1. 弊ブログでは、『温故一九四二』((劉震雲/劉燕子訳『温故一九四二』中国書店、二〇〇四年)について、幾度か取りあげてきた。 これは、河南の大飢饉(人災が引き起こした大災害)により、約三千万の人口の一割が餓死するという悲惨な状況の中を進駐した日本軍が難民に軍糧を供出し、救援することで大災害を終息させた歴史をめぐる実録小説である。 実録であるとは言え、小説であるため、日本側の文献(『戦史叢書一号作戦(1)河南の会戦』(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、一九六七年)などと比較考察し、それが史実に基づき、登場人物の言動に作家としてのイマジネーションを付加し、文学的価値を高めたものと確認できる(それを考慮すれば、歴史認識に関して注目すべき意義を有する)。 2. 昨日、台北の書店で『1942飢餓中国』(孟磊、関国○、郭小陽編著、劉震雲専家顧問、華品文創、台北、2013年)を見つけ、ザッと立ち読みした。 その第一章では、蒋介石率いる国民党軍の無差別破壊「焦土作戦」の一つ「黄河決壊(花園江決堤)事件」(火の対極の水だが同類)について述べられている(pp.16ff) 日本軍は南京に進駐した後も国民党軍を追撃した。これに対して、国民党軍は一九三八年六月、「黄河決壊事件」を実行した。現在では、国民党軍が日本軍に打撃を与えるべく意図的に黄河を氾濫させたことが明らかになっているが、当時、蒋介石政権(重慶)は、決壊は日本軍によるものだと宣伝した。 この大規模な破壊(人災)の被害は甚大で、自然環境が荒廃してから四年後、一九四二〜四三年、河南省を中心に干害とイナゴの虫害が複合した大災害が起きた。 ところが、蒋介石政権は「焦土作戦」に止まらず、過大な課税、徴発、徴用を押し進め、その結果、民衆はますます疲弊し、大飢饉が起きた。蒋介石政権は救援や復興など全く考慮されず、わずかに外国人の宣教師たちのボランティアの救援活動しかなかった。 それは焼け石に水の如く、この人災と天災の複合的大災害はいつ終息するか、全く展望の持てない絶望的な状況が続いていたが、先述したように日本軍が軍糧を供出して飢餓難民を救援し、大災害を終息させた。 この史実を実録小説としたのが『温故一九四二』で、『1942飢餓中国』は資料的に再確認させる文献である。 3. ところが、この時期、アメリカでは、『タイム』誌1943年3月1日号の表紙には宋美齢(蒋介石の妻)の肖像が掲載されるなど、蒋介石夫妻をヒーローに祭り上げて助勢するプロパガンダを展開していた(『1942飢餓中国』p.146にコピーが収録)。このジェノサイド的な無差別破壊作戦を黙認したどころか、プロパガンダで助勢した道義的な責任は、歴史に明確に記録されなければならない。 4. これから日本は積極的平和主義、集団的自衛権という路線に沿って、国際社会で新たな責務を担うようになる。かつて「河南の会戦」は、暴政による人道的な危機に対する人道的介入、人道支援の側面(部分)もあると、再考する意義を有している。 しかし、中国(蒋介石側)とアメリカのプロパガンダにより「侵略」が全面に押し出され、その歴史認識が一面的である。救済したことが正当に評価されないどころか、忘れられている。 この歴史を再評価しつつ、当時のプロパガンダにかき消されたことをしっかりと教訓にしなければならない。 5. 『1942飢餓中国』の書棚には、『1942河南大飢荒廃』(宋致新、増訂本、霊活文化、台北、2013年)もあった。これは宋致新編著『1942河南大飢荒』(湖北人民出版社、2005年)の増補版であり、『温故一九四二』や『1942飢餓中国』を補強するものである。 |
<< 前記事(2014/09/14) | ブログのトップへ | 後記事(2014/09/15) >> |
タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
---|
内 容 | ニックネーム/日時 |
---|
<< 前記事(2014/09/14) | ブログのトップへ | 後記事(2014/09/15) >> |