抹茶スイーツ、起源は軍用サプリ 憩いの味に隠れた歴史
あらゆる菓子を緑色に染め、甘味食材として不動の地位を築いた宇治抹茶。主産地の京都府宇治市では大勢の観光客が抹茶スイーツを食べ歩き、人気に陰りはない。だがその源流ともいえる抹茶加工品は太平洋戦争前に宇治で生まれ、軍需に利用された。終戦から70年。文化や憩いとともに語られる抹茶の、隠れた歴史をたどった。
■「ぜいたく品」統制下、業界存続へ開発
「本府特産ノ碾茶(てんちゃ)ヲ航空、潜水艦乗員、学生ノ勉学等ノ疲労ノ回復ニ資スル目的ヲ以(もっ)テ抹茶ニ砂糖ノ如(ごと)キ甘味剤其他(そのた)ノ適量ヲ加ヘテ混和シ錠剤トナシ…」
今年設立90年を迎えた京都府茶業研究所(宇治市白川)に残る古い報告書に、その名前はあった。発行は戦中の1943(昭和18)年。旧農林省の命を受け、茶研が抹茶加工の研究で生み出した「抹茶錠」だ。
茶研は日中戦争が始まった37年、抹茶の粉を押し固めた錠剤を開発した。湿気や熱で変質しやすい抹茶の弱点を克服し、簡単に摂取できるようにするのが主眼だった。薬用と嗜好(しこう)の両面で新たな需要の創出を狙ったが、軍はそれを兵糧に活用した。着目したのは茶に含まれるビタミン類やカフェインだった。
戦中の宇治茶業界は存続の危機にあった。「お茶は『平和産業』と言われて従業員が根こそぎ軍に引っ張られ、店は開店休業状態。茶の木は引っこ抜いてイモを植えろ、という状況でした」。宇治市小倉町の老舗茶商「山政小山園」会長の小山洋一さん(85)は振り返る。茶の取引は厳しく統制され、抹茶も「ぜいたく品」とみなされた。
苦境の業界は抹茶がもつ覚醒作用などの効能を軍部に力説した。京都府茶業百年史によると、43年の陸軍規則で茶は将兵に支給される基本糧食の中の飲料に位置づけられ、空中勤務者(航空兵)は特別に「葉緑素食」として1日抹茶10グラム、玉露15グラムの摂取が定められた。持ち運びやすく水も使わない抹茶錠は、兵士の眠気覚ましと精神集中、それに栄養補給を図る格好のサプリメントとなった。
だが当初完成した抹茶錠は苦かった。食べやすくするため茶研は甘味料を加えた「糖衣(とうい)抹茶錠」に改良。報告書には「一般人ノ茶ヲ愛用セザル者ニモ好評ヲ博シ」とあり、軍に1万箱を納めたとする記述が残る。
一体どんな味だったのだろう。宇治の生産者や茶問屋を訪ねたが、存在自体を知る人が少なかった。食べた記憶のある人と出会えたのはただ1人。碾(てん)茶農家の渡辺敏夫さん(87)=同市五ケ庄=がかすかに覚えていた。「濃い緑色の粒で、問屋さんでもらった。『これは兵隊が食べるんや。内緒やぞ』って。残念やけど味は思い出せません」
食糧調達や配給を担った軍の糧秣廠(りょうまつしょう)の要望に応え、宇治の茶業界も動いた。冬季に伸びた茶葉を粉末に加工した商品を考案し、ビタミンCが豊富な「C豊抹(ほうまつ)」として売り出した。冬は新茶や二番茶の時期から大きく外れ、葉は硬くて渋い。宇治茶の金看板である香りと味は度外視だった。
抹茶の歴史を研究する茶商の桑原秀樹さん(65)=同市木幡=は「大量かつ安価に作らなければならず、下級品の茶を使ったのだろう。その意味で、軍需用の茶は今日多くの菓子類に使われている加工用抹茶のルーツといえる」と話す。
戦後復興とともに抹茶需要は復活した。70年を経た今は「食べる抹茶」が花盛りだ。茶業や消費の変遷を見た小山さんは言う。「お茶は時代ごとに民衆が変えていくもの。ただ、戦争はめちゃくちゃやった。もう二度と戻りたくない」
【 2015年09月08日 16時12分 】