2015-09-09
■[雑記]五輪エンブレム問題からみる「作者と作品の切り分け問題」または「犯罪者の作品問題」
まとめ
1. 大衆によるデザイン判断は、外見やキャッチーさに集約されてしまう。デザインの一側面しかジャッジできない。
2. 多面的にジャッジするためには、デザイナや弁護士など専門家への信任が必要。
3. デザイン業界は説明とコミュニケーションを怠り、盗用騒動もあいまって信任を得られなかった。
4. 信頼を取り戻すには、業界全体で丁寧な説明やコミュニケーションを積み重ねるしかない。
何というか、本人が直々に「ない」と宣言した剽窃が、問題となったオリンピックのエンブレムデザイン以外に見つかったことで、佐野さんの発言への信頼が失墜する原因となったばかりでなく、一時期は(私も多少同情的でしたが)佐野さんを擁護していた人たちの一斉手の平返しというビッグウェーブを作り上げてしまった間の悪さもあります。
常識的に考えて、小保方さん問題でも明らかなように、剽窃ひとつで致命的な世界が数多ある中で、シンプルなデザインが他と類似しやすい状況でビジネスをされるのは大変なのかもしれませんけれども、この落としどころの無さ、救いの無さというのはちょっと異常です。さすがにそろそろどうにかならないんだろうかと思うようになってきました。
話題沸騰のオリンピックエンブレム問題ですが、私としては「作者と作品の切り分け問題」もっというと「殺人犯の作品問題」としてホットです。どういうことかといいますと、オリンピックエンブレムが問題の中心にもかかわらず、致命的だったのが作者である佐野さんの過去の仕事(関連業務としてのプレゼン資料も含む)だったということです。つまり、最新の作品の評価を、過去の仕事が決定付けることに関するところ。
【まとめ】佐野研二郎パクリ疑惑画像まとめ9月6日→エンブレム使用中止へ! 原案・プレゼン資料、サントリートートバッグでトレパク疑惑… 盗作疑惑・似ている作品の一覧ページ 炎上【比較画像一覧】
オリンピックエンブレムを「過去にほぼ確定の盗用疑惑があるデザイナーの作品だから駄目」なのか「エンブレムそのものをデザインだけで判断して問題なし」なのか、みたいな話です。ただ、こんな話、結論が出るはずがないので、徒然と思ったことを書き記すだけです。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、関連の話です。
作者と作品の切り分け問題
作品と作者を切り離して考えてよいと教わった時、とても興奮した。
教授は「従来の文学研究は作家研究であって、かならずしも作品研究にはなっていない。作品は作者から切り離して考えるべき」と主張し、構造主義による文学研究を講義した。
それまで僕は、文学研究というものは作家の人生を調べ、その人生のなかからどのような小説が紡ぎだされたのかを解明するものだとばかり思っていた。たとえば、芥川の生い立ちが作品にどのような影を落としているだとか、太宰と誰それとの心中がどこの作品に描かれているといったことだ。
人格と作品を分離できないのって良くないと思う。悪い人の作品は悪いとか、百合作品の作者は女性とか、ノンケ原作で百合二次するなとか。
— ほっけ@ (@hokke_tako) 2015, 5月 16
芸術作品、文学作品問わず、「作者と作品の切り分け問題」はもう過去から嫌というほど沢山の人がいろいろ論じていますが、つまるところ、時と場合と状況と主張と人による、というみもふたも無いところになると思うんですよね。模倣は発展に欠かせないけれど、超えちゃいけないラインはあるし。時代や環境にもよるし。何が言いたいかにもよるし。つまり、一般論的な答えなんて無いのです。芸術や文学の評論で、作者の人生を前提の置くのは、別にそれが絶対に必要なわけではなくて、あくまで主張の方向としてそうした方が良いからであって、それが全てではないのです。
まぁ、過去に堅山南風さんの「霜月頃」という二曲の屏風が二等にノミネートしたとき、当時堅山南風がどこの文展でも落選していたため、画壇の人が「二等は重すぎるから三等にしよう」として横山大観先生が「絵の賞は絵につけるもの。経歴につけるものじゃない」と激怒した事件みたいなことは沢山あるわけで、権威や背景がないと評価をできない人というのはどこにでもいるものです。(なお、この後、横山大観はこれをきっかけに審査員を外される)
犯罪者の作品問題
キチガイや犯罪者の作る作品があれこれもてはやされるって、昔からの話じゃないの? 耳切り落としたヤツとか、死刑囚で小説書いてほめられたやつとか、「狂気のナントカ」って昔から迫力ある芸術を誉める十八番の言い回しだし。
〜(中略)〜
そして……そういう大衆芸術って、別にキチガイや犯罪者や貧乏人や被災者じゃなくても作れるって言ってるよね。だったら本書はなぜキチガイや犯罪者や貧乏人や被災者などの作品ばかりとりあげて、それこそがそういう大衆芸術の代表みたいな扱いになるわけ? 結局これって、エスタブリッシュメントだからすごい、という評価とまったく同じ、社会的に恵まれない境遇にあるからこそすごいっていう、肩書きで作品を評価しようという考え方でしかないよね。そこらへんも本書では、ろくな説明もない。
で、世の中の芸術やアートがいまだにMoMAのエスタブリッシュメント中心で動いてると思ってる芸術評論家ってなに? そして著者の主張では、大衆芸術的なマンガもポピュラー音楽も各種サブカルもすべてアウトサイドアートの一部なんだから、その中で特権的なものをわざわざ取りざたする必要もない。みんな椹木に言われなくてもMoMAに拳なんかあげずに、普通にそれを享受してるよ。ダーガーとか山下清とか知らない人は、少しは参考になる……とも思えないし、あまり意味のない本だと思う。
「作者と作品の切り分け問題」の極端な例が「犯罪者の作品問題」です。これは「犯罪者の作品だから(すごい/駄目)」という主張がメインの関心ごとになります。ただ、これは、「犯罪者の作品」というのが広告としてインパクトがあり、キャッチーであるため、ことさら使われるという理由もあるので、すこしこんがらがるところもありますが。「悪評も評判のうち」みたいなマーケティングとしては、「犯罪者の作品」という売りは強いです。
神戸市須磨区の連続児童殺傷事件の加害男性(33)が手記「絶歌」を出版した問題で、殺害された土師(はせ)淳君=当時(11)=の父、守さん(59)は15日、加害者の出版を規制する法律の制定を求める要望書を自民党司法制度調査会の犯罪被害者支援プロジェクトチーム座長である鳩山邦夫衆院議員に提出した。
要望書は、殺人事件など重大犯罪の加害者が出版する際、被害者・遺族の同意を義務づけた上で、違反した場合には利益没収などの措置を講じるよう求めた。鳩山氏は「被害者の遺族は一生被害者。守る必要がある」と前向きに応じた。
近頃で、そういうマーケティング戦略を見事に成功させたのが、『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』でした。ハッキリ言って、誰も何も見向きもせずに、ひっそり出版させていれば、昨今の出版不況から鑑みるに全然売れなかっただろうと思うのですが、犯罪ネームバリューを駆使したマーケティング戦略により、テレビやニュースが勝手に宣伝しまくってくれて、めちゃくちゃ売れましたからね。この本の批判においても、今回の五輪エンブレム問題と同様に、「正義」や「仁義」みたいな言葉が多く見られる抽象的な議論になってしまっていました。
『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』(ぜっか こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)とは、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の加害者の男性が、「元少年A」の名義で事件にいたる経緯、犯行後の社会復帰にいたる過程を綴った手記[1]。2015年6月28日に太田出版から出版された(発売は6月10日[2])。初版は10万部。
〜(中略)〜
碓井真史(社会心理学・スクールカウンセラー・新潟青陵大学大学院教授)
Yahoo!ショッピングで入手し、一気に読んだ。出版は、「正義」に反する。しかし、読後、しばらくは誰とも話したくないと感じたほど心が揺すぶられた。殺人時、遺体損壊時の凄惨な記述はない。動物虐待のシーンは、ぞっとするほどグロテスクだ。少年時代の異常な性行動も赤裸々に語られるが、これは猟奇的な本ではない[20]。
〜(中略)〜
私は理解をしたい。この本は世に出してよかったと思える内容になっている。少年が当時の体験や心情をしっかり思い出し、過ちから逃げずに向かい合っている。その体験は極めて特異だが、紡ぎ出される心情、考え方は貴重なサンプルだ。被害者遺族に事前連絡をしなかった点については「仁義を通すべきだった」とは思うものの、それを考慮しても読む価値があり、遺族にもいつの日か読んでもらいたい[21]。
ただ、絶歌の例だと、「犯罪者が、お金を稼ぐこと」と「犯罪者が過去の犯罪を利用して、お金を稼ぐこと」がごっちゃになり、さらに複雑ですね。
「穢れ」や「ケチがつく」みたいな話
ただブコメとかで「もう穢れてしまったんだから白紙撤回しかない」みたいなことを言ってる人がいるのが気持ち悪い。何時代に生きてるの?って感じ。ただただ頭悪そう。
「穢れた」と「俺が気に入らない」って何が違うの?
穢れって感じるのは勝手だけど、21世紀にそんな概念を盾に白紙撤回を求めるなんてさすがにどうかと思う。きちんとした理由で白紙撤回するのはいいけど(例えば国立競技場の建設費のように)、「穢れた」から気分で白紙撤回をしてしまうってのは法治国家としてありえない。ロゴがいいかわるいかはともかく、佐野が法律違反で逮捕されるといったことがない限り撤回なんてしなくていい。
あたしの感覚だと、これは「誰でも思いつくような月並みで陳腐なデザインだから偶然に似てしまっただけ」であり、ドビ氏のオリジナルだという判決が下るとは思えないけど、それでも、裁判になってスッタモンダが続いて東京五輪にケチがつくよりも、トットと類似デザインを取り下げて新しいデザインを選んだほうが利口だと思う今日この頃なのだ。
「正義」「仁義」「穢れ」「ケチがつく」という具体的でなく、感覚的/感情的なところが、今回の問題の難しいところだと考えています。そこで、“過去の罪”や“人格”みたいなものを、作品を鑑賞したときに、分離できるかどうか、が重要になり、もうそこは個々人の感情でしかないわけで。
むすび
「作者と作品の切り分け問題」ひいては「犯罪者の作品問題」について徒然と考えを書かせていただきました。ちなみに、私は宮崎駿さんの人格や思想は好きじゃないけれど「千と千尋の神隠し」は大好きですし、宮崎吾朗さんは嫌いじゃないですが、「ゲド戦記」は好きじゃないです。だからと言って、いつも分離できるわけでもなく、ごっちゃになることもあって、その差がどこにあるのか、自分でもよく分かっていません。(てか、この記事を書いているモチベーションが、それを分かりたい、というところです)
関連リンク
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