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「戦争遺跡」 保存と活用を
9月6日 16時48分

「戦争遺跡」 保存と活用を
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戦後70年を迎え、戦争の実態や当時の生活の様子を後世に伝えていくために、軍に関連した施設や防空ごうなど、いわゆる「戦争遺跡」を保存しようという動きが全国各地で広がっています。こうした取り組みを進める団体がシンポジウムを開き、「戦争遺跡」の保存や活用に国や自治体がより積極的な役割を果たしてほしいと訴えています。
全国の市民団体などで作る、「戦争遺跡保存全国ネットワーク」は、5日から千葉県館山市でシンポジウムを開いています。
5日行われた基調報告で、ネットワークの代表を務める山梨学院大学の十菱駿武客員教授は「戦争体験者が少なくなるなかで戦争の記憶を残す役割が『人からモノに』変わらざるをえないが、戦時中に作られたものは劣化などの危機に瀕している」と述べて、「戦争遺跡」を守る活動の重要性を強調しました。
シンポジウムでは各地の団体や自治体の担当者が旧日本軍が使用していた建物や空襲を避けるための地下ごうなどを保存し、教育などに活用している取り組みを紹介しました。
全国ネットワークによりますと、「戦争遺跡」と呼ばれる建物や施設は、全国に数万件あるとみられますが、開発などに伴って年々解体されるものが多くなっています。
一方で、国や自治体が文化財などに指定したり登録したりすることで、保存されている「遺跡」が全国に230件あるということです。
ネットワークは、「戦争遺跡」の保存や活用に国や自治体がより積極的な役割を果たしてほしいと訴えています。

解体された「戦争遺跡」

戦後70年を目前にして消えていった「戦争遺跡」があります。
太平洋戦争当時、東京・武蔵野市にあった国内最大の航空機エンジン工場の変電施設が入っていた建物です。
戦争末期、工場はアメリカ軍に繰り返し空襲を受けておよそ200人が死亡しました。
変電施設の建物は焼失を免れ、戦後は地域の集会所などとして使われていました。
地元の市民団体は東京都や市に建物の保存を求めていましたが、空襲の痕跡がないことや戦後改修されたことなどを理由として保存は実現せず、ことし7月、隣接する都立公園の拡張に伴って解体されました。
ところが、解体工事の直前に行われた調査で、建物に爆弾が貫通したとみられる大きな穴が見つかり、空襲の被害を受けていた可能性が高いことが分かりました。
建物の保存を求めていた「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」の牛田守彦副代表は「航空エンジンの生産では国内最大の工場だったために激しい爆撃を受けた。非常に重い意味のある建物だったと思うので本当に残念としかいいようがない」と話しています。

活用進む「遺跡」にも不安

東京・八王子市には、太平洋戦争末期に旧日本軍が建設した巨大な地下ごう「浅川地下壕」が残っています。
住宅地に近い山の中で縦横に掘り進められた地下ごうは軍需工場などとして使われていました。
総延長はおよそ10キロと、戦時中国内で作られた地下ごうとしては最大規模の施設と言われています。
内部には建設時にダイナマイトを詰めるためにドリルを使って開けた穴やトロッコの枕木の跡などが残り当時の様子を今に伝えています。
地元の市民団体は、戦時中の歴史を多くの人に知ってもらおうと定期的に見学会を開いていて、先月29日に開かれた見学会には親子連れなどおよそ30人が参加していました。
地下ごうがある地域の広大な土地の一部は八王子市が所有しています。
市民団体は地下ごうをさらに文化財に指定して保存するよう八王子市に求めていますが、市は「戦争遺跡の保存に関する国の基準がない」として今後の保存について方針を示していません。
「浅川地下壕の保存をすすめる会」の中田均さんは、「戦争遺跡は各地で次々となくなっている。自治体や国は保存や公開に取り組んでほしい」と話しています。

専門家「国の役割大きい」

「戦争遺跡保存全国ネットワーク」の代表で、山梨学院大学の十菱駿武客員教授は「戦争を体験した世代が少なくなるなかで記憶を残すものとして『戦争遺跡』の重要性は増してくる。文化財や史跡に指定・登録してできるだけ残していく必要があり、自治体には保存する役割が求められるが、全国に指針を出すのは文化庁なので国の役割は大きい」と述べ、「戦争遺跡」の保存や活用に国がより積極的な役割を果たす必要があると指摘しています。

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