別冊正論「総復習『日韓併合』」より

豊田有恒(作家)

一事が万事「日本人=悪」


 先年なくなった萩焼の名匠、十二世坂(さか)高麗左衛門(こうらいざえもん)さんから、うかがった話である。坂家は、萩藩毛利家の官窯である萩焼の宗家で、かつて豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、日本へ渡った陶工の子孫である。この出兵は、しばしば陶磁器戦争とも呼ばれる。

 薩摩の沈(シム)寿官(スグアン)、伊万里の李(イ)参平(チャムピョン)など、攫(さら)われてきた陶工が少なくない。坂氏も、こうした陶工の子孫にあたり、代々にわたって、高麗左衛門を襲名している。高麗という名乗りからも判るように、朝鮮半島の出自を隠そうとしなかったが、そのことにより、名声や地位が損なわれることはなかった。日本が、外来文化に寛容な社会だからである。

 ある時、KBS(韓国国営放送)が、取材に坂家を訪れた。記者は、のっけから、こう切り出した。

 「日本では、ずいぶん、ご苦労なさったのでしょうね?」

 坂氏は、こう答えられたという。

 「冗談ではない。わたしは、日本人ですよ」

 KBSの記者は、朝鮮の役で連行された陶工たちが、日本人に虐待されたと、思い込んでいるのである。手仕事を賤しむ朝鮮と異なり、日本では手に職を持つ人は尊ばれる。坂家は、代々、藩侯から士分(しぶん)として苗字帯刀を許され、テクノクラートとして優遇されてきたのである。記者が、十二代を経た坂家の当主を、いまだに韓国人であるかのように錯覚し、誤解、偏見、思い込みに捕らわれているため、インタビューは、いっこうに噛みあわなかったという。

 秀吉の役は、たしかに日韓間の悲劇のひとつだが、文化というものは、一方的に伝播するわけではない。このころ、日本から、唐辛子が、朝鮮半島に伝えられる。唐辛子は、朝鮮では、初め倭(ウェ)芥子(キョジャ)と呼ばれた。文字通り、日本の芥子である。

 韓国人は、しばしば、日本文化は、すべて韓国起源だと妄言を弄する。妄想が昂じて、剣道も韓国起源だと言い出す始末である。その伝でいえば、世界遺産のキムチは、日本人が教えたと言えるかもしれない。こっちは、妄言ではなく、それなりに根拠のある話だからである。

 韓国人の日本観は、一事が万事、こうした日本人=悪という史観から、捏造されたものである。かつて、1970年代の初頭から、繰り返し訪韓したが、当時、日帝(イルジェ)時代(シデー)などと呼ぶ人は、ひとりもいなかった。まれに植民地(シンミンチ)時代(シデー)と呼ぶ人が、いないわけではなかったが、ふつうの韓国人は、日本(イルボン)統治(トンチ)時代(シデー)と呼んで、むしろ懐かしんでくれた。

 グレゴリー・ヘンダーソンをはじめ、多くの欧米の歴史家が、朝鮮の近代化は、日本統治によって、もたらされた事実を、例証している。日本は、朝鮮を併合したのであって、決して植民地として搾取したわけではない。日本教育を受けた世代は、こうした史実を知っていたから、一方的な日本非難には与(くみ)しなかった。

無知・無経験の李承晩が戦後始動


 日本統治が終焉した1945年8月15日は、韓国では光復節(クヮンボクチョル)として祝日になっているが、そのとき待ち受けていたのは、途方もない無秩序(anomie)状態でしかなかった。

 アメリカに亡命していた李(イー)承晩(スンマン)が、アメリカ人の夫人を伴い帰国し、初代大統領となったものの、日本統治時代を体験していないから、朝鮮の実情に無知であり、また実務の経験もなく、ひたすら日本を敵視し、反日教育を行ない、日本漁船を拿捕するなどしただけで、国内的にも失政を重ねるばかりだった。

初代韓国大統領李承晩
初代韓国大統領李承晩
 朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三国に分かれていた時代から、抗争が絶えなかった。地政学上から見れば、南北は、気質も風土も異なっている。南には大韓(テハン)民国(ミングク)が、北には朝鮮(チョソン)民主(ミンチュ)主義(チュウィ)人民(インミン)共和国(コンファグク)(誇大広告のようだ!)が成立したものの、双方ともにちぐはぐな国家だった。

 総延長500㌔を越える洛東江(ナクトンガン)、漢江(ハンガン)の流域は、韓国の穀倉地帯である。半面、農業地帯韓国には、僅かな石炭を除いて天然資源はほとんどなく、また工業施設にも乏しく、日本が整備した半島全体の発電設備のうち、僅か五%しか存在しなかった。逆に、北朝鮮には、日本が残した水豊(スプン)ダムをはじめとするインフラが多く、天然資源にも恵まれている。しかし、平地に乏しい北朝鮮には、農業生産力が、欠けていた。つまり、南北が補完しあっていかないと、存立が難しい国土なのである。
朝鮮と満洲を隔てる鴨緑江に日本が建設した水豊ダム。間組と西松建設が施行し、水力発電は日本窒素が担い工業化を進めた
朝鮮と満洲を隔てる鴨緑江に日本が建設した水豊ダム。間組と西松建設が施行し、水力発電は日本窒素が担い工業化を進めた
 かつての高句麗の領土のうち、鴨緑江(アムノッカン)以南が、現在の北朝鮮領となり、旧新羅・百済の故地が、現在の韓国領となっている。

 さる人が数えたところ、古代の「三国史記」から、近世まで、朝鮮半島は、実に960回も、異民族の侵入を受けているという。ほぼ二年に一回の割である。こうした過酷な歴史から形造られた国民性は、歪んだものにならざるをえない。

 韓国人は、絶対に非を認めない。自説がまちがっていても、証拠をつきつけられないかぎり、撤回しない。また、どれほど世話や恩を受けても、感謝しないどころか、世話になった事実すら、隠蔽、否定しようとする。さらに、できるだけ、自分を大きく見せようとする。

 なぜ、こうなるかというと、相手が異民族の場合、非を認めれば殺されるかもしれない。また、下手に世話や恩義を認めれば、さらなる過酷な要求を突きつけられるかもしれない。また、自分を大きく見せないと、利用価値のないものと見なされ、殺されないまでも、社会的に葬られるかもしれないのだ。

 こうした傾向は、特に対日本という関係では、被害妄想のように顕著に現れる。これら韓国人の歴史、民族性を踏まえたうえで、特に戦後の日韓関係を眺めると、日本人の対韓認識が、どれほど誤っていたか、はっきりする。

発展には日本教育世代が活躍


 昭和40(1965)年、日韓基本条約が、締結される。今年は、その五十周年に当たるが、日本は、僅か18億㌦しかなかった外貨準備のなかから、有償無償あわせて五億㌦を、韓国に提供した。この資金が、韓国の高度成長の基礎を築いたのである。逆説めくが、韓国の発展は、すべて日本のおかげだということを、日本人も、常日頃から、言いたてないと、日韓関係は好転しない。
日本窒素水豊発電所の巨大な吸出管(『日本窒素事業概要』昭和15)
日本窒素水豊発電所の巨大な吸出管(『日本窒素事業概要』昭和15)
 当時の朴(パク)正熙(チョンヒ)大統領は、国民の反日傾向のなかで、日本との修好を進めたわけだが、これは、韓国動乱(朝鮮戦争)の戦火さめやらぬ時代だったため、北朝鮮との間で、復興の遅れから、溝を開けられていることを、計算に入れたからである。

第5~9代韓国大統領朴正煕
第5~9代韓国大統領朴正煕
 この日本からの資金が、京釜(キョンブ)高速(コーソク)道路(トーロ)をはじめ、韓国の高度成長の基礎となるインフラにまわされた。つまり、日本のおかげなのである。日本人は、こういう事実を、絶えず韓国に対して言いつづけないと、日韓関係の好転は望めない。

 以後、日本人は、熱心に韓国へ関わって行く。そこに、“元日本人”への共感と、一種の贖罪感が作用したから、あらゆる面で、心から韓国の復興、繁栄を願って、惜しまず協力したのである。先進国の仲間入りした韓国の現代の繁栄は、日本人の協力によってもたらされたものと、はっきり断言できる。しかも、日本人が、恩着せがましくしない点に、今日の問題の全ての淵源がある。

 現在、日韓のあいだには、多くの問題があるが、その多くは、日本人が、こうした事実を、いちいち韓国人に確認しなかったことから発生したのである。日本人は、恩着せがましくされることを嫌うし、相手にも恩着せがましくすることはない。だが、韓国人相手には、言外の言、理外の理は、通じない。

 寅さんの決め台詞だが、日本人は「それを言っちゃあ、おしめえよ」と、言うべきことも言わずに、相手が察するのを待つのが、ふつうである。確かに、日本人同士では美徳だが、韓国人相手では、これは逆効果しか生まない。

 韓国の建国に当たっては、日本で教育を受けた人々が、大きな役割を担った。朝鮮戦争における活躍によって、韓国では救国の英雄とされる白(ペク)善燁(ソニョプ)将軍は、日本での軍事教育を受けている。韓国で栽培される野菜、果物など、ほとんどの品種は、多くの日本人の善意に支えられ、東大に学んだ種苗学者の禹(ウ)長春(チャンチュン)博士が、日本からもたらしたものである。実際、禹博士は、常日頃日本人への感謝を口にしていたそうである。

禹長春博士
禹長春博士
 しかし、こうした日本世代の日本に感謝する気持ちは、現代の韓国では受け継がれていない。林檎のフジという品種は、日本から導入されたものだが、富士と言う漢字を韓国音で読み換えて、プサという名で知られている。一般の韓国人は、プサという林檎が、日本からもたらされたものだという事実を知らない。

 条約の締結の以前から、日韓の協力の動きは、すでに始まっていた。先年、94歳の天寿を全うされた全仲(チョンジュン)潤(ニュン)氏は、韓国屈指のインスタントラーメン会社である三養(サミャン)食品(シクプム)の創立者として、よく知られる。全氏は、朝鮮戦争の惨禍から回復できず、食糧難に苦しんだ1960年代の初め、日本で口にしたインスタントラーメンの味を忘れられず、日本の明星食品の奥井清澄社長を頼った。奥井社長は、国民を食糧難から救いたいという、全氏の志を受け入れて、ラーメンの製法を、無償で提供し、技術指導に当たった。

全仲潤・三養食品前会長
全仲潤・三養食品前会長
発売当時の三養ラーメン
発売当時の三養ラーメン
 当時、多くの日本人が、元日(・・)本人(・・)である朝鮮半島の人々に、同胞意識を抱いていたからである。朝鮮半島の人々も、“元日本人”として、本土の日本人に親近感を持っていたからでもある。実際、全会長は、生涯、奥井氏を含めた日本人への感謝を、口にしていたそうである。

 日韓条約によって、日本を知る人々、日本から戻った人々が、日韓の窓口、橋渡しの役割を務め、日本からの技術協力・移転が、さらに加速されていった。