歴史上というと、、、ネタが重い、、、です。
ブログネタ紹介でオウムなら、、、こっちは総括で。。。
ということで、、、歴史上、最も極悪だと思う事件は、、、
日本赤軍とか、、、連合赤軍が起こした一連の事件
山岳ベース事件(1971~1972年)
あさま山荘事件(1972年)
テルアビブ空港乱射事件(1972年)
ドバイ日航機ハイジャック事件(1973年)
オランダ・ハーグ事件(1974年)
クアラルンプール事件(1975年)
ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)
ジャカルタ事件(1986年)
(その他に、、、連続企業爆破事件などもある)
です。
僕の知らない時代ですけど、、、オウムに匹敵するほどの凶悪事件だったと思います。(↓)(ウィキペディアより引用)
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総括(そうかつ)とは、、、
日本の新左翼党派である連合赤軍の行動様式の一つ。
オウム真理教のポアと並び、戦後日本が生んだ閉鎖的犯罪集団の殺人正当化の論理である。
概要
左翼団体において、取り組んでいた闘争が一段落したときに、これまでの活動を締めくくるために行う活動報告のことを「総括」と言っていた。闘争の成果や反省点について明らかにし、これからの活動につなげていく。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C(点検・評価)」に相当する。
ところが連合赤軍では、「真の革命戦士となるために反省を促す」と称して行なわれたリンチ殺人を意味することになった。
連合赤軍は、共に武闘派路線であった赤軍派と京浜安保共闘が「連合」してできた組織であるが、その思想や体質には様々な相違点があった。
彼らの主観では、「総括」とは「革命戦士に成長させるための試練」というつもりであったが、この「総括」を受けて生還し、革命戦士として成長した者は居らず、結局は凄惨な連続殺人へと突き進んで行った。
オウム真理教との類似点
殺人を正当化する連合赤軍の総括は、23年後に発覚するオウム真理教の「ポア」との類似性がしばしば指摘される。
パトリシア・スタインホフと伊東良徳の共著『連合赤軍とオウム真理教 日本社会を語る』や田原総一朗著の『連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ』など、この問題を扱った書籍がこれまでに発刊されている。
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これだけでは分かりませんね。。。
去年、、、このブログでも取り上げましたので、、、そのリプライズを。。。(↓)
【豆知識】総括とは、、、
総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は私刑と化していった。
連合赤軍の実質的リーダーであった森恒夫と永田洋子の2人は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わ り、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中ではその思考は疑うことができないままに受け入 れられるしかなかった。
山岳ベースでの連合赤軍においてはこれが破綻し、リーダーの森恒夫らは総括に暴力を用いるようになった。一人の人間に対し、仲間全員が暴力を用いて厳しい反省を強要するようになり、実質的なリンチと粛清が展開されるようになった。
被害者も政治的指向から激しい暴力を伴うこの行為にほとんど抵抗しなかった。被害者はある者はこれらの暴力による内臓破裂で死亡し、ある者は食事もほとんど与えられずに極寒の屋外に縛り付けられ死に至った。
彼らは暴力を総括を助ける行為として「総括援助」と名付け、正当化した。またこの総括援助による死は「総括できないことに絶望してショック死した」として「敗北死」という名が付けられた。
また、総括が期待できないと判断されたメンバー二人(一人は幹部)には「死刑」が宣告され、アイスピックで何度も刺された上に絞殺された。
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(↑)
そんな事件です。
主犯格の、、、
永田洋子、森恒夫→リンチで仲間11人殺害、さらに1人死亡させ死体遺棄
これだけの凶悪事件です!!
その結果、、、
永田洋子→脳腫瘍を患いながらの裁判の末、1993年2月19日に最高裁判所で死刑が確定。2011年2月5日に東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で死去。
(↑)1972年5月、警視庁に移送される元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚
森恒夫→1973年元日、拘置所の独房で首吊り自殺しているところを発見された。蘇生措置が講じられたが、死亡した。28歳。発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに死刑を下す」と綴られていた。
(↑)逮捕され、前橋署に連行される森恒夫・連合赤軍最高幹部=1972年2月17日撮影
でした。。。
これらの、、、事件は、、、連合赤軍だけでなく、、、日本赤軍まで手を広げると、、、
(↑)この中で、、、服役中の同士を超法規的措置という名のもとに釈放させ奪還!!
世界まで迷惑をかけて、、、やりたい放題だったようです。
オウムがほとんど国内のテロだったことからすると、、、もっとも極悪な事件だったと思います。
しかし、、、
だった。。。と過去形ではありませんでした!!
まだ7人が国外逃亡(国際指名手配)中なため、、、継続中です!!
長い歴史を見ても、、、国外に迷惑をかけたのは倭寇くらいでしょうから、、、日本の歴史上で、、、最も極悪な事件、、、と言っても過言でないかと思います。
※倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。
で、、、最後に、、、
【豆知識】連合赤軍と日本赤軍は違う。。。
連合赤軍・・・1971年から1972年にかけて活動した日本の新左翼テロ組織。共産主義者同盟赤軍派と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成されたもの。山岳ベース事件、あさま山荘事件などの事件を起こし、15人を殺害した。
武闘派から成る連合赤軍は、活動拠点を山中のキャンプに移していった。しかし、12人の同志を殺害する山岳ベース事件で組織が弱体化し、あさま山荘事件(1972年)で抵抗を試みるも、主力部隊は逮捕され壊滅した。なお、キャンプに参加しなかった者や獄中に在った者の一部は国外に逃れ、日本赤軍に参加する。
日本赤軍・・・パレスチナに拠点を置いていた日本の新左翼系ゲリラ武装テロ組織。1971年結成、2001年解散。国際根拠地論に基づきパレスティナに向った重信房子のグループは当初赤軍派アラブ委員会(アラブ赤軍)を称し、パレスティナ解放人民戦線(PFLP)と合流して活動を開始し、一連のハイジャックなど、「P作戦」の国際的展開とでも言うべき活動を行い、「日本赤軍」として独立する。創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。
一般市民を巻き込んだ無差別テロにより批判を浴びたことや、冷戦の終結などから他の政府や反政府組織からの協力、提携を得ることが不可能になったこと、その上、ソビエト連邦の崩壊によってその主張は完全に時代遅れのものとなり、新たな青年層のメンバーの取り込みに完全に失敗した上に、「シンパ」の多くが老齢化したことで、2001年4月に重信房子は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行ない、正式に解散した。
また、アメリカ合衆国国務省の対テロ調整局は、日本赤軍を「国際テロ組織」と認定していたが、組織が壊滅し解散したために認定を解除した。
解散後、重信房子は産経新聞のインタビューで「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」と自己批判した。
連合赤軍の主なメンバー
森恒夫→拘置所の独房で首吊り自殺
永田洋子→死刑、獄中にて死亡
坂口弘→死刑(17人殺人は死刑囚としては当時の戦後最悪)
寺岡恒一→山岳ベース事件でメンバーによって殺害された
坂東國男→日本赤軍へ合流
山田孝→全裸のまま手足を縛られ、零下 15℃の野外の柱に縛りつけられ凍死
吉野雅邦→無期懲役
※麻原彰晃・・・司法の認定としては26人殺人と1人監禁致死=27人
日本赤軍の主なメンバー
重信房子(最高指導者)→懲役20年
奥平剛士(最高幹部)→テルアビブ空港乱射事件にて死亡
丸岡修→無期懲役、獄中にて死亡
和光晴生→無期懲役
奥平純三→国外逃亡(国際指名手配)中
安田安之→テルアビブ空港乱射事件にて死亡
岡本公三→終身刑、捕虜交換、国際指名手配中
西川純→無期懲役
日高敏彦→取調べ中首吊り自殺
坂東國男→国外逃亡(国際指名手配)中
佐々木規夫→国外逃亡(国際指名手配)中
城崎勉→懲役30年
大道寺あや子→国外逃亡(国際指名手配)中
泉水博→無期懲役
仁平映→国外逃亡(国際指名手配)中
城崎勉→アメリカ合衆国で懲役30年
松田久→国外逃亡(国際指名手配)中
【豆知識】日本共産党と過激派との関係
「連合赤軍派」「革マル派」「中核派」などは、一般的には、過激派(極左暴力集団)と呼ばれ、共産主義社会実現をスローガンに掲げていますが、実際は「平等」「自由」「民主主義」に反した暴力集団です。日本共産党は、これらのグループとは一切関係がなく、暴力主義を完全に否定しています。
当時の自民党政府は、ベトナム反戦と政治革新を求める国民の戦いを抑えるため、その先頭に立つ日本共産党をイメージダウンさせるため、「連合赤軍」など、共産主義を偽装する「ニセ左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。あさま山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めています。中曽根康弘氏は、「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語っています。(昭和44年5月3日 朝日新聞)
(↑)
そんな時代があった、、、で単純に片付けられない事件です。
このような、、、事件が二度と起きない平和な世の中を祈って、、、このブログの総括にしたいと思います。
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