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創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

創価学会の表と裏の顔の現実

創価組織の現実

こんにちは、トウガラシです。

創価に不信を抱くようになってからは、それまで読んだこともなかった宗教学者や仏教学者、それに他の宗教の聖職者が書いた本も読むようになりました。

それはそれまで創価学会だけが正しいという無知な状態から真実を知りたいとかもっと多様な考え方を知りたいという思いが湧いてきたからなんですが、そういう中で宗教学者島薗進氏の著書も近頃は読んでいますし、島薗氏のツイッターも見ています。

そのツイッターで島薗氏が次のようなつぶやきをしてますね。

 

島薗進 on Twitter: "創価大学での日本宗教学会学術大会は初めて。今や創価大学は宗教研究に関わる日本の大学として重要な一角そ占める。http://t.co/G2EGH5JsTZ 池田名誉会長との対談もあるブライアン・ウィルソンに次ぐ世代の宗教社会学者、カサノヴァやベックフォードの講演がある。"

 

創価大学日本宗教学会学術大会が開催されるということで、その日本宗教学会学術大会の公式サイトがこれです。

 公開シンポジウム開催趣旨 | 日本宗教学会 学術大会公式サイト

  

島薗氏も書いてますが、創価大学は今や宗教の学術的研究の重要な一角を占める立場にあるんだそうで、そういうところから、外部の有識者からは創価大学を擁する創価学会学術的な団体だと思われているのかもしれません。

しかし、創価学会創価大で学術的研究をしている一方で、信者たちには「財務にたくさん寄付すれば功徳が何倍にもなって返ってくる」とか、「創価の組織から離れたら不幸になる」などと迷信的信仰を押し付けているカルト宗教でもあります。

これから財務の申込用紙が会員に配布されるのだと思いますが、私の母も「婦人部長からもっと財務に金を出せないかと言われた時、うちは1口しか出せませんというと急に態度が変わって「財務に出し惜しみしていると福運が積めずに不幸になる」と口悪く言われた」と、時おり思い出しては昔のことを口にしていますが、ネットでも明らかなように、それは一部の学会幹部の暴走などではなく、全国の創価組織で行われていることであり、組織ぐるみで行われていることなんです。

外部には学術的研究の場であるかのように見せ、内部に対してはオカルトじみた迷信信仰の功徳と罰で金を出すように迫るというこの落差の大きさ。

この実態を知らなければ創価組織の正体は分からないでしょう。

 いうなれば、創価の表と裏の顔という現実を知らなければ創価の実態は分からないということです。

 

 

 

 

 

正義の主張の現実

教学

こんにちは、トウガラシです。 

他のアンチ創価ブログを見ていると、コメント欄に創価学会の盲信会員や狂信会員による書き込みが見られますが、その内容は創価は絶対正しく、お前たちが間違っているんだという内容ばかりです。

そして、なぜ創価は正しく、アンチ側の批判が間違っているのかという主張には、何1つ理論らしい理論もなく、ただ感情的な罵詈雑言を書き込んでいるだけです。

本当に創価が正しいと信じているのなら、その正しいと信じている思想なり理論なりを筋道立てて論理的に理路整然と述べればいいではないですか。

ところが創価の盲信狂信者にはそれができないようなのです。

それは、創価学会には他を納得させられるような理路整然とした理論や思想がないからです。

昨年の教義会則変更でもそうですが、これまで創価が「絶対正しい」としてきた教義はすでに「世界で唯一正しい宗教」として表明できなくなっています。その唯一絶対性としての根拠は崩壊していると言ってよいでしょう。

そのような創価だから、盲信狂信者もその正しいとする根拠を示せないし、理路整然と主張できないのです。

だから、創価の盲信狂信者には、アンチ創価に対しては、汚い罵詈雑言で罵倒することしかできないのでしょう。

その時点で、どちらが正しくどちらが間違っているかは一目瞭然ではないですか。

バリ活会員の好きな言葉で言えば、「すでに勝負はついている」というわけです。

どちらが勝ってどちらが負けているかはよほどの愚人でない限りすぐ分かると思いますよ。

 

 

 

 

 

創価の大本営発表の現実

創価組織の現実

こんばんは、トウガラシです。

一昨日、終戦記念の特別番組を見ていたら、日本軍の大本営発表について放送されていましたが、創価学会もよく似てるなと思ってしまいました。

戦況が思わしくないのに連戦連勝と嘘の報道をしていた日本軍の大本営発表と、現実には衰退しているのに世界中で組織拡大しているなどと聖教紙面に書き立てている創価学会

また、裁判でも負けているのに「連戦連勝」などと機関紙に嘘の記事を書いている創価学会

そっくりですね。

もはやまともに信じられるところがないのが創価学会だと言えます。

それから、聖教新聞には 連日のように、いかにも創価が平和を願っている団体であるかのような記事を書いてますが、本当にそうなら、公明党が安保法制に賛成することもなかったでしょう。

盲信学会員の多くは公明党が勝手に暴走したなんて思ってるようですが、創価本部の意向を無視して公明党が動くわけないんですから、創価自体が安保法制を通したんだと思いますよ。

なぜなら、創価自体にとって平和などどうでもいいことであって、創価にとって最重要なのは自分たちの立場や権益を守ることでしかないのです。

そのために自民党にくっついているのであり、自民党の言うことには何でも賛成しているわけです。

それをごまかすために機関紙ではいかにも平和に尽力しているかのような記事を書き、そして公明党創価の平和主義を無視して勝手に暴走したかのように見せかけ悪者に仕立てているだけだと言えるでしょう。

 盲信学会員は公明党には怒りを向けても創価首脳部に対しては今だに平和のために全力で戦っていると思い込んでいるわけです。

こういったところにも創価の狡猾な戦略が見えてきます。

 

 

正しくないから嫌われる

創価組織の現実

こんばんは、トウガラシです。

創価系ブログを見ていると、「創価学会は世間から嫌われている」と自覚はしていても、「嫌われているから正しくないというわけではない」と考えている盲信学会員もいるようです。

それどころか、却って世間から嫌われているからこそ創価学会は正しいんだと思い込んでいるようです。

こういう考え方は世間から迫害されたり非難されたりしている宗教に多く見られる考え方で、特にカルトに多く見られる特徴ですが、このような考え方になるのは、1つには、世間の人間よりも我々の方が優れているから理解されないんだとういう優越感、選民思想を信者に持たせる狙いもあるのでしょうし、嫌われることによって却って自分たちこそ正しいんだと思わせて更に盲信させるという狙いもあるのでしょう。

創価学会は「創価の常識は世間の非常識」などと揶揄されていますが、「世間から嫌われているから創価学会は正しい」などとひねくれた考えを持っているからこそ、学会員は世間から非常識だと思われてしまうんです。

広宣流布」などと大きなことを言っていても、非常識を社会に広げてもそれは民衆から受け入れられることはないでしょう。

世間から受け入れられない創価学会を社会に広めてもそれは押し付けでしかないですし、ましてやそれを無理やり強引に広めるのであれば、やがては恐怖社会となってしまうのではないでしょうか。

創価学会折伏にしても、創価が目指す「広宣流布」にしても、所詮は社会からは受け入れられない偏狭な考え方でしかありません。

そういう意味でも、創価学会が世間から嫌われているのは、「正しい」からではなく、間違っているから嫌われているのです。素直に考えればそれが当たり前だと思いますよ。

 

 

 

末法の正法の現実

創価組織の現実

ご無沙汰してます、トウガラシです。

創価学会ではそろそろ財務の申込みの時期ですね。

私は数年前に財務は断わり、もう私のところには申込用紙は持ってこなくなりました.。

父が亡くなった時、学会葬だったのですが、私が頼んだわけでもないのに学会員が勝手に取り仕切って葬式を進めたので、私としては別に恩を感じているわけではないのですが、それでも学会員が葬式のために動いてくれたことに引け目を感じ、介護のため実家で母と同居するようになって数年間は財務を納めてましたが、私はもう信じてもいない上に、介護のため収入も激減しているのに財務に出す金もないというのが実情なので、思い切って断わったのです。

母はそうでもないのですが、生前の父が創価の言うことに従順で、素直に財務を出していたので、息子の私が財務を断わった時、幹部は少し驚いたような顔をしてましたが、介護の実情を説明したら、相手もそれ以上はしつこく押してきませんでした。

おそらく母の介護という事態になっていないなら、しつこく財務を押しつけてきただろうと思います。

その創価学会、私は今までカルトではあっても曲がりなりにも宗教団体だと思っていたのですが、今では宗教団体とは世を忍ぶ仮の姿で、その実体は宗教ビジネス業者あるいは宗教詐欺の団体だと思っているところです。

その創価学会が宗教詐欺の団体であると実感させられる動画が出回っていますので、ここに紹介しておきます。

 

 

 

 

戦後の創価学会草創期の頃の音声ですが、これが創価学会の原点であり本質でもあると思います。

悩み苦しむ衆生を救うためなどではなく、悩み苦しむ衆生を騙して金を巻き上げるのが目的だったと言えるでしょう。

それにしても、この動画で最高幹部のおばさんが「お金なんかいらないんです。誰が金なんぞもらうか! ばかばかしい!」などと啖呵を切ってますが、結局創価学会は金を欲しがっているわけです。だから「誰が金なんぞもらうか!」と啖呵を切っていながらその舌の根が乾かぬ間に「100万円出せ!」と言ってるわけです。

それが本音だからです。

「世界広布にはお金がかかる」というのはもちろん詐欺トークでしかなく、創価首脳部が金を欲しがっているというのが実情です。

 こんな宗教をダシにした詐欺集団を今まで世界最高に正しい宗教などと思い込んできた、というより思い込まされていたんですから、本当にばかばかしい話でしかないです。

しかし、今でもこんな創価を正しい宗教だと信じて疑わない盲信者もまだまだいるわけですから、人間の愚かさには底がないなとも思ってしまいます。

創価の場合は「正法」ならぬ「商法」に長けている団体だと言えるでしょう。

 

 

創価擁護者の現実

創価擁護者の現実

こんにちは、トウガラシです。

世間からもカルトとして認識されている創価学会ですが、世の著名人・有識者・文化人の中には創価学会を絶賛している人物も少なからずいるものです。
学者や実業家、作家や評論家、芸能人やスポーツ選手などがそうですが、盲信学会員はそれら有識者や著名人が創価を絶賛しているからといって「これだけ世の中の識者や著名人から絶賛されてるんだから創価学会は本当に正しいだ」と得意気に喋ったりしてますが、
これら文化人が本当に創価を正しい宗教だと思ってるのなら、今頃は皆創価に入ってると思いますよ。
文化人が創価を絶賛しても学会員にはならないのは、やはり創価には入りたくないと思ってるからでしょう。
それでも創価を擁護するのは、ひとつは創価から何かと優遇されたりチヤホヤされれば「創価はすばらしい団体だ」と言わざるを得ないでしょうし、あくまでも外側から見ているだけだから実態をよく知らないで褒めてるだけということもあるでしょう。
もう1つは、創価の実態をよく知っていながら、金銭面で優遇されて創価を絶賛しているという文化人もいるでしょう。
近頃盛んに創価の雑誌に擁護記事を書いている評論家などは創価の裏を知っていながら創価の肩を持っているのではないかと思っています。
この評論家などは頭も切れる人物なんですから、創価の実態を知らないとは考えられないですがね。そこまでボンクラではないでしょう。

この人物はキリスト教徒だそうですが、創価を絶賛していてもキリスト教から創価に改宗する気はないようですから、キリスト教の方が正しいと思っているのでしょう。

だからこの評論家などは創価の実態を知っていても確信犯的に創価を擁護していると言えるのではないでしょうか。

このような有名人や有識者・文化人を優遇して創価擁護に利用するというのがカルトの常套手段だと言えますし、それを真に受ける側もあまりに単純で脳天気過ぎるのではないでしょうか。

 

 

ブレーキ役になれない公明党

反戦平和の現実

こんばんは、トウガラシです。

 

安保関連法案が自民公明の与党のみで採決されましたが、これで公明党が全く「暴走自民のブレーキ役」になっていないということが改めて浮き彫りになりました。

安保法案については、さまざまな意見があるとは思いますが、問題なのは、国民の多くが反対しているのに充分な審議も尽くさずに、国民の声を無視して与党のみで採決してしまったということです。まさに民主主義を揺るがす横暴な行為だと言わざるを得ません。

そして、その公明党に母体の創価学会が何の意見も出さないということです。

公明党に何も意見を出さないのに、聖教新聞には相変わらず「平和、平和」と、いかに創価学会が平和のために尽力しているかというような記事を書いてますが、ただのポーズでしかなく全くトンチンカンで白々しい限りです。

バリ活会員は小説『人間革命』の「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」という言葉に虚しさを覚えないんでしょうか。
それほど、創価学会公明党は言ってることとやってることが違い過ぎるんです。
きょうの聖教新聞1面には「躍動の座談会」などとノーテンキな記事が掲載されてましたが、信者に最重要な仏道修行であるかのように選挙戦で公明党支援をやらせておきながら、その公明党戦争法案を通したことには知らん顔して機関紙にはシラバックレてるような記事だけ書いてスマシているんですから、トボケルのもいいかげんにしろと言いたいです。

このような公明党をバリ活会員は次の選挙でも一生懸命応援するんですかね?

 

 

残念に思うこと

反創価

こんばんは、トウガラシです。

 

インターネットの時代になり、そのネットの力によって反創価運動が盛り上がってきている中で残念に思うこともあります。

それは、創価学会を批判しているアンチ創価の中に、同じアンチ創価を批判している人がいるということです。

同じアンチ創価といってもさまざまな主義思想の立場があるので、アンチ創価同士で批判するというのは致し方ない面もあるとは思いますが、しかし、せっかくの反創価運動の盛り上がりに水を差すことになってしまい、残念なことだと思っています。

 特に同じアンチ側から批判されているのは、前回の記事で私が注目しているブログとして紹介した『対話を求めて』です。

そこを特に批判しているのは日蓮正宗の信徒の人が多いようです。

『対話を求めて』に集ってる人は創価学会批判を通り越して宗祖の日蓮批判にまでいってる人が多いようで、それが日蓮正宗信徒の人からすれば我慢ならないのだと思います。

ただ、私としては日蓮批判にまでいってしまうのは仕方ない面があると思っています。

日蓮の思想には過激な部分もあり、それを利用したのが創価学会であったわけですから、創価学会の被害に遭った側からすれば創価憎しから宗祖の日蓮憎しとなってしまうのは理解できないことではありません。

 私もかつては、創価のようなカルトを生み出したのは日蓮の思想なんだから宗祖の日蓮にも責任があると思っていた時期がありましたが、その後、中立的な立場で書かれた日蓮に関する学術書を読んでいくうちに、日蓮の思想には確かに過激な部分や間違っていると思える部分があるにしても、日蓮には日本を救いたい、良くしたいという純粋な想いがあったのだろうと思えるようになり、それからは全てではないですが、ある程度は日蓮を評価しています。

 ただ、それでも日蓮を本仏とする考え方には賛同できないです。

私が評価し尊敬できるのは人間としての日蓮であり一宗教家としての日蓮だからです。

日蓮を宇宙根源の法と一体となった本仏として崇めるのは日蓮を創造神のような存在に祭り上げることになり、それはあまりにも話を大きくしすぎることになりますし、それに日蓮の本意でもないと思っているからです。

 話が少し逸れましたが、『対話を求めて』では日蓮に否定的な意見を言う人が多いとはいっても、その人たちも個人の信仰は自由であり何を信仰しても構わないと言っているのであり、問題としているのは創価のようにそれを無理に他人に押し付けることであって、それを批判しているわけですから、思想的立場が違うとしても、同じアンチ創価同士で批判するというのは控えた方がいいと思っています。

私も『対話を求めて』に書かれてある考え方全てに賛同しているわけではないですが、それでも立場や考え方の違いはそれはそれとして、反創価運動の先導者としてこのブログを評価しているのです。

さまざまな主義思想や立場があるアンチ創価という存在なのですから、少しの思想的な違いに目くじらを立てずに、創価批判という同じ目的に向かうべきだと私は思っています。

 

 

 

注目の反創価ブログ

反創価

トウガラシです。

私が今、最も注目している反創価ブログは『対話を求めて』というブログです。

こちらのブログは、私がインターネットを始めて間もない頃、創価の実態を知らされたブログの中の1つですが、
いくつもある反創価ブログの中で、今最も反創価運動の大きなうねりを巻き起こしているブログではないかと思います。
アクセス数が200万を達成したということで、私も遅ればせながらお祝いのコメントを書いてきました。
アクセス数200万、すごいですね。それだけ創価問題に関心を持っている人がいるということなんです。

それにしても時代の移り変わりを感じますね。
私が創価青年部で活動していた頃、活動しながらも創価にはいくつもの疑念を抱いていたのですが、それを幹部に相談しても、
「そんなことで悩むのは信心が足りないからだ」とか「もっと題目唱えろ。そうすれば解決する」などと、ほとんど何の解決にもならない適当な指導しか返ってこないので、
自分の思いを外部の人に伝えたいと思い、当時はまだインターネットなどなかったので、創価の疑問点を手書きで原稿に書き、それをいくつもコピーして小冊子としてまとめて、それらを知らない家のポストに入れたりしたものです。
まあ、そんなことしても社会に対して何の影響もない、自己満足の行動でしかなかったのですが、その頃は創価の問題を世の中に知ってもらいたいという思いがあってそんな役にも立たないムダなことをしていたものです。
本当は創価の問題点を指摘した本を出版したかったのですが、作家でもない自分が本を出すとなると自費出版しかなく、それだと費用もかかるし、第一、書店にも流通しないし、やはり世の人々の目に触れることもなく終わるだろうと思い、
それで私が次に行なったのは、新聞や雑誌の投稿欄に創価の問題点を投稿することでした。
当時はまだ新聞や出版社などのマスメディアの多くが創価に支配されているなどとは知る由もなかったので、新聞などに投稿すれば世の中に知らしめることができるんじゃないかと思ったりしてましたが、
何ぶんにも新聞や雑誌の投稿欄では文字数の制限があるので、自分の書きたいことのいくらも書けませんでした。
まあ、投稿したいくつかの原稿は新聞社に採用されて投稿欄に掲載されたこともありましたが、結局、創価学会の実名を出さない宗教一般の問題点としてしか書けませんでしたし、訴えたいことのほとんどは書けずに終わったのが不満でした。
その後はもう創価の問題点を世に知らしめるのは諦めていたのですが、それが今、インターネットの時代になって、こうして無料ブログで自分の言いたいことを何の遠慮もなく世の中に発表できる時代になったんですから、いやー、世の中、変われば変わるものですね。
やっと自分が夢見ていたことが実現できる世の中になったわけです。
そういう時代になったからこそ、今こそ創価学会の問題点を世の中に訴えていくべきだと思います。
その1つの大きな流れが『対話を求めて』を始め、反創価ブログによって巻き起こっていると言えるんじゃないでしょうか。
私のブログなど微々たる影響力しかないと思いますが、そんな私のブログでもその一端を担えるなら役に立っていこうと思ってます。
ついでに言うと、私も同じ思いを抱いている人々とコメントをやりとりして交流したいとは思ってるんですが、
コメントの1つ1つにすぐに返事を書けないかもしれず、また、反創価ブログには盲信学会員が荒らしコメントを書き込んでくるようなので、それらに対処するのも煩わしいので、
コメント欄は閉じています。
そういうわけで言いっぱなし書きっぱなしのブログですが、これからもよろしくお願いいたします。

 

 

 

活動家の現実

創価組織の現実

こんばんわ、トウガラシです。

このところ、ニュースでもワイドショーでもギリシャ債務不履行の話題で賑わってますが、チプラス首相の強気の発言や国民投票でのギリシャ国民の緊縮生活への反対表明などについて、ワイドショーでも司会者が「借金をするだけして、借金は払えないのです。生活費もこれ以上下げられないのですとギリシャ人は居直っている。ええかげんにせぇと言いたくなりますね」と呆れたように言ってましたし、ギリシャは借金を返すつもりがないし、返さなくてよいものだと思っているという話題で盛り上がってましたね。

週刊誌でも書いてましたがギリシャは「金なら返せん!」と居直っているありさまで、「緊縮策を実行する気はない、しかしEUは支援を続けろ」という虫のいい言い分を主張しているとしか思えませんね。

私はこのギリシャ危機の話題を見て、青年部の頃の活動家幹部のことを思い浮かべました。

活動家の全部とは言いませんが、特に創価脳全開の非常識な活動家幹部に、このギリシャのようなタイプの人間が多くいましたね。

とにかく、活動家の学会員には借金問題が多いです。これは事実です。

その借金も同じ学会員から借りることが多く、創価学会では会員間の借金や保証人は禁じてるんですが、そんなことは意にも介さず借りる者が多かったです。

学会員同士での借金トラブルは他の元学会員のブログでも書かれてますし、聖教新聞にも時々、「会員間の借金・保証人厳禁」という記事が載ってますが、それほど学会員間での借金問題は多いということなんです。

仕事も休んで創価のためにタダ働きをし、その上、金まで貢いでるんですから、借金までしてしまうのは当たり前と言えるでしょう。

私も頼まれると断れず随分貸したことがありますが、これが貸したらまず返ってきません。

その時の活動家幹部が今のギリシャと同じで、「金なら返せんけど、また貸してくれ」という、なかなかのド厚かましさでした。

相手からすれば、同じ創価の同志なんだから、金を貸すのが当たり前、借りた金は返さなくても当たり前という気持ちでいたようですが、まあ、世間から見れば非常識な人間でしかないでしょう。

このように書くと、金を貸すなら相手にくれてやるくらいの気持ちでないとだめだと言われるかもしれませんが、私が問題にしているのは、そういう会員間での借金トラブルのそもそもの原因は何かということです。

人間革命して崩れない境涯を築くために学会活動に励めと強制しているその創価学会に財産を搾り取られているのがそもそもの借金の原因なのです。

創価学会が原因なのに、いかにも下っ端の会員が勝手に金の貸し借りでモメているというように、責任を全て会員に押しつけている創価の体質こそ問題だと言ってるんです。

創価という支配者に財産を貢いで、奴隷同士が金の貸し借りで助け合い、それが元で奴隷同士でトラブルになっている、というのが創価学会の姿ではないでしょうか。

そもそも創価学会に支配されていることが不当なことなんです。

その創価に財産を差し出して、生活に困ったら他の会員から助けてもらうというのがバカバカしいことだと気づくべきなんです。

本来は信者を助けるためにあるのが創価学会という組織のはずなのに、創価の職業幹部を助けるための奴隷にされているのが創価活動家の現実だと言えるでしょう。

そういう簡単なことも創価脳の活動家は今だにわからないようですね。