きょうは何の日

2010/03/16

1986(昭和61)年3月16日「フィギュアスケーター・髙橋大輔が生まれた日」

1986年(昭和61年)3月16日「フィギュアスケーター・髙橋大輔が生まれた日」


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岡山県倉敷市に4人兄弟の末っ子として生まれた大輔。決して裕福な家庭ではなかったが両親は「元気に育って貰いたい」と子供たち全員にスポーツを習わせていた。そこでまず母・清登さんは少林寺拳法やアイスホッケーを薦めたがやりたがらなかった。しかしアイスホッケーの隣のリンクで練習をしていたフィギュアスケートに目が止まる。「なんてキレイなスポーツなんだろう...」唯一興味を持ったスポーツをやらせたいと大輔にフィギュアを習わせた。しかし少しでも費用を浮かそうと衣装は母の手作り。スケート靴のエッジも父親が研いだ。
無我夢中でフィギュアスケートに取り組むようになる。その練習時間は1日8時間にも及んだという。幼いころから魅せるフィギュアにこだわっていた。「フィギュアスケートで人を感動させたい」。練習に練習を重ね大輔の実力はみるみる上達する。西日本大会で優勝し、13歳でスロベニアで行なわれたジュニアの世界大会で優勝。
そして2005年、大輔がトリノ代表に選ばれると母・清登さんは「メダルを意識せず見てくれる人の心に残るスケート。自分の満足できる滑りをして欲しい。」と息子にエールをおくった。日本中の期待を背負いトリノオリンピックのリンクに立った大輔。ショートプログラム5位。このフリーの演技の結果によってはメダルを狙える圏内にいた。
課題は序盤の4回転ジャンプ。余りの緊張に頭が真っ白になり得意のステップもミス。
自分らしさを表現できないまま演技を終えた大輔に笑顔はなかった。悔しさはバネとなり彼はすぐに4年後のバンクーバーに照準をあわせた。
しかし2008年10月、練習中に右ヒザの前十字靭帯を断裂。半月板を損傷。2008-2009シーズンの全ての大会出場を断念したのだ。2年後のバンクーバーオリンピックに間に合うのか...。不安を押し殺しながらリハビリに励む毎日。しかし、思うように動かない体。痛みの取れない膝。大輔はあせり追いつめられていく。そして・・・。ついに大輔はフィギュアスケートから逃げ出す。母親やコーチに連絡せず何もしない毎日。

しかし、スケートから逃げても気持ちは楽にならなかった。衣装を作って応援してくれた母、それに応えられない不甲斐ない自分。
2週間後、大輔は再びリハビリと向き合っていた。「母や応援してくれる人たちのために滑りたい」そんな気持ちが自分の背中を押した。バンクーバーオリンピックの代表に選ばれ「奇跡の復活」と言われた大輔は2度目のオリンピックに出場する。ショートプログラムで3位につけた大輔。4回転ジャンプを回避して安全策をとれば、メダルも夢ではない。しかしそれでも「魅せるフィギュア」にこだわった。4回転を飛んだが転倒。しかし大輔は落ち着いて立て直す。世界の人々を魅了するスケートを滑りたい。長年夢にみてきたこの舞台で自分を表現しきった。演技が終わりガッツポーズをして満面の笑みを浮かべた息子はフィギュアスケートを始めた頃の姿と重なったと母は語った。
今日で24歳になる髙橋大輔。これからどんな演技を私達に魅せてくれるのだろうか...。

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