長崎総局・岡田将平
2015年9月7日14時06分
30年ほど前から音信不通になった姉ユリコさん。長崎市に住む永尾勝子さん(76)は、その消息がずっと気がかりだった。姉は70年前に被爆。戦後に米兵と知り合い、米国に渡った。原爆を投下した異国でどう生きたのだろうか――。勝子さんの思いをくみ、記者がその足取りをたどった。
9年前の米シカゴの地元紙が姉ユリコさんの訃報(ふほう)を掲載していた。「やっぱりね」。勝子さんはある程度、覚悟していたようだ。
戦時中、勝子さんは、長崎市に家族8人で暮らしていた。海産物業をしていた父と母、6人のきょうだい。8歳上のユリコさんは勝ち気な性格だった。
1945年8月9日、勝子さんは爆心地から山をへだてた自宅近くで被爆。14歳だったユリコさんは爆心地に近い兵器工場に動員されていた。しばらくしてぼろぼろの服で帰ってきた。
ユリコさんは、その惨状を詳しく語らなかった。ただ後に、「友だちがみな死んだ」と長姉に話していたと勝子さんは知った。「生き残った罪悪感を感じていたのでしょう」。進駐してきた米兵に憎しみを示したこともあったという。
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父は被爆後、寝たきりとなり、47年に死亡。ユリコさんは家族を養うために長崎市で働き始め、英文タイプを学んだ。その後、米軍基地がある長崎県佐世保市に向かった。
50年に朝鮮戦争が始まると佐世保は特需に沸いた。外国人向けのバーや商店が次々とできた。当時の手紙に書かれた住所を記者が訪ねると、雑居ビルになっていた。ビルの所有者によると、かつては外国人向けのバーがあり、住み込みで働く女性もいたという。
勝子さんは、ユリコさんが米軍関係の事務の仕事をしていたと聞いていた。仕事を転々としたのかもしれない。ただ、勝子さんの元には現金書留の袋が残り、「少ししか送れなくて申し訳ありません」などとつづられている。家族に仕送りをしていたようだ。
◇
56、57年ごろ、米国から一人の水兵がやってくる。メルビン・ジュニア・セーゾフさん。ユリコさんと出会い、恋に落ちた。
勝子さんは一度、佐世保で2人に会った。映画を見に行き、初めてポップコーンを食べ、コーラを飲んだ。メルビンさんに抱きかかえられるように歩く姉。車道側をメルビンさんが歩き、重い荷物は持たせない。「優しかとねえ。こういうところにひかれたのかなあ」と思った。57年、2人は結婚し、渡米する。
ユリコさんは交際中、長崎にあまり帰らなかった。周りから偏見を持たれるのを恐れていたという。勝子さんは姉の気持ちを察する。「帰る場所がないと思ったのでは」
米国の軍人や軍関係者と結婚し、米国に渡った女性は「戦争花嫁」と言われた。諸説があるが、3万~5万人いたと推定する研究者もいる。偏見を恐れてひっそりと生きた人も多いとされる。
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朝日新聞国際報道部
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