九月 02

新世代のディスコへ:ロンドンテクノ1989-1997

UKテクノ黎明期のロンドン周辺のアーティストとレーベルの歴史を振り返る

By Oli Warwick

 

UKはエレクトロニック・ミュージックの世界、特にハードコア、ジャングル、ドラムンベース、ガラージ、ダブステップにおいて、常にある一定の影響力を及ぼしてきた。しかし、アシッドハウスブームの影で、プロデューサーとレーベルの専心的なネットワークが、ソウルとシンセをデトロイトのあの革命的なサウンドと同義であるSFへの憧れと混ぜ合わせたサウンドを、一時的に生み出した。今回はそのサウンドの歴史をOli Warwickが振り返っていく。

 

The Black Dog, B12、Mark Broom、Statis、Baby Ford、Kirk Degiorgioなど、初期UKテクノに関わった多くのアーティストたちは、エレクトロニック・ミュージックの歴史おいて、ある程度の知名度を勝ち取ってきた。

 

ハウスが急速に人気を獲得していったUKで、オリジナルのUKテクノはゆっくりと成長を遂げていったが、1990年代初頭の数年間、デトロイトの伝統であるSF的ロマンチシズムにUK特有の奇妙で角張ったファンクを組み合わせるという、ロンドンのアーティストとレーベルのネットワークによる一連の動きがあった。クラブサウンドとホームリスニングの間で絶妙なバランスを取っていたこの音楽は、彼らの全体のヴィジョンを表現している(彼らにとっての現実が時として辛く孤独なものだったとしても)。

 

ロンドンを拠点とするプロデューサーBen Simsは、地元でテクノが動きを見せ始めた当時、このシーンを外側から見ていた。「その頃のプロデューサーの多くは『アシッドハウスを見出したヒップホップファン』出身で、それは奴らの音楽に現れてたね。アティテュードを多少押し出していたし、ブレイクやサンプルを使っていたけど、同時にデトロイトとシカゴからの大きな影響が感じられるサウンドだった」

 

「初期のThe Black DogやB11は、KnowledgeやRageのようなパーティでプレイしていた。時代が変わりつつあるんだなって思ったね。レイヴはどんどん巨大化して知性が失われていったし、プレイされる音楽もドラムンベースや初期ジャングルがメインになっていったから、UKのエレクトロニカというか、まぁ、それをどう呼んだって構わないが、彼らのような音楽はそこからの脱出を表現するものだった。あれがUKテクノシーンの正式なスタートだったのさ」

 

The Black Dog

 

多くの人は「The Black Dogが自主レーベルからリリースしたデビューEP『Virtual』が、テクノの新しい抽象的イメージを作り上げた」という意見に賛成するだろう。The Black DogはEd Handley、Andy Turner、Ken Downieの3人によるユニットだった。

 

 

Turnerが説明する。「俺たちが一緒に活動を始めたのは、Kenが音楽雑誌にアシッドハウスの制作に興味がある人を募集する広告を載せたあとだね。Edがその広告を見てKenに連絡したんだ。当時の俺はオールドストリート付近にあった海賊ラジオ局でDJをしていて、Edとは昔からの友人だった。それですぐにEdに誘われたんだ。Edと俺はエレクトロを聴いて育った仲で、ロンドンのウェアハウスシーンが活発になってきた80年代中盤から後半にかけてはレイヴで遊んでいた」

 

タイトルトラック「Virtual」のコード展開やスタブ、ヴォーカルサンプルにはレイヴの影響が見て取れるが、シンセの柔らかいアタックや整然としたドラムブレイク、風変わりなアレンジやスピリチュアルな雰囲気は、当時一般的だった、威勢が良い、興奮を煽る音楽とは一線を画していた。そして、伸びの良いパッドとデリケートなドラムパターンを擁する「The Weight」は、アンビエントテクノを更に明確に打ち出したものだった。

 

RECKLESS & FAT CAT

 

「The Black DogのEdとAndyが、俺に会いにReckless Recordsへやってきた」Kirk Degiorgioが振り返る。「2人には『Kenって奴と知り合ったんだけど、あいつはロンドンの中心に小さなスタジオを構えていて、今一緒に音楽を作っているんだよ。あんたも良かったら参加して、アイディアを加えてみないか?』と誘われたんだ。丁度『Virtual』をリリースした頃だったね」その後、As Oneを含む様々な名義でキャリアを築いていくことになるDegiorgioだが、当時はソーホーにあったReckless Recordsで働いており、その仕事が、盛り上がりつつあったこのシーンの中心に彼を置くことになった。「ファーストリリースのコピーをReckless RecordsのボスだったPatrick Forgeに渡すと、彼はその中からブレイクビート寄りなトラックを選んで、その日のKiss FMでプレイした。彼の直後にColin DaleかColin Faverのどちらかが、そのレコードのテクノ寄りなトラックをプレイしたのさ。それで翌週になると、俺はAndyとバンに乗って、そのレコードをパーソンズ・グリーンにあったJazzy Mのレコードショップや、Black Marketなどに卸して回ったんだ」

 

 

 

"金曜日の夜にパーティへ出掛けて、土曜の朝にFat Catの店先で眠って開店を待ったって話は良く聞いたね"

- Ben Sims

 

 

 

音楽の発展におけるレコードショップの役割は今も昔も大きい。サウンドシステムの爆音に邪魔をされずに人と直接会える場所であり、新しい音楽に出会える場所だった。Reckless RecordsもUKテクノのこのような初期リリース群において重要な役割を果たしたが、ハウスやテクノを求める人にとって人気のレコードショップだったのはFat Catだという意見には多くの人が賛同するだろう。1989年にサリー州クロウリーで始まったFat Catは、翌年ロンドンのコベントガーデンに移った。このショップはIn-Sync名義でIrdial-Discsから名作EPの数々を生み出したLee Purkissを含む数人によって生み出されたものだ。

 

Ben Simsが振り返る。「80年代中盤からウエストエンドのレコードショップ巡りを続けていた俺にとって、Fat Catはその中のひとつに過ぎなかった。だが、すぐにテクノやシカゴハウス、エレクトロニカならあそこだって感じになったのさ。あそこじゃないとダメだった。例えばAxisのプロモが入った時にカウンターで手を挙げて買わないと、どんなに頑張っても他では手に入れられなかったのさ。金曜日の夜にパーティへ出掛けて、土曜の朝にFat Catの店先で眠って開店を待ったって話は良く聞いたね」

 

B12

 

Steve RutterとMike Goldingの2人もデトロイトテクノの登場によって人生を変えられた。Rutterが振り返る。「Rytheim Is Rhythimの『It Is What It Is』を最初に聴いた時、『なんだこの音楽は?』って思ったのを憶えてるよ。あのサウンドを真似したいと思ったのさ。パクろうって話じゃなくて、UKバージョンを作りたいと思ったんだ。あの作品が種を撒いたのさ。そしてそれは今でも残っているね」

 

Akai AX80のお気に入りのプリセット番号(Larry Heardのサウンドに聴こえたため)からB12 Recordsと名付けたレーベルをスタートさせたRutterとGoldingは、Musicology名義でファーストシングルを自主リリースした。Richie HawtinとJohn AcquavivaのPlus 8に影響を受けた彼らは、匿名性を取り入れ、デザインに一貫性を持たせ、意味深なSF的メッセージをレコードの溝に彫り込んだ。その細部まで拘った彼らの姿勢は実を結んだ。そのデザインと音楽により、多くの人たちがこのレーベルをデトロイトのレーベルだと考えたのだ。

 

 

「Mike GoldingはReckless Recordsへ来ては、俺が買い付けたレアなUS盤を大量に買い込んでいたんだが、ある日、自分の作品を聴かせてくれた。それがB12のファーストリリースで、奴はRecklessで買い取ってくれないかと頼んできたのさ。それで俺はMikeと親しくなった。A.R.T.(Applied Rythmic Technology)をスタートさせるきっかけを与えてくれたのも奴さ」

 

Musicologyの12インチで成功を収めたRutterとGoldingは、Redcellや2001、Cmetricなどの複数の名義を使い分けて、この新しいサウンドがどこから来たのかを理解しようとするトレインスポッターたちを煙に巻きながら、神秘性を維持した。この発芽しつつあった初期UKテクノにオープンな姿勢を保っていたのは、DegiorgioとSteve “Stasis” PicktonだけだったとRutterは振り返る。そしてDegiorgioは1991年にB12 RecordsからファーストEPをリリースした。

 

「俺が最初に作ったデモをMikeがB12からリリースしたんだ。俺はそのあとすぐにA.R.T.からファーストEPをリリースして、これはPlanet Eにライセンスされた。そのお礼にCarl CraigからEPのオファーをもらったよ」と振り返るDegiorgioは、デトロイトテクノを代表するアーティストたちと強力なコネクションを持つUK初のアーティストのひとりとなったが、これは1989年にケンティッシュ・タウンのTown & Country ClubでInner Cityがライブをした際にDerrick Mayと出会ったのがきっかけだった。Degiorgioが着ていたTransmatのロゴをあしらったブートレグTシャツがDerrick Mayの目に留まり、その後長年続く友情が培われると、DegiorgioはReckless Recordsの買い付けのためにデトロイトやシカゴへ飛ぶようになったのだ。

 

PURE PLASTIC

 

Ed HandleyとAndy Turnerは、この黎明期にかなり手広く活動を展開していった。2人はKen Downieと共に進めていたThe Black Dogの他にも、当時はよく見られた、様々なコラボ−レーションや複数の名義での活動を展開していた。HandleyはBalilとClose Up Over名義、TurnerはAtypicやTura名義で活動を展開し、2人だけでトラックを制作するためのPlaidもこの頃にスタートさせた。しかし、The Black Dog以外でTurnerとHandleyが得た最も有意義なコネクションのひとつが、Mark BroomとDave Hillであり、4人はスモーキーで、時として驚くほどダウンテンポなトラックをRepeat名義で制作した。

 

Repeat名義の作品の殆どはBroomとHillのレーベルPure Plasticからリリースされているが、1994年にスタートしたこのレーベルは初期UKテクノのイノベイターたちを結びつける存在になった。Pure Plasticを通じてBroomが知り合った重要なアーティストのひとりが、Baby FordことPeter Adsheadだった。Fordのエレクトロニック・ミュージックにおける活動は他の多くのアーティストよりも長く、既にアシッドハウス時代初期から「Oochy Koochy」などの作品群で評価を得ていたが、Broom、Hill、Handley、Turnerなどが本領を発揮していく中、彼もまた感情的でアンビエントなテクノを制作するようになっていった。

 

 

 

「Baby FordにはFat Catで出会ったんだ」Broomが説明する。「奴と話していたら、NudeってパーティをIan B(Eon名義でも活動)と立ち上げるって言っていた。そのパーティはレスター・スクウェアのMaximusってクラブで日曜日の夜に開催されていた。それで俺が自分のミックステープを渡したら、奴は気に入ってくれたんだ。そこから仲良くなったのさ」

 

Nudeは日曜日の夜というスケジュールの悪さが原因となり、そこまで大きな成功は収めなかったが、BroomとFordが定期的にコラボレーションを重ねていくきっかけとなり、2人のトラックはPure PlasticとFordの主宰するIfachからリリースされた。IfachからはFord自身のトラックを始め、BroomとHillによるよりエレクトロ寄りのプロジェクト、Sympleticのトラックや、Broom、Hill、Ford、Turner、HandleyというオールスターラインアップによるBaird Remoのトラック、そしてFordとIan B(大半はMinimal Man名義)のトラックなどがリリースされた。

 

STASIS

 

Steve PicktonはStasis名義のその特徴的なサウンドで、UKテクノを真の意味で定義づけたアーティストのひとりとなった。他のアーティストと同様、彼もPhenomyaやPaul W. Teebrookeなど複数の名義を使い分けており、これがある意味、彼の謎めいたイメージを維持することになったが、本人はDegiorgioやBroom、Goldingなどと親密な関係にあった。

 

「Steveはファンキーな奴だったよ」Broomが振り返る。「かなりのレコードコレクターでね。ソウルやファンク、ディスコのレコードを大量に持っていた。俺が出会った中で、ブレイクのネタを言い当てるのは奴が初めてだった。奴の音楽を聴けばそれは理解できる。奴の音楽にはソウルがあったし、数多くの素晴らしいアナログサウンドも詰まっていた。凄くユニークなサウンドさ」

 

 

1993年にシーンに登場したPicktonは、Pure Plastic、A.R.T.、B12、そして短命に終わったLikemindなどでリリースを重ねると、のちにPeacefrogからもリリースしたが、これは彼の音楽が幅広くアピールしていたことの証しだ。Peacefrogからの作品群で特に有名なのが『Inspiration』、『Fromtheoldtothenew』の2枚のアルバムだが、このレーベルからはThe Other World Collective名義でも作品をリリースしている(注1)。

 

注1:このリリースに関するDiscogsの投稿が正しければ、本人はある程度の誇りと共に、このEPが当時のPeacefrogで最も売れなかった作品だったと告白している。

 

シーンの拡大

 

UKテクノの基礎となったこれらのアーティストやレーベルたちの登場から、この萌芽しつつあったスタイルで独自の視点を表現しようとするアーティストや、自分の音楽をより多くのオーディエンスへ届けたいと願うアーティストたちが登場するまでは、さほど時間はかからなかった。

 

DegiorgioはUKテクノが独り立ちを始めていた当時について次のように振り返る。「The Black Dogの一連のEP群がリリースされる頃には、既にPlaidのアルバム『Mbuki Mvuki』もリリースされていたし、B12は5、6枚のリリースを終えていた。俺もA.R.T.からリリースをしていたし、Dave AngelもR&Sから数多くの秀作をリリースしていた。その直後に、Grant Wilson-Claridgeという男がReckless Recordsへホワイト盤を持ち込んできたのさ。その盤には『Digeridoo』や『Analogue Bubblebath』などが収録されていた。あれがAphex Twinの始まりだったんだ。それから2週間ほどすると、今度はTom Middletonって男がEvolutionのレコードを持ち込んできた。あの頃にはもうブームになっていたんだ。5つか6つのレーベルが立ち上がっていて、お互いに繋がっているように思えたね」

 

この頃、コーンウォール出身のWilson-ClaridgeとRichard D. Jamesは既にRephlex、をスタートさせており、(この記事に合わせて表現するならば)Aphex Twin現象の始まりはUKテクノではなく自分たちが作り出した世界に存在していた。また、Tom MiddletonはMark Pritchardと共に、Link & E621、Reload、Global Communicationなどの名義で活動を展開。Russ GabrielはFeroxを始動させ、Luke Slaterも自身の道を歩み始めようとしていた。

 

Russ Gabrielが振り返る。「昔はポーツマスのJelly Jamってレコード屋に通っていた。そこではLuke Slaterが働いていて、奴に素晴らしい音楽をいくつか紹介してもらったね。1993年にFeroxをスタートさせた頃は、奴が自分の手元に届いていた新人のデモテープを俺に渡してくれていたんだ」

 

 

シーンのハブだったイーストロンドンとエセックスにより近い場所では、A13がLA SynthesisやRepeat関連など、より関連性の低いアーティストたちをサポートしていた一方、General Production Recordingsは数多くのアーティストの初期作品をリリースし、力強い活動を展開していた。Wayne Archboldが築き上げたこのレーベルからは、The Black Dogの12インチ群や前述したPlaidのアルバムなどの他に、ヨークに拠点を置くBeaumont Hannantによる難解なスタイルや、より挑戦的なJohn DalbyやGerm(Tim Wrightの初期名義)なども浮上させることになった。多くの人たちが認めるGPRの功績のひとつが、Luke Slaterの7th Plain名義のアルバム『My Yellow Wise Rug』と『The 4 Cornered Room』で、特に『The 4 Cornered Room』は現在でもUKテクノの重要な作品として位置づけられている。しかし、当時のGPRのビジネスの手法について複雑な気持ちを持っているアーティストも少なからず存在する。

 

「GPRとの時代は良い思い出がないね」Turnerが振り返る。「Wayneはアーティストに支払わない主義で、俺たちとの関係が希薄になったのさ。奴は優れた音楽をリリースしたが、最初から存在していたわけじゃなかった。既存のシーンに乗っかっただけさ」

 

この一連の動きから一歩外にいたのがIrdial-Discsだった。Akin Fernandezが立ち上げたこのレーベルは、当時の音楽の進歩に貢献したが、このレーベルの仕事の進め方は、商業面や社会性など、音楽以外の部分については独自のやり方を徹底的に貫いていた。

 

Fernandezが説明する。「Irdial-Discsを始めたのは、単純にそこにリリースすべき音楽があって、それをリリースしたいという理由からだった。自分たちのやり方が最終的には正当に評価されるということを知っていたし、売れるかどうかは気にしなかった」

 

 

Irdial-Discsは1987年にスタートし、Fernandezの様々なプロジェクトをリリースしていったが、その中で最も有名なのがAqua Regia名義だ。また、このレーベルは1992年にLee PurkissのIn Sync名義による永遠のクラシック「Storm」や、故Matt CoggerによるNeuropolitique名義のファーストシングル、そしてLuke SlaterのMorganistic名義による「In the Shadow」など、UKテクノ史に名を残す強烈な作品群をリリースした。

 

Irdial-Discsは、その挑戦的な態度にも関わらず(そして恐らくこれが原因だったと思うが)、UK産エレクトロニック・ミュージックにおける重要レーベルとして自らを確立した。その突飛な作品を好む傾向(Fernandez個人の作品において特に顕著だった)から、このレーベルのスタイルには一貫性がなかった。

 

「1990年代におけるIrdial-Discsに対するDJの評価は真っ二つに分かれていた」Ramjac CorporationことPaul Chiversは振り返る。「あのレーベルの作品は好きか嫌いかのどちらかだった。Akinは『レフトフィールドのリーダー』、『チャートではなく、心に残る音楽』をレーベルのスローガンに掲げていた。そしてそれはのちに『聴く気がない奴にはファック・ユーだ』に変わったのさ」

 

ベッドルームスタジオの先へ

 

UKテクノを追求する様々なアーティストがレコードをリリースし、成功を収めていく一方で、このサウンドとクラブシーンとの関係は不安定だった。「UKテクノの大半はあからさまにクラブ寄りのサウンドじゃなかったから、このサウンドだけを取り上げるクラブはそこまでちゃんと存在していなかった」Degiorgioが振り返る。「全部ごちゃ混ぜだったね。例えばDungeonsやLabyrinthのようなクラブのサウンドはクロスオーバーで、純粋なテクノが聴けると同時に、The Blapps Posseのような勢いのあるラフなラガのブレイクビーツ的なトラックも聴けた」

 

B12やPlaidにとって、初期のライブパフォーマンスは、スタジオのほぼすべての機材をヴェニューに持ち込んだ上で、右肩上がりに盛り上がる派手なパーティ・ミュージックを楽しむのに慣れているオーディエンスを相手にしなければならなかったため、不確定要素が多いものになりがちだった。

 

Turnerが振り返る。「活動初期からライブを始めたんだ。最初のギグはキングスクロスのヴェニューで、シンセとドラムマシンを持ち込んでフロアに座ってた。当時はかなり奇妙なスタイルんだったんだ。ヴェニューのエンジニアから『楽器はどこだ?』って訊かれる時も多かったね」

 

また、Rutterは「本格的なレイヴにブッキングされることがあっても、B12としてアンビエントというか、そんな感じで呼ばれる音楽をプレイしていたんだ。オーディエンスには『こいつら何やってんだ?』って睨まれるから、いつもビビってたね」と振り返っている。

 

 

しかし、イーストロンドンのCable Street Studiosには、90年代初期のほとんどのパーティで見受けられたレーザーとうつろな目に満たされた派手な祭りのオルタナティブに相当するユニークな集まりがあった。Spacetimeと呼ばれていたそのパーティは、Mia Mannersと彼女のビジネスパートナーで、Adamski & Sealの「Killer」のビデオクリップで使用され、のちにMixmaster Morrisのトレードマークとなるホログラフィックな衣装をプロデュースしたことで知られる、Richard Sharpによって企画されたものだった。Mia Mannersは当時を次のように振り返る。「Spacetimeをスタートさせてすぐに、ちょっとしたソワレ(夜会)を開くようになったの。それが徐々にパーティになっていって、素晴らしい空間があるって噂になり始めると、みんなが来るようになったのよ」

 

Spacetimeという生地に縫い込まれたアーティストには、Jonah Sharp(Spacetime ContinuumとしてサンフランシスコにUK産アンビエントテクノを持ち込むことになった)、前述のMixmaster Morris、OrbitalのPaul Hartnoll、Mr Cなどがいた。しかし、ラインアップよりも大きな意味を持っていたのが、その精神性で、彼らにとってヘドニズムな狂騒は二の次だった。彼らはアンビエント系エレクトロニカと、ディープでエクスペリメンタルなテクノを中心に据えていた。また、広大なスペースだったためライブパフォーマンスも可能だった。

 

「Spacetimeは1992年に終わったわ。スタジオから追い出されたのよ。でも、終わるしかなかった。700人しか入れないのに、1000人が押しかけていたんだから。屋上に出る人もいたし、『Spacetimeでパーティやってるぜ』ってみんなが噂する状態になっていたのよ」

 

同年、Colin DaleとColin Faverが各自展開していたKiss FMの番組でプレイしていたテクノに共通点を見出し、何か一緒にできるのではないかと考えた2人はBrenda RussellとJane Howardを加えた4人で、ビクトリア駅付近にあるクラブ、SW1でKnowledgeと呼ばれるパーティをスタートさせた。

 

タフなテクノと、有名なインターナショナル・アーティストを妥協することなくセレクトしていたKnowledgeは、水曜日開催だったものの、すぐに成功を収めた。Russ Gabrielが振り返る。「俺がロンドンで頻繁に顔を出すようになった最初のパーティだったね。SW1のKnowledge、そしてホルボーンのDeep Spaceは、Colin DaleとColin Faverが仕掛けたパーティだった。当時の俺は2人の番組を崇拝していたから、番組でプレイされていたトラックをクラブのサウンドシステムの爆音で聴けるのは最高だったね。Deep Spaceにはアンビエントのフロアもあったから、そこのクッションの上に目を閉じて寝転がって長時間過ごすこともあったな」

 

 

しかし、UKテクノの歴史の中で大きな位置を占めるロンドン発のパーティがあるとすれば、それはLostだ。Steve BicknellとSheree Rathitが1991年にスタートさせたこのパーティは、ウェアハウスを利用して純粋主義者的アーティストを招聘するというスタイルで、いち早く最も先進的なテクノアーティストたちをUKに紹介することになった。実際はインターナショナルなアーティスト(特に長年に渡るJeff Millsとの深い関係)の招聘が大きなウエイトを占めていたが、ロンドンで起きつつあった、より難解なUKサウンドのためのフロアも常に用意されていた。

 

Ben Simsが振り返る。「LostはUKの次世代のプロデューサーたちが集まる場所になると同時に、彼らが育っていく場所になった。ウェアハウス、メンバーオンリーとゲストだけのポリシー、スモークマシーンとストロボだけのシンプルなフロア、そしてリアルな音楽のLostは、ルーツに戻った感じだった。Jeff Mills、Robert Hood、Richie Hawtin、Basic Channelなどを初めてブッキングしたのもLostだった。だが、Statis Mark Broom、Kirk Degiorgio、Luke Slater、Plaid、Fat Catの連中、Colin Dale、Colin Faverなど、UKのアーティストたちも呼んでいたから、パーティとしてバランスが良かった。タフで生々しいサウンドがメインフロア、ハウスやエレクトロニカに近いスタイルが他のフロアで展開されていたんだ」

 

Lee SmithによるResident AdvisorのLostの特集記事では、「 “ブルー” と “パープル” のフロアはそれぞれが小さなイベントとして成立していくようになった。Mixmaster Morrisのアブストラクトなエレクトロニカへの小旅行や、The Black Dogのようなアーティストによる非常に複雑で実験的な音楽だけを聴くために訪れる人たちがいた」と記されている。

 

当然、これはロンドンでカッティング・エッジなテクノが聴けた場所の一部でしかない。この頃はAutechreに代表される、よりエクスペリメンタルなサウンドのプラットフォームとなったブリクストンのQuirkyのようなクラブも存在した。また、フェスティバルもこの手のサウンドに徐々に手を出すようになり、アーティストたちはより大きなサイズのオーディエンスに向けてプレイする機会を得ていった。このより幅広い層からの支持を、ある程度促進した存在がWarp Recordsで、『Artificial Intelligence』シリーズに繋がるロンドンのシーンと彼らの関係は、この音楽の1990年代半ば以降の発展に大きな影響を与えることになった。

 

 

 

"契約書を見ながら『この手の音楽のアルバムを6枚続けて買う奴なんているか?』って言ったんだ"

- Steve Rutter(B12)

 

 

 

外側からの影響

 

B12のSteve Rutterが振り返る。「その頃の俺たちは6、7枚のリリースをしていたんだが、ある日、『ロンドンのエレクトロニック・アーティストたちはどこどこのパブの2階に何月何日の何時に集まるように』と書いてある差出人不明のFAXが届いた。俺たちが指定されたパブの2階へ上がると、アーティストが沢山来ていたんだ。The Black Dogの連中は知っていたし、あとはA Guy Called Gerald、Cabaret Voltaireもいた。お互いちょっとよそよそしい感じで、特に会話はなかった。すると「君たちがB12かな?」と話しかけてくる奴がいた。それがWarpのRob Mitchellだったのさ。ナイスガイでね。俺たちの音楽を気に入ってくれていた。俺たちを含め、複数のアーティストは彼からアルバム6枚の契約を提示されたが、俺たちはサインしなかった。Mike Goldingとその契約書を見ながら話をして、『この手の音楽のアルバムを6枚続けて買う奴なんているか?』って言ったのを憶えているよ。しかも契約の条件には、EPを自主リリースできなくなることが含まれていたんだ。だから俺たちとしては、B12がアーティストとして飛躍するチャンスというよりも、B12 Recordsの終わりのように感じたのさ」

 

この会合は、Warpがのちに『Artificial Intelligence』シリーズに収録することになるロンドンのアーティストたちと契約を始めるきっかけとなったが、Degiorgioは、実はこの会合を仕切っていたのはWarpではなかったと振り返る。「ジャーナリストというか、PRを仕事にしているJonesって奴がいて、そいつが俺たちを集めて、ひとつのコレクティブとして扱おうとしていたのさ。あの場所にはAphex Twin、Grant(Wilson-Claridge)、A Guy Called Gerald、B12、The Black Dog、俺が集まっていて、そこでそのPR担当のJonesと会ったのさ。奴は俺たちを『新しいUKテクノのムーブメントを担う集団』のような存在にしようとしていたんだが、俺たちは全員インディペンデントだったし、結局そうはならなかった。それぞれが自分のやりたいことをやっていったのさ。個人的にはそれで良かったと思うね」

 

「WarpのRobは、俺たちが『Mbuki Mvuki』をリリースしたあとのタイミングで連絡を取ってきたんだ」現在ももWarpから大半の作品をリリースしているAndy Turnerが振り返る。「彼は初期Plaidの『Scoobs in Columbia』をかなり気に入っていたんだ。当時のWarpはまだ数枚しかリリースしていなかった。実際、The Black Dogが初めてWarpからリリースしたアルバム『Bytes』も、Warpとしてはまだ9枚目だった。それでも、彼らは既に高評価を得ていたし、自主レーベルを経たあとで、GPRの残念な仕事ぶりや、彼らのアーティストへの不誠実な態度を経験していた俺たちにとっては大きな一歩になった。Robは俺たちにとって初めてのA&Rで、アドバイスや必要なものを与えてくれた。ビッグブレイクになったのさ」

 

 

前述した通り、会合には慎重な態度で臨んでいたB12だったが、のちにWarpとアルバム1枚の契約を交わした。「俺たちはRedcellやMusicologyなどの名義を使ってB12 Recordsから様々な作品をリリースしていたが、Warpとはどの名義でリリースするかという話さえしていなかった。それで俺たちが作品を提出すると、彼らは "B12『Electro-Soma』" というパッケージを用意した。俺たちは『B12って誰だよ?』って思ったね。だが、Robは俺たちの作品を褒めてくれて、マーケットの状況を説明してくれた。彼らにはしっかりとしたヴィジョンがあったし、世の中で何が起きているかを理解していた。俺たちはそうじゃなかったのさ。だが、そこに彼らがつけいることはなかった。あれは良かったね」

 

一方、Kirk Degiorgioの会合での体験はより複雑で、以降、両者は山あり谷ありの関係を築いていくことになった。「あの会合は酷かったね。話し合いはしたし、B12やThe Black Dog、Aphex Twinは契約をしたが、俺の場合はエレクトロニック・ミュージックの遺産や立場について彼らと激しい議論をすることになったんだ。彼らは『自分たちはシェフィールドのレーベルで、Human LeagueやCabaret Voltaireなどがルーツだ』と言っていたが、俺は『そんな奴らは関係ない』と言った。俺にとってのテクノは、エレクトロやPファンクがルーツだった。俺はディスコやソウル出身だからね。だが、彼らは『君は間違ってるよ。このシーンはソウルファンの連中が集まるシーンとは違う。シンセポップの延長上にあるんだ』と言ってきた。俺は『くだらないね』と返したよ。それで会合は終わりさ。あの日から独自の道を歩んでいったのは俺とA Guy Called Geraldだけだったと思う」

 

 

このように人によって異なる印象を与えた会合だったが、『Artificial Intelligence』シリーズがUKテクノシーンの発展に大きな影響を与え、世界レベルでの認知に貢献したのは疑いようのない事実だ。このシリーズはRichard D. JamesのThe Dice Man名義、B12のMusicology名義、Ken Downie(The Black Dog)のI.A.O.名義などによる楽曲が盛り込まれた1枚からスタートし、2枚目にはPolygon Window、Black Dog Productions、B12などが収録された。

 

1993年3月にはこのシリーズのリリースパーティがロンドンで開催された。Mark Broomが振り返る。「Ministry Of Soundで開催された『Artificial Intelligence』のリリースパーティでプレイした時のことを憶えているよ。あのアルバムは俺たちが遊びで作っていた音楽が、シリアスな存在になり得るということを示したんだ」

 

Warpは特定のアーティストをエレクトロニック・ミュージック探索の新たな地平線へ向かわせていったが、1994年になると急成長を遂げていたJames LavelleのレーベルMo Waxが、『Excursions』シリーズを通じてこの音楽のソウルフルでレアグルーヴ的側面を打ち出していった。今振り返ってみると、これは意図的ではなかったにせよ、「インダストリアルやシンセポップのルーツとするテクノ」と対立する立場を取っていたと言える。これはまさにDegiorgioがWarpと相容れられなかった部分だ。 

 

 

 

このシリーズは2年に渡り展開され、DJ Solo & DJ Auraのドラムンベースから、DJ ShadowやThe Prunesのストレートなダウンテンポまでを含むかなり多様な音楽がリリースされたが、ことさら印象的だったのは、Mark Broom、Dave Hill(Midnight Funk Association名義でEPをリリース)、Baby Ford(Twig Bud名義で活動)、Stasisの起用だった。Broomに至っては、シリーズのCDコンピレーションの2枚目でDJミックスも担当した。

 

「James LavelleはUKテクノに注目したんだ。でも、彼の場合はヒップホップとテクノをミックスしようとしたのさ。当時俺はMo Waxで働いていた女性と付き合っていたから、奴らのオフィスには良く顔を出していたし、Jamesとは良くつるんでいた。Will Bankhead(Trilogy Tapes主宰)もいたね。奴はJamesの右腕で、Jamesよりもテクノ寄りだった。奴は『これだよこれ!』って言ってたね」

 

このシリーズにおけるStasisの作品群は、他のレーベルからの彼の作品群と大差はなく、サンプルベースのファンクと異世界的なシンセサイザーの実験の間に横たわっているUKテクノのグレーゾーンに上手く光を当てていた。また、この『Excursions』シリーズと並んで、Mo WaxとUKテクノシーンとの重要な接点(Urban Tribeなどのデトロイトのテクノアーティストとの連携は言うまでもないが)になったのが、Kirk DegiorgioのAs One名義としての契約だった。オリジナリティに富んだコンピレーション『Headz 2B』の1曲を経て、1997年にリリースされたアルバム『Planetary Folklore』は、かつてはひとまりだったUKテクノシーンが様々な方向に分化しつつあることを明確に示す作品となった。

 

スタイルの分化

 

「Warpがよりアカデミックで、白人的解釈のシンセサイザー・ミュージックを推していく中、俺は相変わらずソウル、ファンク、エレクトロのルーツを重視していた」Degiorgioは説明する。「Mo Waxと『Excursions』はその俺のサウンドを気に入ってくれたが、当時の俺たちに大きな影響を与えていたのがドラムンベースだった。ドラムンベースがテクノシーンを二分したのさ。『Artificial Intelligence』に参加したアーティストたちはブレイクビーツに影響されていて、それは言うならばドラムンベースを真似したようなものだった。ドリルンベースとかがそうさ。俺はPhotekと一緒に制作をスタートさせたし、Peshayをはじめ、のちにMo Waxでリリースすることになった多くのアーティストたちにのめり込んでいった。シーンの中にははっきりとした境界線があった。ドラムンベースが分断したのさ。テクノアーティストの多くはドラムンベースを嫌い、馬鹿にしたが、俺たちの多くは気に入っていた。ジャズファンクのルーツが感じられたからさ。1990年代のテクノは、ハード且つダークで、その大半は俺にはピンと来なかった。BPMも速くて、ヘヴィーでインダストリアルだった。だから俺はそっちのシーンにはほとんど関係なかったのさ」

 

 

ハードコア、ジャングル、ドラムンベースの進化がテクノアーティストの分断に影響を与える一方、外部からの影響を殆ど受けていないように思えるシーンの変化もあった。Mark Broomはトライバルでループ重視なスタイルへと移行していき、Plaidは1997年頃までにはエレクトロニカというフィールドから大胆に外へ踏み出した、Warpからの1枚目のアルバム『Not For Threes』をリリースしていた。Baby Fordも徐々によりミニマルな方向性へシフトしていき、1997年のアルバム『Headphoneasy Rider』でその片鱗を見せると、自身のレーベルPAL SLで更に押し進めていった。

 

「実際に何がシーンを変えた、もしくは分けたのかをピンポイントで指摘するのは難しいね」1998年頃にはTheory Recordingsを立ち上げ、自身の制作活動をスタートさせていたBen Simsが回答する。「確かに多くのアーティストたちがクラブ寄りのトラックの制作とDJに取り組んでいたし、Warpのようなレーベルの台頭がこの音楽の進化を提唱し、エレクトロニカのアルバム制作をして、アーティストとして成長することをシーンに促していた。だが、個人的には、単純にシーンが多くのサブジャンルに分化していっただけだって思ってるよ。そこになにかしらの共通点は感じられたけどな」

 

 

オリジナルのスピリットが変化、または浸食され、UKテクノが様々な形式に分裂していったというこの時期を最も簡潔にまとめているのが、B12の1998年からの活動休止だろう。「俺たちが活動を休止した頃、Aphex Twinは俺が理解できない音楽を生み出していたのさ」Rutterが説明する。「グリッチまみれのつんのめるような音楽でね。そして彼に続いてSquarepusherが出てきたのさ。俺は『この手の音楽は好きじゃないし、作れもしない。多分世の中が変わったんだろうな』って思ったよ。俺たちは『もうやめよう』とはっきり口にすることはなかったが、Rob Mitchellと一緒にフェスティバルに向かった時、まるでネジを詰めた箱を振っているようにしか聴こえなかったAphex Twinのサウンドにオーディエンスが発狂している様子を見た時のことは良く憶えているよ。別に彼の音楽がクソだったって言いたいんじゃない。ただ俺は理解できなかったんだ。何千人ものオーディエンスがただ発狂していた。パワーもアクションもそこにはあった。だが、俺は自分の音楽を聴きたいと思った。もう同じ音楽じゃなくなっていたんだ」

 

そしてB12は、本人たちが言うところの「当時台頭しつつあったスピーディーで複雑な音楽へ寄せた作品」だった、最後のEP「3EP」をWarpからリリースすると、Josh “Posthuman” Dohertyに促されて2007年に復活するまで、活動を休止させた。その復活ライブで、RutterとGoldingがハードウェアを大量に使用したライブを終えたあとにPlaidのEd Handleyが登場し、簡単にラップトップをミキサーに繋いだ様子は、当時の象徴のように感じられた。

 

あとがき

 

今回のエレクトロニック・ミュージックの歴史に登場したすべてのアーティストたちには、ここで触れた内容よりもディープなストーリーがあり、彼らの大半は、後年に更なる実績を残している。Mark Broomはテクノシーンを中心に多作な活動を続けており、最近では、James RuskinとThe Fear Ratio名義で、複雑なエレクトロニカのセカンドアルバムをリリースしている。StasisはSoul 223名義で温かいトーンのスローなディープハウスを展開したあと、ダウンテンポへと進んでいった。また、Baby FordはPerlonなどからの一連のリリースによって、ヨーロッパのミニマルハウスシーンの重要アーティストのひとりとなり、PlaidはWarpと近い距離を保ちながら、彼らの特徴であるメロディックなエレクトロニカを更に進化させている。Kirk Degiorgioもジャズ寄りのサウンドとテクノのバランスを取りながら、様々なプロジェクトと名義で活動を続けており、最近ではPlanet EからKorrupt Data名義でのEPをリリースしている。

 

今回のような記事の欠点は、すべてのストーリーを語り切れないことにある。1990年代初頭のUKテクノには他にも数多くの重要なアーティストやレーベルが存在した。Dave Clarkeと彼のレーベルMagnetic North、一時期大ヒットとなったDave AngelのR&Sからの作品群、Aubrey率いるSolid Groove、バーミンガムでタフなミニマリズムを推進させたSurgeon、Regis、Female、不安定なテクノを打ち出したChristian VogelとNeil Landstrumm、Bedouin AscentのRising Highからのリリース群、Russ GabrielのレーベルFeroxとその周辺で活躍したAffie Yusuf、Ian O’Brienなどのアーティスト、『Journeys By DJ』シリーズの1作目を担当したBilly Nasty、フリーパーティカルチャーに大きな影響を与えたSpiral Tribeなどが存在したが、ここでどれだけ多くのアーティスト名を挙げようと、エレクトロニック・ミュージックの発展に大きな影響を与えたアーティストの数はそれを上回る。

 

 

 

"世間はムーブメントの一部だったと考えているが、俺たちはそう思ってなかった。ただ面白いから音楽を作っていたんだ"

- Steve Rutter(B12)

 

 

 

また、今回焦点を当てているこの特定のサウンドやシーンだけに限定してみても、大半のアーティストたちは、ムーブメントの一部として活動していたというよりも、好き勝手にやっていただけだと感じている。「まず音楽ありきで、そこからシーンが発展していったと感じているんだ」Andy Turnerは説明する。「ジャーナリストたちはシーンとして勝手にまとめたがるが、俺たちは、自分たちを特定のスタイルの音楽を作らなければならないアーティストだなんて考えていない」

 

この個人主義的な考えを一番上手くまとめているのがSteve Rutterの発言だろう。「世間はムーブメントの一部だったと考えているが、俺たちはそう思ってなかった。ただ面白いから音楽を作っていたんだ」 − どんな考えがあったにせよ、UK史上最もオリジナル性に溢れ、心温まるタイムレスなエレクトロニック・ミュージックを生み出した彼らの間には、否定できない繋がりがあった。この音楽がより一般的で名の知れた存在の影に隠れ見過ごされる時もあったかも知れないが、今回のストーリーが、このエレクトロニック・ミュージックの紆余曲折の歴史におけるエキサイティングな瞬間にいくばくかの光を当ててくれればと思う。

 

トップ画像: 『Tequila Slammers and the Jump Jump Groove Generation』WARP LP10