日、中国人民解放軍チベット進駐部隊は勝利裏にラサに到着し、チベット地方政府の役人および僧侶と俗人2万余人から熱烈な歓迎を受けた。つづいて、人民解放軍のチベット進駐部隊はまた前後してナッチュ、アリ、ザユィ、ギャンズェ、シガズェ、ツォモなど各地の国境警備要所に到着した。これで、チベットは平和に解放された。

 

1954年、ダライ・ラマ、パンチェン・オルドニは一緒に北京に行って中華人民共和国第1期全国人民代表大会に参加した。この会議で、ダライ・ラマは全国人民代表大会常務委員会副委員長に、パンチェン・オルドニは全国人民代表大会常務委員会委員に選ばれた。

 

1959年の民主改革 平和解放後のチベットは依然として過去の制度を保留した。社会の進歩とチベット人民の生活改善のため、チベットで民主改革をやるかどうかは確かに中央政府が非常に関心をもつ問題の一つであった。改革を実行する条件がまだ整っていないため、1957年2月17日、毛沢東主席は最高国務会議で行った「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という報告の中で、チベットに対し「6年間改革を行わない」方針についてはっきり述べた。この方針は実際にはチベット上層部に対するいま一つの譲歩であり、その目的は彼らの中の一部の人が自覚するのを待って、平和的改革を行う目標を実現させることにあった。

 

チベット上層部の反動グループは1959年3月10日に公然と「17カ条取り決め」を破棄して「チベット独立」を宣言し、チベット軍に人民解放軍チベット軍区と中央政府のチベット駐在機関を包囲させ、3月20日の夜明けにこれらの機関に対し全面的攻撃を起こした。中央政府は祖国の統一を守るため、チベット反乱を平定する命令を下し、3月28日にはまた、多数のメンバーが反乱に参加した元チベット地方政府を解散する命令を発し、チベット自治区準備委員会がチベット地方政府の職権を行使すると発表した。チベットは反乱を平定し、改革を行う新たな段階に入った。

 

チベット自治区準備委員会は1959年7月中旬に「民主改革に関する決議」を可決し、反乱を徹底的に平定し、大衆を十分に動員し、全自治区で民主改革を実行することを決定した。民主改革の第一段階は、反乱に反対し、「ウラ(烏拉)労役(農奴が農奴主に無償労役を提供する)制度に反対し、奴隷の酷使に反対し、小作料・利息引き下げ運動を繰り広げた。目覚めた農奴と奴隷は自らの指導機構の農民協会をつくり、自らの権力中心を形成した。その後の数カ月間に、民主改革が行われる広大な地区であまねく農民協会をつくって、小作料・利息引き下げ活動を指導した。

 

政策に基づき、反乱を平定する際、反乱に加わった領主の土地に対しては「耕す者が収穫する」を実行し、反乱に参加しなかった領主とその代理人の土地に対しては、「二八減租」(領主が収穫の二割、小作人が八割をとる)を実行し、1958年以前に三大領主から借りたすべての債務は帳消しにし、1959年に反乱に参加しなかった領主から借りた債務に対しては、その利息を月1%に引き下げた。「二八減租」と旧債務帳消しは大きな成果をあげ、1959年から1960年の民主改革が基本的に終わった時までの統計によると、全自治区の高利貸の帳消し金額は食糧に換算すると約40余万トンに達した。こうして、農奴を束縛していた重いカセが根本から取り除かれた。

 

1959年9月中下旬に開かれた自治区準備委員会第3回全体会議は、「封建農奴主の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実行する決議」を可決し、百万の農奴の正義の要求を満たし、封建農奴主の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実行することを決定した。

 

農業地区の土地改革は大体1959年の冬から1960年の春にかけて行われた。まずは政策に基づき、反乱に加わった農奴主とその代理人の土地とその他の生産手段を没収し、反乱に参加しなかった農奴主とその代理人の余分な土地、家畜(農村に限られる)、家屋と農具に対しては、買い上げを実行した。1960年末の全自治区が土地改革を基本的に完成した時の統計によると、農奴と奴隷に分け与えた土地は約18万6000ヘクタール、一人当たりは0.23ヘクタールに達した。

 

政策に基づいて、反乱に参加しなかった農奴主とその代理人の余分な土地、家畜、家屋と農具に対しては買い上げを実行し、買い上げた耕地は6万余ヘクタール、家畜は82万頭、農具は2万点、家屋は6万4200棟に達した。これらのものはすべて中等の時価で値踏みし、政府が8ないし13年内に買上げ金を払った。1961年9月までに、全自治区は2000余戸に買い上げ証明書を発給し、第1期の買上げ金を支払った。反乱に参加しなかった愛国進歩人士に対しては、それぞれ適切な仕事を与え、その中には自治区準備委員会の指導的職務を担当する人もいた。

 

1961年年末、民主改革の基本的任務が達成された。民主改革は立ち遅れた反動的封建農奴制を徹底的に覆し、百万の農奴を農奴主の束縛と抑圧から解放し、再び人となる権利を獲得させ、チベットの広範な人民の人権状況を根本から改め、チベット社会の発展のために道を切り開いた。

 

1965年のチベット自治区の成立 チベットは憲法に基づいて民族区域自治を実行し、国は法によって、チベットの各民族の人々が平等に国家と地方の事務管理に参与する政治的権利、特にチベット族の人々が自主的に所在地区と自民族の事務を管理する自治的権利を保障している。これらの権利は政治、経済、文化と社会発展の各方面に及んでいる。チベットの具体的な歴史的状況に基づき、政治、経済、宗教、文化およびその他各面の要素を考慮に入れて、民族区域自治を実行する時、国内のその他の民族地区と異なる特殊で弾力的な方法がとられた。

 

1955年3月9日、周恩来総理は自ら国務院第7回拡大会議を主宰して、「チベット自治区準備委員会成立に関する決定」を審議、可決した。同「決定」は「チベット自治区準備委員会はチベット自治区の成立を準備する政権の性質をもつ機関であり、国務院の指導を受ける。その主な任務は中国の憲法の規定およびチベット平和解放の方法に関する取り決めとチベットの具体的な状況に基づき、チベットで区域自治を実行する準備を進めることにある」と指摘している。国務院はまた、ダライ・ラマを同準備委員会の主任委員、パンチェン・オルドニを第1副主任委員、張国華を第2副主任委員に任命することを決定した。

 

1956年4月22日、チベット自治区準備委員会成立大会は落成したばかりのラサ大講堂で盛大に開かれ、ダライ・ラマはチベット自治区準備委員会の主任委員に就任した。

 

1959年、チベットは反乱を平定し、民主改革を行う中で、封建農奴制度を廃止し、百万の農奴と奴隷は解放され、農奴主の個人財産として売買、交換されたり、債務の弁済に当てられたり、農奴主に強制的に働かされたりすることがなくなり、人身の自由を獲得して社会の主人公となった。各クラスの地方人民政権が樹立された。チベットの実状から出発して、1959年7月、自治区準備委員会は「チベット地方の各県・区・郷農民協会の組織規約」を可決し、区、郷二クラスの農民協会が末端政権の職権を代行することを定めた。1960年4月までに、上記の7専員公署、1市および72県の人民政府が残らず樹立され、また20の区人民政府と300の郷人民政府も樹立された。

 

1962年3月、準備委員会は「全自治区で末端選挙活動を展開することに関する指示(草案)」を公布した。1965年7月と8月には、全自治区の郷、県の選挙活動が基本的に終わり、1359の郷、鎮で末端選挙が行われ、ほかに567の郷、鎮では人民代表大会の職権を代行する人民代表会議が開かれた。この二つの数字はチベット全自治区の郷、鎮総数の92%を占め、貧しい農奴と奴隷が圧倒的多数を占める末端の人民政権が樹立された。全自治区では54の県が第1回人民代表会議を開き、県長と副県長を選出し、県人民委員会を成立させた。同時に自治区人民代表大会に出席する301人の代表を選出した。

 

これを踏まえて、中央政府の認可を得て、チベット自治区第1期人民代表大会第1回会議は1965年9月1日から9日までラサで厳かに開かれ、チベット自治区が正式に成立し、アペイ・アワンジンメイ氏が自治区初代主席に就任した。

 

 

 

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